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計算違い(美佳の場合)

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水川美佳の引退会見。
ハチBOON ハンダユウマの会見。
ハンダの事務所に大勢の報道陣が押し掛けた。
無論、
水川美佳の芸能社にも報道陣はやってきた。
美佳の姿は依然見えない。

それらの騒ぎから五日たち、
一時は過熱した報道もおさまりかけていた。
そんな頃
水川美佳は逃避していた別荘で
所属する事務所の専務の訪問を受けていた。

別荘の豪華なガラステーブル。
その上に置かれた、
専務が持参した書類を前にして
美佳は
身体の震えをおさえることができなかった。

美「い、一億円…。」

その書類に書かれていたのは

レギュラー出演していたラジオ番組の打ち切り
新作映画のプロモーション出演の取り止め
契約してから今日までにかかった育成費用

など
契約違反における賠償金だった。
項目には、ここの別荘の使用料まで入っている。

美「こ、これを私一人で払うんですか?」
泣きそうになった。

引退したいと専務に相談した時、
確かに言われた。
いろいろと諸費用かかっちゃうけどいいかい?
と。
しかし、こんな額になるとは
言わなかった。

そのことを指摘すると
専「あの時はねェ、君がすぐに復帰してくれるだろうと」
美「ふ、復帰?」
そう話す専務の顔は、
美佳が今まで見たこともないような
なんとも言えず
悪どさのにじむものだった。
専「そう、復帰。不倫騒動がおちついたらね、復帰させればいいだろうと。私も、社長もね。」
確かに社長も
しばらく休んどけばいい。
後はどうにかすると。
そう言ってくれた。
専「けどね、春原君から聞いたんだけど。」
は、春原さんが…?
専「美佳くん、もう仕事自体に情熱がなくなっちゃったみたいじゃない。露出も嫌だとか。」

春原さんは社の人間だ。
そりゃあ、言うに決まってる。
でも、
でも…。
春原さんも専務の横にいた。
無表情の
冷たいロボットのような顔をしていた。
目も合わせてくれなかった。

専務の声が私を引き戻す。
専「美佳くんのご両親はね、二千万円までしか払えないと。そうおっしゃる。」
先に両親に言うなんて…。
二千万円、
実家の土地の値段を含めた、
うちの両親のおよその全財産だ。
専「頂いたとしても、まだだいぶん足りない。」
私は言葉も出ない。
春原さんはすっと立ち上がり、台所へ向かう。

春原さんがティーカップを揃えて戻ってきた。
紅茶なんか、いま飲む気にもなれない。

私が払えるのは二千万円ほど。

この仕事を始めてからのギャラ。
お給料。
たくさんの仕事をしてきたが、
こんな少ない額なんだ、
と思わされることが多々あった。
こんな違約料を払えるような
そんな貯金などできようがない。

専「足りないだろう?そこで相談、というかアドバイスなんだけど。」
目が光る、
なんてただの慣用句だと思ってた。
でも今の専務の目。
欲望にあやしく光っている。
専「引退するって言っちゃった今、表のお仕事は難しいよね。だから、そうじゃないお仕事を紹介したい。」

聞きたくもない…。
耳が、心が、
腐ってしまう…。
どうにもならないとわかってはいるけど、
春原さんに視線を向けてみる。
同じ女性として。助けて!

春「あなたは求められているの。すぐに払える。」

私は下を向いた。
浮かんできた涙を見られたくなかった。
「とりあえず二千万円、お支払いしますから。」

専務が帰り際に言った。
専「ここ、もうしばらく使ってていいよ。で、残りのお金は来月までかな。待ってもらうよう社長にも伝えておくから。」
私はまるで、
ズタボロのマラソンランナーのように
疲れ果てて動けなかった。

話が違った…。
私は涙も渇れて
一人たたずんだ。

別荘の入り口のドアのあたりで、
春原さんと専務が話すのが聞こえた。
専「あと、ハチBOON の事務所?あそことも損害賠償の話をするつもりだから、もし裁判になったら美佳に証言させるから。その話もしといて。」

裁判に…。
そうなったら、
ハンダさんと顔を合わせなきゃいけない。
どうなるんだろう。
今、どうしてるんだろう。
ハンダさんは。

ハチBOON の事務所は、
暗い闇のオーラに包まれていた。

 ー続くー
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