侯爵様と家庭教師

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プロローグ

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「お兄様、お話があるのですけれど」

 少し怒ったような口調の妹の声に、勘弁してくれ、とマシューは思った。

「メグ……」

 眠りを妨げようとわざと足音荒く部屋に入って来た妹を呼び止めるが、彼女は聞き入れる気はないようで、そのまま部屋の主を無視して窓際へと突き進むと、きっちりと閉められていた厚手のカーテンを一気に開け放った。暗かったマシューの寝室の中を、燦々と輝く陽射しが明るく満たす。
 眩しさに思わず目を硬く瞑り、陽光を避けるように毛布を頭の上まで引き上げようとするが、その手をメグに止められる。つい今さっきまで窓際にいたというのに、いつの間にベッドの傍まで移動して来たのか。

「……メグ」

「はい」

「眩しい」

「わかっています」

 端的な妹の口調の端々に怒りが滲んでいるのが、肌を突き刺すような痛さとなって伝わってくる。
 彼女が怒っている理由はわかっている。わかっているからこそ、マシューは頭が痛い。

「メグ」

「はい、お兄様」

「僕はついさっき帰ったばかりでね」

「存じております。一晩中お待ちしておりましたから」

 だからベッドに入った直後に部屋に入って来たのか。

「お話がありますの」

 メグは部屋に入って来たときに言った言葉を、もう一度、噛んで含めるように兄に聞かせた。
 目を閉じたままで妹の姿は見えないが、彼女が静かに恐ろしげな笑みを浮かべていることはわかる。気配がそれを存分に物語っている。
 いったいいつからこんなに強気な態度に出るような性格になったのだろうか。昔から気は強い方だったが、小さい頃は泣いてばかりいて、年の離れたマシューに意見するような性質ではなかった筈なのだが。
 観念するしかないようだ。マシューは重たい瞼を無理矢理押し上げ、横に立つ妹の顔を見上げた。

「……服を着替えさせてくれないか」

「そのままで構いませんわよ」

 平然と言い放つ妹の声に頭痛が増すような気がしつつ、仕方なく、裸の上半身を起こして枕の上へと持ち上げ、凭れ掛かった。

「なんの話だって?」

「ひと月ほど前からお願いしていることなんですけれど、ようやく聞いてくださるのですわね。嬉しいですわ、お兄様」

「……嫌味はいいよ。悪かった。早く本題を言ってくれ」

 出向いた夜会で一晩中飲み明かし、懇意の女性と戯れたあと、先程帰宅したばかりなのだ。一刻も早く眠りに就きたい。
 同じように一晩中起きていたらしいメグだが、隈ひとつ見せず、マシューとよく似た涼しげな目許で、遊び疲れて眠たげな兄を冷ややかに見下ろしている。

「リュヌを捜して頂きたいの」

 堪えきれなくなった欠伸を零したところへ、話の本題が届いた。
 滲む涙でぼやける視界で見上げると、先程までの冷ややかな表情の娘は何処へ行ったのか、そこにいたのは悲痛な面持ちの妹だった。

「リュヌ……って、お前の友達の、レディ・リュネットか?」

「そうです。この春の終わり頃からずっと連絡が取れていませんの」

 メグは一年程前に、五年間在籍した寄宿学校を卒業した。リュネットというのは、そこで出会った同級生のことだ。
 メグが生まれた頃に母親を亡くし、六年前には父親を亡くし、当時二十歳を越したばかりだったマシューが家督を継ぐことになった。彼等には他に姉妹が二人いるが、彼女達は早くに他家へと嫁いでおり、カートランド家に残っていたのは嫡男だったマシューと、年の離れたメグだけだった。
 まだ若かったマシューは、家督を継ぐという忙しさと不安の中から、年が離れている上に丁度思春期に差し掛かっていた妹の扱いに困り果て、名家の子女が多く学ぶ厳格な女学校を選び、多額の寄付金と共にそこへ十三歳になったばかりのメグを預けたのだった。
 あとから聞いた話によると、その学校はそうした家庭環境の少女達が預けられ、厳しい教師達によって教養や礼儀作法を仕込まれたあと、年頃になって縁談が纏まると連れ戻されるような、そういう場所だったらしい。
 その寂しい場所でメグが出会ったのが、船の事故で両親を亡くし、強欲な親戚に屋敷を奪われた可哀想なリュネット・スターウェルだった。彼女もまた、扱いに困った親戚によって学校へ預けられたところだったのだ。
 メグよりも二歳年下だったリュネットは聡明で、飛び級してメグと同じクラスに在籍しており、気鬱気味だったメグに熱心に話しかけてくれる優しい少女だったらしい。彼女のその優しさに助けられ、父を亡くし、見知らぬ学校に放り込まれて感じていた孤独と悲しさを克服したのだと、長期休暇で帰省したメグがマシューに語ったことがある。リュネットがいなければ、自分はこうして笑っていることなど出来なかっただろう、と。

 そんなリュネットは、屋敷を乗っ取るような親戚に追い出されるようにして入学していたので、長期休暇のときに帰省するような場所はない。それを聞いたメグが、マシューに断りも入れずに彼女を連れて帰って来たのが、初めての冬の休暇のときだった。

 降誕祭クリスマスを含むその時期は親戚の出入りも多いし、泊まっていく客人も多い。子供が一人増えたところでどうということもないし、あとは家政婦ハウスキーパーやメイド頭に任せる、とマシューは当主として社交界を飛び回っていた。

 だから、ひと月近く滞在していたメグとリュネットにきちんと対面したのは、新年も明け、あと数日で学校に戻るという日のことだった。
 メグよりもずっと小柄な少女は、さらりと流れる絹糸のような淡い金髪が目に鮮やかで、それに縁どられた白い卵型の顔はとても美しかった。あと数年して、社交界に出る頃がとても楽しみだと思えるほどに。
 その少女は、長い睫毛に隠された夜空のような濃紺の瞳をくるりとさせ、マシューに言った。

『あなたはとても酷い人です』

 幼さの残る声が、夜会明けでぼんやりとしていたマシューに向かい、そう非難したのだ。
 それがリュネットとの出会いだった。

 以来、彼女は長期休暇の度にメグに誘われてカートランド家にやって来るが、マシューに敵意を向けているのがありありと感じられていた。
 彼女の言葉は、メグを寄宿学校に放り込んで放置したことに対する非難だった。多額の寄付金があるから粗略な扱いは一切受けなかったようだが、親しい家族でもなければ父親を失った悲しさや寂しさを癒すことは出来ない。自分のように親戚からも捨てられたようなら割り切れるが、メグにはまだ兄姉が存命しているのだから、孤独を甘受出来なくて当然だ。メグと悲しみを分かち合うことを放棄したマシューを責めているのだった。
 扱いに困っていた妹を手放せて安堵していた傍ら、僅かばかりの罪悪感を抱えていたマシューは、その言葉が嫌というほど胸に突き刺さったのを覚えている。故に、リュネットという少女はマシューにとって、実に興味をそそられる人物であると同時に、少し苦手な存在でもあった。

 その彼女が、音信不通なのだという。

 女学校を卒業後、社交界に出るのなら後見人になることを申し出たのだが、彼女は自分一人の力で生きていけるように、上流階級に身を置くのではなく、職業婦人としての道を生きることに決めたという。

『私に出来ることは勉強くらいですから、教師などがいいのではないかと思いまして』

 良家の子女を指導する家庭教師ガヴァネスになるのだと、しっかりした口調でそう進路を告げた彼女の顔は、まだまだ庇護の必要な幼い少女のものだった。当たり前だ。飛び級をして卒業する彼女は、あのときまだ十五歳だったのだから。
 マシューは眠さと酒気でぼんやりとしていた頭が冷めてくるのを感じ、もっとしっかりと覚醒させようと、両の掌で顔を大きく擦った。

「彼女との連絡手段は?」

「月に二度ほど、手紙のやり取りをしていました」

 これです、とメグは兄に封筒の束を差し出した。
 宛名はもちろんすべてレディ・マーガレット・ソフィー・カートランド――メグ宛てだ。差出人もリュネットの名前で、住所はダルトン邸となっている。あまり耳馴染みのない名前だ。貴族ではないのだろう。

「中は確認してもいいか?」

 妹とはいえ、他人宛ての手紙だ。一応の確認は取るが、彼女はわかっていたらしく、黙って頷く。
 便箋には余白を惜しむように少し詰め気味に、宛名と同じく丁寧で几帳面そうだが少し丸みを帯びた文字が並んでいた。
 文面は他愛ないものだった。子供達に勉強を教えることへの戸惑いと難しさ、それを上回る遣り甲斐と喜びが綴られ、メグの体調を気遣い、社交辞令のように『お兄様にもよろしく』と結ばれていた。他の手紙もだいたいが同じ内容で、時折メグが相談したことや愚痴に対するユーモアを交えた回答があり、最後にはやはり体調を気遣う言葉で締め括られている。
 文章におかしいところは感じられないし、丁寧な文字にも違和感はない。精神的に追い詰められて失踪したとか、そういうことはなさそうだ。

「手紙が来なくなってひと月経ちまして、変だと思いましたの。だから、直接そちらのお宅へ伺いました」

 広げた手紙のいくつかを元の封筒にしまい直していると、メグがぽつりと零す。
 素直に驚いた。それなりに行動力のある妹だとは思っていたが、そういうことまでしているとは思わなかった。
 いつのことだ、と尋ねると、悲しげに「先月のことよ」との答えが返る。

「もちろん、雇い主の方にご迷惑になるかも知れませんから、使用人の通用口からお邪魔しましたのよ。服装も目立たないものにしましたし、馬車も少し離れたところで降りましたわ。リュネットが元気か確かめたかっただけですしね。それなのに……」

 言葉が尻すぼみになり、最後には唇を噛み締めて俯いた。

「どうした? なにを言われたんだ?」

 上流階級の娘が使用人に会いに来るなど、あまり褒められたことではない。リュネットも元は由緒のある貴族の出だが、その家督は親類に奪われているし、一介の家庭教師として他家に住み込んでいる身なのだから、友人だと言ってもあまり信用はされなかったのだろう。
 メグはスカートの布地をきつく握り締めると、食い縛った歯の間から絞り出すように、

「ご主人に色目を使ったから、解雇された、と……」

 と答えた。
 マシューは無言で双眸を見開き、まるで自分が侮辱を受けたように震える妹の、握り締められた拳に視線を落とした。

 まさか、という言葉しか出て来ない。
 マシューはリュネットという少女のことは、年に数回会う程度にしか知らないし、五年間毎日一緒にいたメグほどには親しくない。それでも、彼女がそんなことをするような性格ではないことくらいはわかる。寧ろ男性のことは苦手にしているようにも感じていた。

「紹介状も持たせてもらえず、追い出されたのだと聞かされました」

 それは最悪だ。紹介状がなければ、いい就職先は見つからない。
 家庭教師は斡旋所のようなものがある。新しい勤め先が決まるまではそこの寮へしばらく滞在していいことにもなっているらしいし、彼女はダルトン家を追い出されたあと、何処かの斡旋所へ行ったのかも知れない。

「お兄様」

 メグは大粒の涙を零し始めた。父親の葬儀以来見ていなかった泣き顔だ。

「リュネットを、捜してくださいませ」

「メグ……」

「大切な、大切なお友達なのです」

 メグが一番苦しかったとき、つらかったとき、支えてくれたのは年下の親友だった。彼女が一緒にいてくれたから、元の明るい自分に戻れたのだ。
 幼い少女のように泣き始めた妹を、マシューは抱き寄せる。裸の胸に零れ落ちてくる涙の雫は冷たかったが、そんなことはどうでもよかった。
 気の強い妹が、震える声で懇願する。

「どうかお願い致します。私の、最後の我儘です」



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