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第4話「未来への階(きざはし)」
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朝霧が森を包み込んでいた。
木々の間から差し込む淡い光が、まだ目覚めきらぬ世界をぼんやりと照らしている。鳥のさえずりも控えめで、静謐という言葉がふさわしい静けさがあたりを満たしていた。
そのなかを、三人の旅人が歩いていた。セレナ=アーデルハイド、公爵令嬢にして釣り旅の途中にある少女。ギルバート=クラウザー、通称ギル爺。彼女の指南役。そして、前日出会ったばかりの男、ロラン・ハーゲン。かつて“黒鷲の副官”と呼ばれた男である。
「……本当に、ここを抜けた先に湖があるのですの?」
セレナは、緑のアーチのように頭上に覆いかぶさる枝葉を見上げながら尋ねた。落ち葉で埋まった獣道は頼りなく、馬車を残してきたのが正解だったとギル爺が何度も口にするのも無理はない。
「あるとも。ただ、誰もが簡単に辿り着けるような場所じゃない」
ロランが低く応えた。口数は少ないが、歩みは確かで、その背には地図にも載らぬ森の道を知る者の風格があった。
セレナは少し歩調を速めてロランの横に並ぶ。
「湖って……どんなところなのですか? 普通の湖、ではないのでしょう?」
ロランはふっと鼻で笑った。
「“ノクタルディス”の話を知ってるか?」
「ノクタルディス……何だか、おとぎ話みたいな名前ですわね」
「幻の魚だ。全長は三十センチほど、黒曜石を溶かして練り上げたような青黒の体に、鱗は光の加減で銀に光る。そして、なにより特徴的なのは目だ。右は金、左は墨のような深い黒。まるで昼と夜を一つに抱いたような、そんな魚さ」
セレナは目を輝かせた。
「まるで、天と地の狭間にいるかのような……そんな存在ですわね!」
ロランはその熱量にわずかに驚いたように目を細めた。
「……ノクタルディスは、この先の湖に棲むとされている。だが、釣った者の話は一度として確認されたことがない。針にかかっても糸を切る。水面に現れても幻のように消える。ある老人は“湖の精霊が化けたもの”とも言っていたな。釣った者の“心のまま”に姿を変え、言葉を残して消えるとも」
「言葉、ですの?」
「そう。“言霊”だ。釣り人の心に何かを残し、そしてまた湖に帰っていく。……馬鹿げた話だと思うか?」
セレナはかぶりを振った。
「いえ、とても素敵ですわ。だって、釣りって、そういうものですもの。見えないものを信じて、待って、受け止めて……時には何も得られなくても、次に繋がる何かをくれる」
ロランは返事をしなかった。だがその横顔には、昨日にはなかった微かな柔らかさがあった。
ギル爺が少し後ろから笑みを浮かべてつぶやく。
「お嬢様には、風をも味方にする力がある……ですかな」
森は徐々に開けてきていた。空が近づき、風が少しずつ湿気を帯びてくる。湖が近い。
その気配に、セレナの胸が自然と高鳴っていた。
どんな水面が待っているのか。どんな出会いがあるのか。そして、幻の魚は本当に存在するのか。
“未来への階”——そんな言葉が、セレナの脳裏をかすめた。
何かが変わる。そんな予感が、朝の空気に漂っていた。
* * *
湖は、まるで森がその胸に隠していた秘密の一部だった。
木々の切れ間から現れた水面は、朝の光を柔らかく受け止めていた。水は青でも緑でもなく、空の色すらも写し取ったかのような透明さを持ち、静かに波打っていた。さざ波が小石に触れる音は、遠い鐘のように澄んでいた。辺りに漂う湿った苔と若葉の匂いが、旅の埃をすべて洗い流していくかのようだった。
「……ここですのね」
セレナが思わず呟く。声が水に吸い込まれるように消えていった。
「そうだ。ここが……“あの魚”のいる湖だ」
ロランの声もまた低く抑えられていた。彼にとっても、特別な場所なのだと、セレナは肌で感じた。
湖のほとりに腰を下ろし、セレナは釣竿を手に取った。昨日ロランに作ってもらった竿ではなく、自分の“戦竿”を取り戻しての初陣。慎重に糸を垂らす。
だが、静寂が続いた。
「……まったく反応がありませんわね」
「焦らないことだな。魚も気配に敏感だ。お嬢様の心が“焦げて”見えるのかもしれんぞ」
「誰が焦げてますのよ!」セレナはむっとして睨みつけたが、その表情にはどこか楽しげな色が混じっていた。
ロランがふと腰を下ろした。
「……何年ぶりだろうな。こうして竿を持つのは」
彼の手が、古ぼけた竿を丁寧に扱う。かつての相棒が使っていたものに似た作り。手慣れた仕草で仕掛けを整えるその姿には、微かに昔の自分を取り戻そうとする意志が見えた。
「で? 黒鷲の副官様の腕前とやら、拝見させていただきますわ」
「やれやれ……釣る前からプレッシャーがひどいな」
ロランは苦笑しながら竿を振る。糸が空を切り、鏡のような水面へ吸い込まれる。その直後――
「うぐっ、引いた!? いや、ちょっ、早……! え、え、ギル爺、どうすれば――」
「竿、竿が折れますってば!?」
セレナが隣で腹を抱えて笑い出す中、ロランは慌てて竿を引き戻し、見事にバランスを崩して尻もちをついた。水しぶきが跳ね、森の静寂が破れる。
「……やれやれ、これが再デビュー戦とはな……」
「ふふっ、思い出しますわね。わたくしも最初は、池に落ちましたもの」
ロランは苦笑しつつ、空を見上げた。枝葉の隙間から差す光が、水面に反射して揺れている。それはまるで、湖自身が何かを語ろうとしているようにも思えた。
「……不思議なもんだ。釣りをしてると……あいつが、隣にいるような気がする」
彼の声は、思い出に沈むような柔らかさを帯びていた。
湖が静かに波を返す。風が吹き、セレナの金の髪を揺らした。
「釣りって、何かを待つ時間ですわ。だからこそ、信じることが大切で……そういう気持ちは、きっと伝わるんですのよ」
セレナの言葉に、ロランはふと目を細めた。彼女の目は湖と同じように澄んでいて、しかし深い底に熱を秘めている。
「……信じるか」
その言葉を繰り返すように呟いたロランの声は、どこか懐かしさを纏っていた。
湖の中心に、黒曜のような光が一瞬、閃いたような気がした。
何かが始まりそうだった。
* * *
静かな湖畔に、時間だけがゆっくりと流れていた。
セレナとロランは、釣り糸を垂らしながら並んで腰を下ろしていた。湖面は朝の光を反射して、まるで静止した鏡のようにきらめいている。
「……ああ、ここだよ。あいつと最後に釣りをした場所だ」
ぽつりとロランが呟いた。
「“あいつ”?」
「ヴェルナー・レイド。俺の相棒だった男だ。北辺戦線で、命を預け合った戦友でもある。豪胆で、いつも陽気でな……口癖は“背中は任せたぜ、ロラン!”だった」
思い出しの笑みを浮かべながらロナンは語る。
「あいつは冗談が好きで、良くここでも釣りしながら笑ってた。魚は釣れるが、おまえは釣れねえ男だってな」
ロランは空を仰いだ。細くたなびく雲の隙間から、光が一筋、湖へと差し込んでいた。
「.......最後の任務でな、俺たちは敵の待ち伏せに遭った。火の粉が舞う中、ヴェルナーが叫んだ。“ロラン!逃げろっ!”……それが、最後の声だった」
彼の拳が、小さく震えていた。
「俺は……生き延びるのに必死だった。副官として部隊を守ることだけを考えていた。仲間の命を守ると誓ったくせに……相棒一人救えなかった」
セレナは黙ってその横顔を見つめていた。ロランの視線は、今もあの戦場にあるかのように遠かった。
「黒鷲の副官――なんて、笑える肩書きだよな。誇りなんて、とうの昔に湖に沈んじまったよ」
「……でも、あなたはその記憶を、ここに連れてきてくれた。忘れずに、悔やみながら、それでも進んでいる。わたくし、そういう人を“情けない”とは思いません」
セレナの言葉に、ロランの肩がかすかに揺れた。
「……変な嬢ちゃんだな、お前は」
セレナはロランに微笑みながら答える。
「変な、ではなく素敵なお嬢ちゃんでしょ?」
ロランは苦笑しながら、小さく呟く。
「......違いない」
その時だった。
水面が、音もなく揺れた。セレナの鼓童が急激に高鳴る。
次の瞬間、糸が跳ねた。
「お、お嬢様!」
ギル爺が叫ぶ。
セレナの竿が大きくしなり、竿尻を掴んだ指に震えが走る。
「来た……!」
セレナの目が鋭く細められた。湖面に、小さな波紋が連なり、光の階段のように空へと伸びていく。その中央から――ぬるりと、銀黒の魚体が現れた。
「ノクタルディス……!」
30センチに満たないその魚は、黒曜石のごとき青黒の鱗に、陽光を受けて銀の輝きを返す。右目は金、左目は墨。まさに昼と夜をその身に宿す、湖の守り神。
セレナは息を飲み、両手でしっかりと竿を握りしめた。
「あなたに、聞きたいことがありますの……」
風が止み、湖も静まる。
セレナの内心に灯るのは、迷いではなく“願い”だった。魚と糸とが、心の奥底で繋がっているような感覚。世界にふたつとない言葉が、心の奥から浮かび上がる。
――その瞬間、ノクタルディスの身が小さく震え、空中へと跳ねた。
しぶきが光に砕ける。
水滴が虹を描く中、セレナはそっと囁いた。
「答えてくださるなら……わたくしの“未来”に、ひとつ、橋をくださいな」
魚の体が、ゆっくりと空中で反転し――そして、湖に戻る。
そのとき、セレナの頭の中に、誰かの声が直接触れたような感覚があった。
それは囁きだった。水音にも似た、けれど確かな言葉。
――『未来への階(きざはし)』
光の柱が湖に射し込み、まるで天と地をつなぐ階段のように見えた。
セレナの目から、一筋の涙が流れた。
「……ありがとう」
ロランが、そっとその肩に手を置いた。もう、その手は震えていなかった。
「お前が釣ったのは、魚なんかじゃない。ヴェルナーが……俺の胸に残していった“言葉”だったのかもな」
セレナは微笑み、ロランの手の上に自分の手を重ねた。ロランの目にも穏やかな涙が見える。
「それでも、釣れたのですわ。ならきっと、“信じる”ということに意味はあります」
湖面に映る二人の姿が、光に滲んで揺れていた。
* * *
夕暮れが湖を黄金に染める頃、焚き火の炎がゆらゆらと揺れていた。
セレナはそのそばに座り、ノクタルディスから授かった“言霊”を胸の中で何度も反芻していた。「未来への階」——それは、まだ見ぬ場所への橋渡し。彼女の中で、言葉が静かに形を変えていく。
ロランが、小さな木箱を抱えて戻ってきた。中には古びた釣り具がいくつも詰まっている。丁寧に仕分けられ、手入れされたその道具たちは、長く使われていなかったにしては不思議と生きているようだった。
「……どうしたんですの? その箱」
セレナが尋ねると、ロランは静かに腰を下ろし、火の灯に照らされた顔で答えた。
「俺の、昔の道具だよ。あいつ——ヴェルナーと使ってた頃のな。使わなくなって、ずっとしまってたけど……また、出してやることにした」
彼の目は、もう過去だけを見ていなかった。
「この道具、よかったら使ってみないか? 技術だけじゃない。魚との向き合い方とか、信じることの意味とか——あんたが、今日教えてくれた礼だ。」
セレナは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐににっこりと笑った。
「ロランさん、うれしいですわ。 これでわたくしもまた一段、階段を上れる気がしますわ。」
「……きざはし、ね。確かに、そんな気がするよ。小さくても、一段ずつでも……」
ふと、湖面がまた小さく波打った。あの魚が、まだどこかで見守っているような錯覚。
「行くんだろ? 次の湖へ」
「はい。次の“言葉”を探しに。そして……わたくし自身の“未来”を釣り上げに」
ロランが立ち上がり、夕焼けを背にしたまま振り返る。
「じゃあ、送っていこうか。途中までだが、次の町までは俺が案内する。あんたがどこへ向かおうとしてるのか、少しだけ気になるからな」
「ふふ、そう言ってもらえるのは光栄ですわ」
ロランは何か覚悟を決めた顔で呟く。
「それに、俺もまた歩み出すことにした。いつまでも腐ってたらあいつも悲しむだろうからな。」
セレナはその言葉にやさしく頷く。
焚き火の火をギル爺がそっと消す。三人の影が長く地に伸びていく。
こうしてセレナの釣り旅は、また一歩“未来”へと続いていく。
空には、あの日と同じく、星がひとつ、輝き始めていた。
木々の間から差し込む淡い光が、まだ目覚めきらぬ世界をぼんやりと照らしている。鳥のさえずりも控えめで、静謐という言葉がふさわしい静けさがあたりを満たしていた。
そのなかを、三人の旅人が歩いていた。セレナ=アーデルハイド、公爵令嬢にして釣り旅の途中にある少女。ギルバート=クラウザー、通称ギル爺。彼女の指南役。そして、前日出会ったばかりの男、ロラン・ハーゲン。かつて“黒鷲の副官”と呼ばれた男である。
「……本当に、ここを抜けた先に湖があるのですの?」
セレナは、緑のアーチのように頭上に覆いかぶさる枝葉を見上げながら尋ねた。落ち葉で埋まった獣道は頼りなく、馬車を残してきたのが正解だったとギル爺が何度も口にするのも無理はない。
「あるとも。ただ、誰もが簡単に辿り着けるような場所じゃない」
ロランが低く応えた。口数は少ないが、歩みは確かで、その背には地図にも載らぬ森の道を知る者の風格があった。
セレナは少し歩調を速めてロランの横に並ぶ。
「湖って……どんなところなのですか? 普通の湖、ではないのでしょう?」
ロランはふっと鼻で笑った。
「“ノクタルディス”の話を知ってるか?」
「ノクタルディス……何だか、おとぎ話みたいな名前ですわね」
「幻の魚だ。全長は三十センチほど、黒曜石を溶かして練り上げたような青黒の体に、鱗は光の加減で銀に光る。そして、なにより特徴的なのは目だ。右は金、左は墨のような深い黒。まるで昼と夜を一つに抱いたような、そんな魚さ」
セレナは目を輝かせた。
「まるで、天と地の狭間にいるかのような……そんな存在ですわね!」
ロランはその熱量にわずかに驚いたように目を細めた。
「……ノクタルディスは、この先の湖に棲むとされている。だが、釣った者の話は一度として確認されたことがない。針にかかっても糸を切る。水面に現れても幻のように消える。ある老人は“湖の精霊が化けたもの”とも言っていたな。釣った者の“心のまま”に姿を変え、言葉を残して消えるとも」
「言葉、ですの?」
「そう。“言霊”だ。釣り人の心に何かを残し、そしてまた湖に帰っていく。……馬鹿げた話だと思うか?」
セレナはかぶりを振った。
「いえ、とても素敵ですわ。だって、釣りって、そういうものですもの。見えないものを信じて、待って、受け止めて……時には何も得られなくても、次に繋がる何かをくれる」
ロランは返事をしなかった。だがその横顔には、昨日にはなかった微かな柔らかさがあった。
ギル爺が少し後ろから笑みを浮かべてつぶやく。
「お嬢様には、風をも味方にする力がある……ですかな」
森は徐々に開けてきていた。空が近づき、風が少しずつ湿気を帯びてくる。湖が近い。
その気配に、セレナの胸が自然と高鳴っていた。
どんな水面が待っているのか。どんな出会いがあるのか。そして、幻の魚は本当に存在するのか。
“未来への階”——そんな言葉が、セレナの脳裏をかすめた。
何かが変わる。そんな予感が、朝の空気に漂っていた。
* * *
湖は、まるで森がその胸に隠していた秘密の一部だった。
木々の切れ間から現れた水面は、朝の光を柔らかく受け止めていた。水は青でも緑でもなく、空の色すらも写し取ったかのような透明さを持ち、静かに波打っていた。さざ波が小石に触れる音は、遠い鐘のように澄んでいた。辺りに漂う湿った苔と若葉の匂いが、旅の埃をすべて洗い流していくかのようだった。
「……ここですのね」
セレナが思わず呟く。声が水に吸い込まれるように消えていった。
「そうだ。ここが……“あの魚”のいる湖だ」
ロランの声もまた低く抑えられていた。彼にとっても、特別な場所なのだと、セレナは肌で感じた。
湖のほとりに腰を下ろし、セレナは釣竿を手に取った。昨日ロランに作ってもらった竿ではなく、自分の“戦竿”を取り戻しての初陣。慎重に糸を垂らす。
だが、静寂が続いた。
「……まったく反応がありませんわね」
「焦らないことだな。魚も気配に敏感だ。お嬢様の心が“焦げて”見えるのかもしれんぞ」
「誰が焦げてますのよ!」セレナはむっとして睨みつけたが、その表情にはどこか楽しげな色が混じっていた。
ロランがふと腰を下ろした。
「……何年ぶりだろうな。こうして竿を持つのは」
彼の手が、古ぼけた竿を丁寧に扱う。かつての相棒が使っていたものに似た作り。手慣れた仕草で仕掛けを整えるその姿には、微かに昔の自分を取り戻そうとする意志が見えた。
「で? 黒鷲の副官様の腕前とやら、拝見させていただきますわ」
「やれやれ……釣る前からプレッシャーがひどいな」
ロランは苦笑しながら竿を振る。糸が空を切り、鏡のような水面へ吸い込まれる。その直後――
「うぐっ、引いた!? いや、ちょっ、早……! え、え、ギル爺、どうすれば――」
「竿、竿が折れますってば!?」
セレナが隣で腹を抱えて笑い出す中、ロランは慌てて竿を引き戻し、見事にバランスを崩して尻もちをついた。水しぶきが跳ね、森の静寂が破れる。
「……やれやれ、これが再デビュー戦とはな……」
「ふふっ、思い出しますわね。わたくしも最初は、池に落ちましたもの」
ロランは苦笑しつつ、空を見上げた。枝葉の隙間から差す光が、水面に反射して揺れている。それはまるで、湖自身が何かを語ろうとしているようにも思えた。
「……不思議なもんだ。釣りをしてると……あいつが、隣にいるような気がする」
彼の声は、思い出に沈むような柔らかさを帯びていた。
湖が静かに波を返す。風が吹き、セレナの金の髪を揺らした。
「釣りって、何かを待つ時間ですわ。だからこそ、信じることが大切で……そういう気持ちは、きっと伝わるんですのよ」
セレナの言葉に、ロランはふと目を細めた。彼女の目は湖と同じように澄んでいて、しかし深い底に熱を秘めている。
「……信じるか」
その言葉を繰り返すように呟いたロランの声は、どこか懐かしさを纏っていた。
湖の中心に、黒曜のような光が一瞬、閃いたような気がした。
何かが始まりそうだった。
* * *
静かな湖畔に、時間だけがゆっくりと流れていた。
セレナとロランは、釣り糸を垂らしながら並んで腰を下ろしていた。湖面は朝の光を反射して、まるで静止した鏡のようにきらめいている。
「……ああ、ここだよ。あいつと最後に釣りをした場所だ」
ぽつりとロランが呟いた。
「“あいつ”?」
「ヴェルナー・レイド。俺の相棒だった男だ。北辺戦線で、命を預け合った戦友でもある。豪胆で、いつも陽気でな……口癖は“背中は任せたぜ、ロラン!”だった」
思い出しの笑みを浮かべながらロナンは語る。
「あいつは冗談が好きで、良くここでも釣りしながら笑ってた。魚は釣れるが、おまえは釣れねえ男だってな」
ロランは空を仰いだ。細くたなびく雲の隙間から、光が一筋、湖へと差し込んでいた。
「.......最後の任務でな、俺たちは敵の待ち伏せに遭った。火の粉が舞う中、ヴェルナーが叫んだ。“ロラン!逃げろっ!”……それが、最後の声だった」
彼の拳が、小さく震えていた。
「俺は……生き延びるのに必死だった。副官として部隊を守ることだけを考えていた。仲間の命を守ると誓ったくせに……相棒一人救えなかった」
セレナは黙ってその横顔を見つめていた。ロランの視線は、今もあの戦場にあるかのように遠かった。
「黒鷲の副官――なんて、笑える肩書きだよな。誇りなんて、とうの昔に湖に沈んじまったよ」
「……でも、あなたはその記憶を、ここに連れてきてくれた。忘れずに、悔やみながら、それでも進んでいる。わたくし、そういう人を“情けない”とは思いません」
セレナの言葉に、ロランの肩がかすかに揺れた。
「……変な嬢ちゃんだな、お前は」
セレナはロランに微笑みながら答える。
「変な、ではなく素敵なお嬢ちゃんでしょ?」
ロランは苦笑しながら、小さく呟く。
「......違いない」
その時だった。
水面が、音もなく揺れた。セレナの鼓童が急激に高鳴る。
次の瞬間、糸が跳ねた。
「お、お嬢様!」
ギル爺が叫ぶ。
セレナの竿が大きくしなり、竿尻を掴んだ指に震えが走る。
「来た……!」
セレナの目が鋭く細められた。湖面に、小さな波紋が連なり、光の階段のように空へと伸びていく。その中央から――ぬるりと、銀黒の魚体が現れた。
「ノクタルディス……!」
30センチに満たないその魚は、黒曜石のごとき青黒の鱗に、陽光を受けて銀の輝きを返す。右目は金、左目は墨。まさに昼と夜をその身に宿す、湖の守り神。
セレナは息を飲み、両手でしっかりと竿を握りしめた。
「あなたに、聞きたいことがありますの……」
風が止み、湖も静まる。
セレナの内心に灯るのは、迷いではなく“願い”だった。魚と糸とが、心の奥底で繋がっているような感覚。世界にふたつとない言葉が、心の奥から浮かび上がる。
――その瞬間、ノクタルディスの身が小さく震え、空中へと跳ねた。
しぶきが光に砕ける。
水滴が虹を描く中、セレナはそっと囁いた。
「答えてくださるなら……わたくしの“未来”に、ひとつ、橋をくださいな」
魚の体が、ゆっくりと空中で反転し――そして、湖に戻る。
そのとき、セレナの頭の中に、誰かの声が直接触れたような感覚があった。
それは囁きだった。水音にも似た、けれど確かな言葉。
――『未来への階(きざはし)』
光の柱が湖に射し込み、まるで天と地をつなぐ階段のように見えた。
セレナの目から、一筋の涙が流れた。
「……ありがとう」
ロランが、そっとその肩に手を置いた。もう、その手は震えていなかった。
「お前が釣ったのは、魚なんかじゃない。ヴェルナーが……俺の胸に残していった“言葉”だったのかもな」
セレナは微笑み、ロランの手の上に自分の手を重ねた。ロランの目にも穏やかな涙が見える。
「それでも、釣れたのですわ。ならきっと、“信じる”ということに意味はあります」
湖面に映る二人の姿が、光に滲んで揺れていた。
* * *
夕暮れが湖を黄金に染める頃、焚き火の炎がゆらゆらと揺れていた。
セレナはそのそばに座り、ノクタルディスから授かった“言霊”を胸の中で何度も反芻していた。「未来への階」——それは、まだ見ぬ場所への橋渡し。彼女の中で、言葉が静かに形を変えていく。
ロランが、小さな木箱を抱えて戻ってきた。中には古びた釣り具がいくつも詰まっている。丁寧に仕分けられ、手入れされたその道具たちは、長く使われていなかったにしては不思議と生きているようだった。
「……どうしたんですの? その箱」
セレナが尋ねると、ロランは静かに腰を下ろし、火の灯に照らされた顔で答えた。
「俺の、昔の道具だよ。あいつ——ヴェルナーと使ってた頃のな。使わなくなって、ずっとしまってたけど……また、出してやることにした」
彼の目は、もう過去だけを見ていなかった。
「この道具、よかったら使ってみないか? 技術だけじゃない。魚との向き合い方とか、信じることの意味とか——あんたが、今日教えてくれた礼だ。」
セレナは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐににっこりと笑った。
「ロランさん、うれしいですわ。 これでわたくしもまた一段、階段を上れる気がしますわ。」
「……きざはし、ね。確かに、そんな気がするよ。小さくても、一段ずつでも……」
ふと、湖面がまた小さく波打った。あの魚が、まだどこかで見守っているような錯覚。
「行くんだろ? 次の湖へ」
「はい。次の“言葉”を探しに。そして……わたくし自身の“未来”を釣り上げに」
ロランが立ち上がり、夕焼けを背にしたまま振り返る。
「じゃあ、送っていこうか。途中までだが、次の町までは俺が案内する。あんたがどこへ向かおうとしてるのか、少しだけ気になるからな」
「ふふ、そう言ってもらえるのは光栄ですわ」
ロランは何か覚悟を決めた顔で呟く。
「それに、俺もまた歩み出すことにした。いつまでも腐ってたらあいつも悲しむだろうからな。」
セレナはその言葉にやさしく頷く。
焚き火の火をギル爺がそっと消す。三人の影が長く地に伸びていく。
こうしてセレナの釣り旅は、また一歩“未来”へと続いていく。
空には、あの日と同じく、星がひとつ、輝き始めていた。
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