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第1話「家出令嬢、釣り竿を握る」
しおりを挟む「もうたくさんですわ!」
セレナ=アーデルハイドは、真紅のドレスの裾を大きく翻しながら、晩餐会の煌びやかな会場を飛び出した。揃いも揃った貴族たちの驚きと戸惑いの視線を背中に感じながらも、彼女は気にも留めない。
名門アーデルハイド侯爵家の一人娘として、物心ついた頃から“完璧な令嬢”であることを求められ続けてきた。その結果が今夜のような窒息しそうな社交場だとすれば、もう十分だった。
シャンデリアの光も、取り繕った笑顔も、誰と婚約すべきかを遠回しに探る会話も、すべてが鬱陶しい。
「わたくし、誰かの飾りではありませんの!」
夜風が肌をなでる中庭に飛び出し、セレナは一気に呼吸を整える。白い息が舞う。手袋越しに胸に手を当てると、心臓の高鳴りが指先に伝わってきた。
怖くないと言えば嘘になる。でも、それ以上に、この息苦しさから抜け出したいという気持ちのほうが強かった。
彼女が駆けて向かったのは、邸宅の裏手にある厩舎前。そこには、一台の馬車が停められていた。装飾は控えめながら、用意のよい旅装備がすでに積み込まれている。
御者席には、背筋の伸びた初老の男性が座っていた。白髪交じりの髪と鋭い目つき、それでいてどこか慈愛を感じさせるその男は、ギルバート=クラウザー。アーデルハイド家に長年仕える執事であり、セレナにとっては親以上に心を許せる“人生の指南役”とも言える存在だった。
「お嬢様……まさか本気で」
ギル爺の低く重い声が、夜気に溶ける。
「ええ、本気よ。こんな退屈な生活、もう我慢ならないの」
セレナはそう告げると、ためらいなく馬車の扉を開き、滑り込むように乗り込んだ。その横顔に、もう迷いはなかった。
ギル爺は一度大きくため息をつき、そして御者席で手綱を握り直す。「まったく……」と呟いたその声には、困惑と、どこか期待のような響きが混じっていた。
こうして、令嬢セレナの唐突な家出劇は、静かに、だが確かに始まったのだった。
* * *
三日が経過しても、セレナの心は晴れなかった。王都の喧騒から遠ざかるにつれ、確かに息苦しさは和らいだ。しかし、その代わりにぽっかりと空いたような静けさが、胸の奥に居座っていた。
「本当に、何をすればよかったのかしら……」
窓の外に広がる、どこまでも続く緑と小さな畑の風景。羊がのんびり草を食むその光景を、セレナは頬杖をついて見つめていた。
自由を手に入れたはずなのに、何も満たされていない。行き先も決めていなければ、目的もない。いつまでも退屈と苛立ちがじわじわと忍び寄ってくる。
「ギル爺、次の町には……何があるの?」
「さあ、旅の流れ次第ですな。風任せ、水任せの放浪です」
「放浪ですって……貴族が放浪なんて、ほんとうに滑稽な話ですわね」
セレナは自嘲気味に笑った。彼女の視線は馬車の外へと再び向き、何気なく通り過ぎる川辺に目をやる。そのときだった。
木陰の下、静かに座って釣り糸を垂れる一人の少年の姿が目に飛び込んできた。
「……あれ、何をしているのかしら?」
水面に映る空の色と、少年の無駄のない動き。風に吹かれて揺れる麦わら帽子。彼の姿は、セレナにとって見慣れぬ“自然”そのものだった。なぜだか胸がざわめいた。
「止めて。馬車を止めてちょうだい!」
唐突な命令にギル爺が目を見張るより先に、セレナは馬車の扉を押し開け、草むらをかき分けて少年のもとへと駆け出していた。
「そこのあなた、それ、わたくしにもやらせなさい!」
いきなり現れたドレス姿の令嬢に、少年——アルはあっけに取られた表情を見せた。
「は? 釣りって……お嬢ちゃんが?」
「そうよ。やってみたいの。わたくし、興味があるのですわ」
セレナの声には、心からの好奇心がにじんでいた。風のように自由なあの姿、無心で糸を垂れる彼の背中に、何か惹かれるものがあった。だが、アルは鼻で笑った。
「無理だって。釣りってのはな、ちょっとやってみたいとかいうもんじゃねぇよ」
「失礼ね。わたくしだってやればできるはずですわ。……だって、わたくしはアーデルハイド家の令嬢なんですもの」
「……その理屈は意味わかんねーけど」
竿を借りたセレナは、見よう見まねで糸を垂らしてみる。だが、何も起こらない。魚は一向にかからず、風が通り過ぎてゆくだけ。
「うわ、へったくそ」
「なっ……黙りなさい! そんなの、初めてだからに決まってるでしょう!」
「そういうとこだよな。令嬢ってのは負けず嫌いなんだな」
からかうようなアルの言葉に、セレナの頬が赤く染まる。けれど、内心では別の感情が芽生えていた。
ただの気まぐれで飛び込んだ釣りという行為が、いつの間にか「負けたくない」という誇りにすり替わっていた。
「絶対に釣ってみせますわ。あなたが驚くくらい、大きな魚を」
彼女は再び糸を握り直した。その姿に、アルがわずかに目を細めたのを、セレナはまだ知らない。
* * *
夕暮れの陽が川面に滲み、金色の揺らめきをつくり出していた。セレナは黙々と釣り竿を握りしめ、すでに何度目かのキャストを終えていた。
アルのあざけるような視線も、ギル爺の遠巻きなため息も、今はもう気にならない。ただ浮きを見つめていた。
なぜここまで粘っているのか、理由はまだうまく言語化できない。ただひとつ、心の奥に灯った何かを、彼女自身が見逃したくなかった。
その瞬間——
「……え?」
浮きが水中に引き込まれた。次の瞬間、竿がギシギシと音を立ててしなり、セレナの身体ごと前に引っ張られる。
「ギ、ギル爺! な、何か……っ!」
「踏ん張って! 離さないで!」
駆け寄ってきたギル爺がセレナの背後から竿を支える。老体とは思えぬ力強さでその手は震えもしない。
そして、釣り糸が水面に吸い込まれ続けるその様子に、アルの目も見開かれた。
「嘘だろ……この川で、こんなのが……!」
「何がかかったか分からなくても、逃がすつもりはありませんわ!」
必死に踏ん張るセレナの視線は、恐怖でも焦りでもなく、どこか輝いていた。
(この魚は……今のわたくしが、初めて自分で見つけた証……!)
リールの軋む音が激しくなり、竿はしなりきり、糸は今にも切れそうだった。
「今だ、巻け! 一気にいけ!」
「参りますわあああああ!!」
ギル爺、アル、セレナ——三人がかりの綱引きのような格闘が始まった。
水面がばしゃあっと割れた。泥と水飛沫の中から姿を現したのは、まるで鎧をまとったような銀青の鱗をもつ巨大魚——この地方で“リヴァリウス”と呼ばれる希少な川魚だった。
「リ、リヴァリウス!? これ、村の連中が幻だって言ってたやつじゃ……!」
「そんなもの……関係ありませんわ! わたくしが釣った、それだけが真実ですの!」
最後の力を振り絞って竿を引き上げた瞬間、リヴァリウスが空中に跳ね上がり、まばゆい夕日に照らされた。
水柱が弧を描き、魚が地面にどさりと落ちる。
その静寂の中、セレナは震える腕で竿を立て直し、頬に張りついた泥と汗を手で拭いながら、声を張った。
「これが、わたくしの……最初の勝利ですわ!」
* * *
水飛沫が陽光を弾き、空高く舞い上がった。
地面にどさりと落ちたのは、銀青に輝く見事な魚体。リヴァリウス——この地方では幻とされる希少魚。その姿に、場の空気が一瞬凍りつくような静寂に包まれた。
セレナは肩で息をしながら、ぬかるんだ地面に膝をつき、手の震えを止められずにいた。ドレスは泥にまみれ、髪には水草が絡み、指先は赤く擦れていた。
それでも、彼女の顔にはひとつの涙が伝っていた。
「……釣れましたわ。わたくし、自分の手で……」
声が震えていた。それは疲労でも、驚きでもない。胸の奥から込み上げる、初めての“誇り”だった。
「すご……」と、アルがぽつりと呟いた。「お前、ほんとに……やるじゃん」
「あれだけ引っ張られて、よく竿を離さずに……」
ギル爺も目を細め、ゆっくりと頷いた。「見違えましたよ、お嬢様」
セレナは顔を上げる。涙の跡を残したまま、それでも満面の笑みを浮かべて、きっぱりと宣言した。
「わたくし、王国一の釣り人になりますわ!」
風が吹き抜ける。川のせせらぎと重なるように、笑い声がこだました。
「はあ!? 王国一!? さっきまで釣り竿も持ったことなかったくせに?」
アルが仰け反るように突っ込み、ギル爺が肩をすくめて「お嬢様らしいですな」と苦笑した。
「そうですわ。わたくし、なんでも本気で取り組むのです。だから……この釣りというもの、きっとわたくしにとっての“自由”ですの!」
「自由……ね」
アルは眉をひそめたが、すぐに小さく笑った。「ま、いいんじゃねぇの。どうせ俺もヒマだし、ちょっとくらい付き合ってやるよ」
セレナは立ち上がり、泥だらけのスカートを払った。そして誇らしげに胸を張りながら、二人の方を振り返る。
「さあ、ギル爺。旅は始まったばかりですわ! 目指すは——王国一の釣り人、ですもの!」
その目は真っ直ぐ未来を見据えていた。
こうして、名門令嬢セレナ・フォン・アーデルハイドの、前代未聞の釣り旅が幕を開けたのだった。
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