占い師シロスズ

豆狐

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呪詛の徳利

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お酒も飲んでいないのに頭がぼんやりとしている。
昨日は仕事でミスを連発して上司から叱られてしまったし、嫌なことばかりだ。
こんな時はさっさと寝てしまうに限るのだが――。
(眠れない……)
明日も仕事だというのに、どうしても目が冴えてしまっていた。
時計を見ると午前2時を過ぎた頃だった。
まだ1時間しか眠っていないのかと思うと気が重くなる。
どうせなら朝まで起きていた方が得かもしれないなと思いながら寝返りをうつと、窓の方からコツコツという音が聞こえてきた。
「なんだ?」
僕は布団から出て立ち上がり、カーテンを開けて外を見た。
そこには全身真っ白な猫がいた。
いや、よく見ると猫ではないような気もする。
なんだろう?
目が大きいところなどは猫っぽいのだが、体はどちらかと言えば犬に近い感じがした。
それに尻尾が妙に太い。
そんな生き物が狭いベランダの手すりの上に、まるで人間のように二本足で立っている。
さらに奇妙なことに、その白い生き物は大きな風呂敷包みを背負っていた。
何が入っているのか分からないけれど、かなり大きいものに見える。
僕にはそいつが何なのか分からなかったけれど、おそらく猫ではなかった。
窓ガラス越しに見えるそいつは、まるでそこに立っていることが当然のように堂々としている。
だが、不思議と恐怖心はなかった。
ただただ興味深く、その謎の生き物を見つめる。
謎の生き物も大きな目をくりっと動かして僕の方をじっと見つめ返してきた。
やがてそいつはゆっくりと手招きするような仕草をしてみせた。
その姿はどこかユーモラスであり、可愛らしいとも言えるものだった。
だからだろうか、僕はつい誘われるように窓の鍵を開けると、そのまま部屋の中へ招き入れてしまったのだ。
謎の白い生き物は、ひょいっとジャンプして部屋に入ると背負っていた風呂敷包みを床に下ろした。
それから僕の方を見て言った。
「こんばんは」
少し低めの女性の声だった。
「あ……こ、こんばんは……」
思わず挨拶を返してしまった。
すると謎の生き物は微笑みを浮かべた。
顔立ちそのものは綺麗な猫のようなのに、なぜかぞっとするような不気味な笑顔だった。
「驚かせてごめんなさいね。でも大丈夫よ。別にあなたを取って食べたりなんかしないわ」
そう言って謎の生き物は笑った。
歯並びの良い口元から、鋭い牙のようなものが見えた。
「はぁ……」
僕は曖昧な返事をした。
正直なところ、現実感が薄れて夢の中にいるような気分になっていた。
目の前にいるこれは猫なのだろうか?
もしかしたら妖怪とか化け物の一種なのではないだろうか?
だとしたら今すぐにでも逃げ出さなければならないはずなのに――なぜだか僕は動けずに立ち尽くしていた。
「あら、緊張してるみたいねぇ……。うふふ、可愛いわねぇ」
その生き物は楽しそうな声で言うと、こちらに向かって一歩踏み出した。
その瞬間、僕はようやく我に返り、慌てて後ずさりした。
謎の生き物は悲しげな表情を一瞬だけ浮かべたが、すぐに元の余裕のある笑みを取り戻した。
「そんなに怖がらないでちょうだい。何もしないってば」
謎の生き物は両手を上げてひらひらさせた。
まるで降参するような格好だ。
「……」
僕は黙っていたが、内心では混乱していた。
この生き物の言うことを信用しないわけではないが、いきなり見慣れぬものが部屋に上がり込んできて平静を保つというのは難しいことだ。
「あの……どちら様ですか?」
僕はやっとそれだけを口にした。
「ああ、申し遅れましたね。私は占い師のシロスズと言います」
占い師のシロスズはそう名乗るとペコリとお辞儀をした。
その動きに合わせて太い尻尾がゆらりと揺れる。
不意に、こいつは猫ではなく狸なのではないかと思いついた。
確かに耳の形も猫とは異なっている気がするし、尻尾が太いのも猫にはない特徴だ。
「占いですか……」
僕が呟くように言うと、シロスズはこくりと首肯した。
「ええ。私のことは気軽に『先生』と呼んでくださいね」
「はぁ……」
どうにも反応に困ってしまう。
そもそも占い師というものに馴染みがないのだ。
「それで、その先生がどうしてこんなところに?」
僕が尋ねると、白たぬき――いや、占い師のシロスズ先生は風呂敷包みの結び目を解きながら答えた。
「いえね、ちょっと近くを通りかかったら、お宅の部屋から悩める若者のオーラを感じたものですから」
「悩み……」
「はい。何か思い当たる節があるんじゃないですの?」
「……」
僕は沈黙するしかなかった。
確かにここ最近、会社でうまくいかないことが続いているせいで落ち込んでいたからだ。
「まあ、座りなさいな」
シロスズ先生は僕を椅子へと促すと、テーブルの上に風呂敷包みの中に入っていた品々を広げ始めた。
それは小さな水晶玉であったり、古びたタロットカードであったりした。
さらに見たこともないような形の道具もある。
「これ、なんですか?」
僕は興味本位で尋ねてみた。
「これはダウジング用のロッドですね」
「ダウジング?」
「地下水脈を探すための装置です。この棒を使って地面の下を探るんですよ」
「へぇ……」
「まあ、今は必要ないですけど」
シロスズ先生はそう言いながら、テーブルの上に置いてあったひょうたんを手に取った。
それから軽く振ってみせる。
すると、中に液体が入っているのか、ちゃぷんと音を立てた。
「それは何ですか?」
僕は尋ねた。
「これは『呪詛の徳利』と呼ばれているものよ」
「じゅそ……ですか?」
「ええ。簡単に言えば、人に害をなす呪いの言葉を吸い込んで封じ込めるものですよ」
「つまり……悪霊みたいなものをですか?」
「うーん……近いと言えば近しいけれど、本質は少し違うわね。怨霊とか悪霊っていうのは人の感情の塊のようなものだけれど、これは力を宿した言葉そのものが封じられているのです」
「はぁ……」
「例えば、誰かのことを憎む気持ちから生まれた言葉。思いが強ければ強いほど、その言葉は強い力を持つことになるわけね」
「なるほど……」
「そして、その力を宿した言葉を吸い込んでゆっくり熟成させれば、とてもおいしいお酒が出来るのです」
シロスズ先生は得意げな顔で言った。
僕は思わず苦笑してしまった。
まさか酒を造っているとは思わなかったのだ。
「あら、面白い冗談だと思ったかしら?でも、本当の事ですからね」
シロスズ先生は真剣な口調で言うと、徳利の栓をポンと抜いて、その口を僕の方に向けながら言った。
「うふふ……じっとしていらしてね」
シロスズ先生はどこかうっとりとした表情を浮かべていた。
すると、いきなり僕の口から耳を覆いたくなるような罵詈雑言があふれ出してきた。
会社での嫌な出来事や日常の不満に対して、ひたすら文句を言い続けるのだ。
その声音は自分とは思えないくらいに醜く、聞くに堪えないものだったが、不思議と止めることは出来なかった。
「あらあら……大変ねぇ……」
シロスズ先生はそんな僕の様子をうんうんと頷きながら楽しそうに見つめていた。
あまりに汚らしい言葉で悪態をついたからか、僕は吐き気を覚え慌ててトイレに駆け込んだ。
ようやく落ち着いてきたのを見計らって部屋に戻ると、シロスズ先生が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫?」
そう言いながらも、口元は笑っていた。
どう見ても、こちらの反応を見て楽しんでいるようにしか思えない。
「はい……。なんとか……」
僕は力なく答えた。
「すっきりしたでしょう?」
「ええ、まぁ……」
確かに先程とは一転して気分は良いし、むしろ頭も冴えているような気がする。
「あなたは今、心の中の悪いものを呪詛として吐き出したのよ」
「えっ……」
「それをこの徳利がすべて力のある言葉として吸い込みました」
シロスズ先生は落ち着いた声で説明してくれた。
僕はその話を黙って聞いていた。
正直に言うと半信半疑ではあったが、実際にさっきまで心の中に渦巻いていた嫌な感情はすっかり無くなっていた。
「人を呪い世の中を呪えば、それはやがて自分に帰ってくるものだけど、こうして全部徳利が吸い込んでしまったから、もう何も問題ないわよ」
シロスズ先生は自信に満ちた表情でそう語った。
「はぁ……」
僕は曖昧に返事をした。
なんだか狐につままれたような感じだが、とりあえず嘘をついているようにも思えない。
シロスズ先生はちゃぷんちゃぷんとひょうたん徳利を振りながら、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
僕はその可愛らしい口元から見える牙に一瞬ゾクリとしたが、すぐに目を逸らした。
「今夜はいいお酒が飲めそうだわ」
シロスズ先生は上機嫌な様子で、テーブルの上のものを風呂敷包みに片付け始めた。
そして風呂敷包みを背負うと、ひょいっとジャンプしてベランダの手すりに飛び移った。
あまりにすばやい動きだったので、僕にはシロスズ先生が目の前から消えたように見えた。
それから僕に向かって、「お大事に」と言い残すと、その場で本当に消えてしまった。
僕はしばらくの間、呆然としていたが、やがて我に返ると慌てて窓の外のベランダに飛び出した。
しかし、アパートの敷地内は静まりかえっており、どこを探してもシロスズ先生の姿を見つけることはできなかった。
仕方なく部屋に戻ってみると、テーブルの上に一枚のもみじの葉が置かれていることに気がついた。
そこには墨で書いたような達筆な文字でこう書かれていた。
『ごちそうさま。また遊びに来るわね』
僕は呆然ともみじの葉を見つめていた。

翌日、出勤してからも、あのシロスズという占い師のことばかり考えていた。
そもそも彼女(?)は何者なんだろうか? 妖怪の類だと言われても納得してしまいそうになる。
それにしても、占い師と言っていたが占いはしなかったな。
結局、あれは何だったのだろうか? 今でもよく分からない。
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