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第10章

彩芽、盗まれる

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「はぁ~~~」

 温い。
 彩芽は気持ちはいいが、物足りないと思った。

 プールの様な浴槽に張られた湯船に浸かり、極楽とまではいかないまでも一息つく。

 ストラディゴスの背中を洗うのは思いのほか重労働で、彩芽が背中を洗っている間にストラディゴスはさっさと自分で他の部位を洗い終わってしまったぐらいだった。

 湯船に浮かぶ胸に周囲の視線を感じるが、それはいつもの事。
 その視線が極端に少ないのは、深い浴槽の水を溢れさせて半身浴するストラディゴスの膝の上で、その腹筋や胸筋を背もたれにして彩芽が湯船に浸かっているせいだろう。
 彩芽の頭の上では、ストラディゴスが周囲に対して彩芽を嫌らしい目で見るなと、無茶な要求を視線で送っているのだ。

「ねぇ、後でパンツが欲しいんだけど」
 ストラディゴスを顎の下から見上げる形で彩芽が話しかけた。

「パンツ?」
「ズボンの事」
「アヤメはスカートよりもズボンが好きなのか?」
「スカートの方が好き?」
「まあ、な……だけど、アヤメがズボンが好きなら、その方が俺も良い」
「じゃあ、ズボンとスカート買っちゃダメ?」
 彩芽は、少し贅沢かなと思いつつも、言ってみる。

「それぐらい俺に断らないで買えば良いだろ」
 あっさりと許される。
 多分、よほど無茶を言わない限り許してくれるだろうが、甘え過ぎは良くない。
 それに、買っていいかと聞いて、勝手に買えばいいと言う答えはいただけない。

「そうかもしれないけどさ、相談したかったの」
 後頭部で巨人の胸をコツリと押す。
 ストラディゴスは彩芽を膝に乗っけて、その身体の体温から感触まで知っているのに、後頭部での一押しの方がドキリとした。

「そ、そう言う物なのか?」
「今まで女の子と一緒に買い物した事とか無いの?」
「さっきのを除いてか? 言われてみれば無いな。贈り物を買った事ぐらいはあるけどよ……」

「誰に?」

 彩芽に言われ、ストラディゴスは女の子と買い物に行った事を思い出した。

「いや、一回だけあった」
「誰? 誰?」
「このあいだお前だと思って、変身したハルコスを市場に連れて行った」
「それって、私がさらわれてる時?」
「そうだ」
「何買ったの?」
「煙草」

「……私って、タバコばっか吸ってるイメージある?」
「まあな」

 彩芽はこの世界での自分の行動を思い返す。

 初対面でタバコの火を求めていた辺りから、イメージが固まって行ったのだろう。
 考えてみれば、タバコ吸って酒飲んで、食って寝てと言う生活だった気が今更ながらしてくる。
 まずい……

 それに、今まではタバコを吸っても自分の寿命が微妙に減って、肺癌のリスクが高まるぐらいで、気にして来なかった。
 だが、今は違う。
 今さっき、その意識を変えなければならない会話があった事を思い出した。

「……わかった。禁煙する」
「……禁煙?」
「タバコ吸わないって事」
「なんで?」

 彩芽の突然の禁煙宣言に、ストラディゴスは狼狽える。
 何か自分が彩芽の気に障る事を言ったのでは無いかと。

 だが、彩芽がまた後頭部をコツンとストラディゴスの胸に当て、見上げる顔を見ると、別に怒っている訳でも無いらしい。

「ストラディゴスも禁煙」
「俺は構わないが、アヤメは無理しなくていいんだぞ」
「ううん、禁煙しなきゃ」
 そう言うと、彩芽はストラディゴスの膝の上で座っている向きを変え、向かい合う様に座った。

「私のいた世界ではね、タバコは身体に悪いのが常識だったの。吸うと早死にするって」
「そうなのか? なら、何で吸ってたんだ?」
「吸ってる時だけ気が楽になるじゃん」
「もう、いらないのか?」
「だって、ストラディゴスと一緒にいると楽しいし」

 彩芽の言葉に、ストラディゴスは目の前の女性がより一層、愛おしく感じた。
 酒に酔っていなくても、無邪気で無垢な笑顔を変わらずに自分に向けてくれる、足りない自分を完全にする存在。
 ストラディゴスが彩芽に対して、一種の崇拝に近い情を募らせていると、彩芽は更に言葉を続ける。

「長生きして、長く一緒にいたいから」

 ストラディゴスは、長生きと言う考えを今まで持ったことが無かった。
 どこかの戦場で、死ぬまで戦う事、それが人生だと思っていた。

 長く生きれば、それだけ長く一緒にいられる。

 言われてみれば当たり前の事である。
 でも、戦場で生き残る事が長生きで、持っている寿命の限界まで生きようなんて発想自体が無かったのだから仕方が無い。
 どっちみち老いれば戦えなくなり、誰かに殺されるだけ、それが今までの人生観だった。

 それは、変えていかなければとストラディゴスは思う。

「……俺もだ」



「あと、タバコってね」

 彩芽はストラディゴスの膝の上で立ち上がると、耳元で囁く。

「……赤ちゃんに良くないんだよ」

 彩芽の言葉に、ストラディゴスは年上のお姉さんに誘惑された無垢な少年の様な顔で赤面していく。
 すると、彩芽が立つストラディゴスの膝の間、腰に巻いた布越しに水面下でせりあがる大きな影が動くのが見えた。

「エッチ」

 手ブラのまま、悪戯に笑う彩芽に対してストラディゴスは「どっちがエッチだ」と口まで水中に沈む。
 ジト目で彩芽を、顔を真っ赤にしたまま見るが、彩芽は恥ずかしそうなストラディゴスを見て楽しそうに「うしし」と笑うのをやめない。
 ストラディゴスは水に沈んだまま身体を小さくたたみ、恥ずかしそうに体育座りをして足を抱えた。
 これでは、落ち着くまで湯船からは出られそうもない。



 * * *



 二人が、そんな事を仲良く浴槽でやっていると、更衣室の方から騒がしい声が聞こえて来た。

「財布が無くなってる!」

 そう言って騒ぐ声が一つ響くと、何事かと人々が集まり、公衆浴場を狙った泥棒があったと分かる。

 動きたくても動けないストラディゴスを置いて、タオルで前を隠した彩芽が見に行くと、大勢の客が「俺もやられた」「私のも無い」と騒ぎ、泥棒被害は一件だけでは無いらしい。

 彩芽が嫌な予感の中、自分とストラディゴスの荷物が入っていたロッカーの様な鍵付きの棚を見に行くと、鍵が開いているでは無いか。

 慌てて中を見ると、服はあるが財布だけ無くなっていた。
 中身は、確か五百フォルト分の銀貨と端数の銅貨を入れていた筈であった。

 旅先で五万円入った財布を盗まれれば、かなり痛い。
 五万円と言えば、彩芽が暮らしていたアパートの一ヵ月分の家賃とほぼ同じである。

 彩芽が悔しい思いをしていると、ようやく湯船から出られる姿となったストラディゴスが追ってくる。

「どうした? 何か盗まれてたか?」
「うん、財布が無くなってる」
「財布の他には?」
「今から見るけど……」

 ストラディゴスが自分も確認しようと服を着ていきながら、荷物を確認していく。
 彩芽も仕方が無いと服を着始める。

 さっさといつもの服に着替えた彩芽がストラディゴスの方を見ると、一度着た服を脱ぎ始め、焦りを見せながらあらゆる服の隙間やポケットまで入念に調べている姿があった。

 彩芽は、スマホを家に忘れて、駅の改札で気付いた自分と同じ顔をする巨人に気付く。
 この顔は、大事な物を無くした時の顔である。

「何か無いの?」
「……書簡が無い」
「え?」
「オルデン公とアコニーに貰った書簡が消えちまった」
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