侯爵様と家庭教師

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24 愛に餓え、愛を乞う娘

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 新年を迎える大晦日の日、課業終了後に宴会をしていいという許可をもらっていたカートランド家の使用人達は、少々浮かれ気味だった。
 そんな彼等よりも上機嫌だったのは当主のマシューなのだが、その理由がいったいなんなのかは、従者のバーネット以外はわかっていなかった。


「リュネット」

 ハワードの許で出納台帳の確認をしていると、マシューがやって来た。リュネットは少し迷惑そうな顔をして振り返る。

「その名前では呼ばないでくださいと約束しましたよね?」

「ヴィオラが帰ってしまったのだから問題ないだろう? ヴィオラの為にっていう契約だったと思ったけど」

 確かにそういう約束だった。失敗したな、とリュネットは舌打ちでもしそうな表情になる。もっと長く効力を持つ内容にしておけばよかった。

「ちょっと外しますね」

 ハワードに断りを入れ、マシューと共に部屋を出た。

「なにかご用ですか?」

 廊下に立って向き合い、素っ気なく尋ねる。

「用というか、約束を取りつけたくて」

「約束?」

「うん。今日のお茶の時間は、僕と一緒にどうかな?」

「別に構いませんけど……」

 わざわざ言いに来るなんてよっぽどのことかと思ったが、そうでもないものだった。少し拍子抜けの気分だ。

「よかった。きみの好きな檸檬タルトを用意してもらうようにするね」

「えっ、いいですよ! わざわざそんな……ジェシカさんに悪いです」

「そう? ビットさんは気にしないと思うけど」

 リュネットがそう言うのなら、とマシューはあっさり引き下がった。
 ヴァイオレットがいるときは茶菓子は何種類か用意されていたようだが、マシュー自身はそこまで甘いものを好む人ではないので、普段はお茶とスコーンだけが用意されていることはリュネットも知っている。そして、お菓子は作り置きされているわけではないので、これから作ってもらうことになるのだ。そんな手間を増やすことはしたくない。
 廊下は部屋の中より少し冷える。リュネットは肩掛けを手繰り寄せ、これで話は終わりだろうか、とマシューのことを見上げた。

「…………まだなにか?」

 淡く微笑みながらこちらを見つめるマシューに、リュネットは怪訝な目を向ける。

「きみにキスをしていいものかどうか探っているんだ」

 その答えにリュネットは双眸を瞠り、慌てて周囲を見回した。ここは使用人達の作業スペースでもあるので、多くの人が行き交う場所である。誰かに聞かれてはいないかと心底焦った。

「ばッ、馬鹿なことを言わないでくださいっ!」

 大きな声になりそうだったのを抑えながら、ひそひそと声を落として咎める。なにを考えているのだ。

「どうして? 昨日はきみからキスしてくれたのに」

 クリスマスの夜にマシューからは触れないと約束したが、リュネットから頬にキスをしてくれた。それはつまり、これからはマシューがキスをしてもいいということではないだろうか、と微笑んだ。
 これまた慌てて周囲を見回す。奥のドアが開き、サラとアニーがやって来る姿が見えた。
 リュネットはマシューの腕を引き、階段の方へと急いで誘導する。そのまま上に帰らせるように。

「昨日のことは、忘れてください。その……魔が差したんです」

 マシューの背中を階段へと押し上げながら、あれはただの挨拶で、深い意味はない、とリュネットはもごもごと言い訳する。
 例え挨拶だとしても、今まで自分からキスなどしたことないくせに、それが理由だと押し通そうとしている――その気不味そうに真っ赤な表情がとても可愛らしいのと同時に、マシューの中の加虐心をほんのりと刺激した。初心な少女につい意地悪をしたくなる。

「じゃあ、僕も魔が差した、ってことで」

 背中を押すリュネットの手を掴んで引き寄せ、耳元で囁く。
 え、と驚いた表情になるリュネットの口に素早く唇を押し当てると、当然の如く彼女はその場に硬直した。
 殴られそうな気配を察してすぐに身を離すと、案の定、リュネットはさっきよりも真っ赤になって拳を握り締めていて、その手が顔の傍まで振り被られていた。危ない。

「――…ッ、どうして……どうしてあなたは、いつも、いつも……っ!」

 握り締めた拳をぶるぶると震わせながら、リュネットはマシューを睨みつけた。瞳が潤んでいて、顔が熟れた林檎のように真っ赤になっているので、迫力がまったくないのが残念だ。

「こんなこと、紳士のなさることじゃありません!」

「ごめんなさい、先生」

 怒りに震えるリュネットに向かい、マシューは悪戯を叱られた子供のように謝罪した。

「もうこんなことはしないから、怒らないでよ」

 まるで小さな子供のような口調で謝って来るので、馬鹿にされているような気持ちになりながらも、思わず毒気が抜かれる。握り締めていた拳を降ろし、ぽかんとマシューを見返した。

「……わ、わかれば、いいんです。わかれば」

 取り敢えずマシューの反省の姿勢を認めて頷いたリュネットだったが、次の瞬間、肩を押されて壁に押しつけられる。

「ねえ、先生?」

 僅かに背中に感じた痛みに驚いていると、マシューに見下ろされるように見つめられた。壁に押しつけられながら、頭ひとつ分も高いところから見つめられているので、妙な圧迫感を感じさせられる。

「僕にまで教師ぶるなって、前に言ったよね」

 確かに言われたことがある。教師ぶって説教をするな、と。
 だったら何故『先生』などと呼ぶのだ。やはり馬鹿にされているのか、とリュネットは柳眉を吊り上げた。
 マシューはそんなリュネットの表情すらも愛しくて、ふっと笑みを浮かべた。先生と呼べばリュネットが気を緩めるのを知っているからそう呼んだのだが、相変わらずだ。妙なところで抜けているリュネットは本当に可愛らしい。

「これからは僕がきみの教師になるだろうね」

「……は?」

 意味ありげな言い回しに首を傾げる。

「きみの知らないことを、これからひとつずつ、ゆっくりと時間をかけて教えていくよ」

 リュネットの知らないこととはいったいなんのことだろうか。
 一応、家庭教師ガヴァネスとして働くにあたって不自由しない程度の知識は身に着けているし、制度が許せば、大学にも通えるくらいの知識量は修めていると自負している。マシューから習うことなど特にない筈だ。

 怪訝そうな表情のままリュネットが固まっているので、マシューはそのまま口づけた。
 深く重なり合う熱に驚いてすぐに拒もうとするが、壁を背に抑えつけられているので無理だ。元々あまり力のないリュネットは、男性の力でこうして抑え込まれると、なかなか振り解くことが出来ない。

 未だに慣れない本気のキスは、リュネットから思考と呼吸を奪っていく。苦しくてぼんやりしてきたと思ったら、カクッと膝から力が抜けた。そのままくずおれそうになるところをマシューに支えられ、長い口づけからようやく解放された。

「本当にきみは無防備だね。そんなに隙だらけでどうするつもり?」

 揶揄うようなマシューの声に、リュネットはふらふらしながらも潤んだ瞳を向けた。

「……こん……こんな、こと……あなた以外は、しま……せん……」

「それだったら、もっと僕を警戒するべきじゃないの? 本当にきみは危なっかしくて困るよ」

 言われていることは尤もだ。この屋敷にいる人間の中で最も警戒すべき相手はマシューだというのに、何故か彼に対する警戒心があまり働かない。何度もこういう目に遭わされているのに、彼が近づいて来ることをつい許してしまっている。

「じゃあね、リュネット。またお茶の時間に」

 そう言って、考え込んでしまったリュネットの頬に口づける。きゃっ、と悲鳴を上げて身を竦めたリュネットは、真っ赤になりながら「嫌です!」と思わず叫んだ。

「約束を破るの? いけないなぁ、先生」

 やはり揶揄う調子で告げられたその言葉に、ぐっと反論の言葉を詰まらせる。確かに約束をしたばかりだ。
 なにも言い返せない様子のリュネットに笑みを向け、待っているよ、と言ってマシューは楽しげな足取りで階段を昇って行く。
 舌打ちでもしたくなるような気分のまま、リュネットはそんなマシューの後ろ姿を見送った。





 主人であるマシューの夕食が終わり、後片付けも終えると、許可を得て解放された広間に使用人達は駆け込んだ。

「料理は?」

「もうすぐ来るよ! テーブル出して!」

「なあ、ハワードさん何処? 旦那様が十本までならワインセラーからいいワイン飲んでいいって言うから、選んでもらいたいんだけど」

「モンゴメリさんと下でしょ。今日の分の帳簿つけたら上がって来るって言ってた」

「おい、ジョーイ! アコーディオン持って来いよ」

 従僕や御者、客間メイド、キッチンメイドにランドリーメイドなど、総勢三十人ほどの使用人達が集まり、わいわいと宴会の準備を始める。さすがに見習いの年若い者達はさっさと食事を済ませて部屋に戻ったようだが。
 リュネットも次々に出来上がって来る料理を運ぶのを手伝いながら、少しの間だけ参加させてもらうことになっている。
 ハワードとモンゴメリは、最初のうちに少し顔を出すだけらしい。上級使用人の二人がいると他の者達が心から楽しめないから、ということなので、同調したメイド頭のサラとポリーもすぐに抜けることになっているとか。
 確かに、上司が同席しているかと思うと心から楽しめないだろうな、と思う。羽目を外し過ぎない為の抑止としてはいいだろうが、楽しめない宴会は無意味だ。

「こういうことって、よくあるの?」

 クリスマスの夕食が豪華になることは他の家でも経験したが、大晦日の宴会は初めてだ。
 そうね、とアニーが頷く。

「他のお屋敷だと、お子様達の誕生日の夜とか、そういうときに許可されることがあるわよね。でも、このお屋敷はお子様がいないでしょう? だから、なにかの節目のとき――今日みたいな大晦日とか、復活祭イースターのときとか、そういうときに宴会の許可が下りるわね」

 もちろん毎年開催されているというわけではない。例年ならカートランド家の親戚関係が何十人も集って十二夜を過ごすことになるので、その世話に追われて宴会を楽しむ余裕はない。年越しのときの乾杯には使用人一同も揃って参加するのだが、あくまでも仕事の合間という体裁だ。ここ何年かはマシューも不在がちで、親戚達が集うようなこともなかったので、大晦日の宴会は盛況らしい。
 住み込みで働いている使用人にはご褒美と息抜きが必要だ。酷い家だと、定期的な休日すらも最小限に留められたりするようだが、この家はそういったこともなく、年に三度ほどは宴会の許可を出してくれるという。そのうちのひとつがこれだ。
 マシューは使用人思いのいい主人なのだな、と改めて思わされる。

 ハワードとモンゴメリもやって来たので、一斉に乾杯となる。それを合図に宴会は始まった。
 相変わらずアルコールを苦手としているリュネットは、グラスに半分だけワインを注いでもらい、乾杯には参加した。

「えっ、エレノアさんってお酒駄目なの?」

 乾杯のあとに一杯目をあっという間に飲み干したミーガンは、二杯目のラム酒を注ぎながら驚いたように声を上げた。そうなの、と頷くと嘆かわしげに首を振られる。

「美味しいのに」

「甘いのならそこまで嫌いじゃないわよ。ただ、すぐに酔ってしまって……」

「もったいないねぇ。私は大好き!」

 ミーガンはリュネットのひとつ下の筈なのだが、なかなかの酒豪らしい。この子は強いよ、と隣に座ったアニーが苦笑する。
 酒の味を覚えたのはこの屋敷に勤め始めた十二の頃だという。その前までは親の目もあったので、祭りのときですら手を出せないでいたのだが、ここで先輩メイド達に勧められて手を出し、一気に開眼したらしい。
 因みに、この屋敷で一番の酒豪は、なんとあのミセス・モンゴメリらしいのだが、彼女は滅多に酒を口にしない。澄ました顔で生意気な若者と飲み比べをし、あっさりと負かしてから迎え酒も嗜んだという話は、最早武勇伝として語り継がれているという。

 宴会の料理は今夜の夕食も兼ねているので、リュネットは食事を中心にしておく。隣でどんどんグラスを空けていくミーガンの話に付き合いながら、乾杯に使ったワインをちびちびと飲み進めた。

 ランドリーメイドのアンナも傍に来て同じテーブルに着いたが、彼女も酒に強い。ミーガンとアニーと三人で、次々に酒瓶を空にしていく。その勢いでリュネットのグラスにも注ぎ足されていたのだが、少し酔い始めていたリュネットは、自分のグラスの中身が増えていることにはまったく気づかなかった。変だな、とは感じたが、特に深くは考えられなかったのだ。
 量にすると、小さめのグラスに一杯半。しかしそれは、極端にアルコールに弱いリュネットを酩酊させるには十分すぎる量だった。何種類か混ぜられていたのだから余計に効いてしまったらしい。

「エレノアさーん? 大丈夫?」

 とろんとした表情のまま動かなくなったリュネットの肩を揺すり、まったく酔った様子も見受けられないミーガンが心配そうに顔を覗き込む。

「駄目だね。潰れそう。というか、もう潰れてるね」

 同じく顔を覗き込んだアニーが溜め息をついた。アンナも同意する。

「えー。ご飯ばっかで全然飲んでなかったのに」

「本当に弱いんだ。こんなに弱い子、ネル以来だわ」

 何年か前にいたメイドのことを思い出しながら、アニーはしみじみ零す。あの子もコップ一杯で沈没していたものだ、懐かしい、とアンナも思い出して笑った。
 このまま引っ繰り返ると危ないから、椅子から降ろして床に寝かせるべきか、と相談していると、そんなリュネットを支えるように手が伸びてきた。

「――…だ……っ!」

 誰かと思って顔を上げた先にいた人物の姿に、三人は揃って声を上げかける。マシューは素早く口許に指を立てて「シー」と抑えさせた。
 みんな酒が入ってはしゃいでいるので、ドアから静かに滑り込んで来た主人の姿には誰一人として気づいていないようだ。主人の前ではきちんと礼を取るのが基本なのに、誰も姿勢を正す様子は見受けられない。

「いいから座っていて」

 マシューは優しい口調でそんなことを言ってくれたが、それでも目の前に現れられれば緊張する。三人はマシューを目の前にして、どうすればいいのかと困惑したが、彼はリュネットのことしか見ていなかった。

「こんなことだろうと思ったよ、まったく。本当に困ったお嬢さんだ……」

 弱いくせになかなか酒量を把握しないらしいリュネットを案じていたのだが、やはり酔い潰れていた。やれやれ、と呆れた声しか出て来ない。

「楽しんでいるところ悪いけど、水を持って来てもらってもいいかな?」

「は、はい! ただいま!」

 すっかり酒気が飛んでしまったミーガンは慌てて立ち上がり、隣のテーブルから水割り用に置かれていたポットを持って来る。それを空いていたグラスに入れて渡すと、マシューはリュネットの唇に押しつける。

「ほら、リュネット。水を飲んで」

「んー……」

 唇に触れたグラスの冷たさに、リュネットはいやいやと首を振った。半分ほどは寝ているようだ。

「嫌じゃないよ。飲んで」

「うぅ……いらなぁい」

「リュネット。ちゃんと水を飲まないと、キスするよ?」

 苦笑したマシューが意地悪く耳許で囁くと、重たげに閉じられていた瞼がぱっちりと開かれ、きょろりとあたりを見回した。その反応の速さに驚いたアニーとアンナが飲んでいた酒を噴き出す。

「はい、飲んで。ほら」

 まだ状況を把握しきれていないリュネットの唇にグラスを押しつけると、彼女はやはりわけがわからなさそうな表情のまま、されるがままに水を飲み込んでいく。

「いい子だね」

 グラスを空にしたのでリュネットの頭を撫でて褒めると、彼女はまだ状況がわからないと言わんばかりの表情であたりを見回しながら、こくりと頷いた。

「邪魔をしたね。リュネ……エレノアは部屋に連れて行っておくから、きみ達はまだ楽しんでいて」

 そう言って微笑んだマシューはリュネットを抱き上げる。

「やめて。自分で歩けます」

「わかってるよ。でも危ないからね」

 文句を言うリュネットを宥めながらマシューが立ち去ると、三人は無言でその背中を見送った。あたりを見回しても他の人は誰も気づいていないようだった。

「び……っくりしたぁ」

 ミーガンは大きく息を吐き出し、すっかり飛んでしまったアルコールを補給しようと、グラスに並々とブランデーを注いだ。

「旦那様ってああいう感じなのね」

 普段地下の洗濯場に籠もっていてほとんど関わったことのないアンナは、マシューの姿を意外な思いで見ていた。

「エレノアさんはマーガレットお嬢様のお友達らしいから、前からああいう感じだよ。兄ちゃんか父ちゃんみたいな」

 わざわざ迎えに来るとは思わなかったが、そういう行動に出られても違和感はないくらいに、マシューはリュネットに対して過保護な面がある。それは二人の姿を目にしたことのある使用人達の誰もが感じていることだ。
 ふぅん、とアンナは頷いた。

「でもさぁ。キスするって言われて飛び起きるとか、笑っちゃうわね」

 そんなことを囁く旦那様も旦那様だけど、とアニーは笑い出す。酒が回っている所為で、ちょっとしたことでもおかしくて仕方がなく感じる。
 本当にね、とミーガンも同意した。あんな様子のリュネットは見たこともない。

「結局あの二人って、どういう関係なのかしらね。恋人かと思ってたんだけど」

「旦那様とエレノアさんが? なんで?」

「でもあの子、好きな男はいるでしょ」

「あ、やっぱりアンナもそう思う?」

「時々見せるのが、恋してる顔だよねぇ」

「あれはそう見えるよねぇ」

「エレノアさんが? まさかぁ」

「ちょっとミーガン、うるさい。黙って飲んでなさいな」

 けらけら笑い始めているミーガンのグラスにブランデーを注いでやり、アニーとアンナは話に戻る。
 そんな噂話をされているとは思わないマシューは、再び寝落ちそうになっているリュネットを抱えて、なんとか三階にまで連れて来る。
 ヴァイオレットもいなくなったのだから元の客間に戻ればいいのに、リュネットはまだ学習室の隣の小部屋で寝起きしていた、

「そろそろ客間に戻らないのかい?」

 弾力の乏しいベッドに寝かせて襟を緩めてやりながら、マシューは尋ねる。リュネットは夢現の中で頷いた。

「どうして? 寝心地もいいだろうに」

 ブーツも脱がせてやってから毛布を手繰り寄せてかけてやると、リュネットはくすくすと笑い声を零した。

「私、ずっとこういうベッドでしたもの……気にならないわ」

 女学校の寄宿舎はそんなに豪華なベッドではなかったし、卒業後に働いた場所でも使用人扱いで、真冬になれば暖かいとは言い切れない粗末な布団が多かった。
 カートランド家に来てからはほとんどお客様扱いで、雪深いこの時期でも暖かいベッドを用意してもらっているし、湯たんぽまであるのだから天国のようだ。この部屋のベッドだって今までのものに比べればずっといい。
 暖かくふかふかなベッドで眠るのはとても幸せな気分になれる。けれどそれは、リュネットを悲しい気持ちにもさせた。
 幸せな気分になると、幼い頃のことを思い出す。父と母が生きていた頃の幸福な思い出が夢の中に蘇って来るのだ。けれど、目覚めると優しい両親の姿は色褪せた写真の中にしか見当たらない。
 それが時折、無性につらい。
 だから少し硬いベッドの方がいい。今の自分を見失わないで済む。

「リュネット……」

 酔っている故に素直になっているのか、リュネットはそんな悲しい胸の内をマシューに語った。淡く微笑んでいるその表情が逆に寂しい。
 火照っている頬を撫でると、そっと擦り寄せて来る。その目許に涙が伝った。

「――…おとうさま……おかあさま……」

 幼い子供のようなその呟きを聞いたマシューは、なんとなくわかってしまった。リュネットが何故、マシューの伝える愛の言葉を拒絶するのかを。
 彼女は寄り添っていた筈の愛情を失うのを恐れているのだろう。
 小さな子供にとって、両親からの愛情は当たり前でいて、ずっと傍にあり続けるものだと思っているだろう。それなのに、リュネットは僅か十歳でそれをすべて失い、愛情など欠片もない厳格な女学校の寄宿舎へと放置された。
 リュネットは愛情に餓えているのだ。
 けれど、失うのを恐れているが故に、自分から求めることに抵抗がある。
 マシューはずっと、リュネットが自分の気持ちに応えてくれないことに不満と不安を抱いていたが、彼女の抱える不安はそんなものではなかったということなのだ。しかし、本人は心の奥底に眠るそんな感情に気づいていなかったので、とにかくマシューとの距離を縮めないようにしていたのだ。

 ずっとわからなかったリュネットの涙の理由が、ようやくわかった気がする。
 マシューは今までの自分の行動を初めて後悔した。気の向くままに数々の浮名を流して来たが、それは同時に、移り気であることの証明でもある。愛情を失うことを恐れているらしいリュネットにとって、そんな男に恋をすることがどんなに不安であることか。

「リュネット……」

 名前を呼ぶと、薄っすらと目が開く。長い睫毛が瞬くと涙が零れ落ちた。

「どうしたの? 悲しそうな顔をして」

 リュネットはふんわりと微笑む。
 まだ夢を見ているとでも思っているのだろうか。気軽くマシューに手を伸ばしてきた。

「どうしたらきみを安心させられるのか、考えていたんだよ」

 伸ばされた手を取って口づけると、リュネットはきょとんとしている。そうして、いつもより幼い笑みを浮かべた。

「ぎゅってして」

 そんな願いを口にされたのは初めてだし、頼まれるとは思っていなかった。純粋に驚いて見つめ返すと、リュネットも不思議そうな顔をしている。
 酒の所為だろうな、とマシューは苦笑した。
 フロックコートとウェストコートを脱いでベッドの支柱にかけ、襟を緩めながら毛布を持ち上げ、リュネットの隣へと身を横たえる。一人用のベッドは思ったよりも狭かったが、彼女を抱き締めることになんら不都合はない。
 リュネットの細く小さな身体は、マシューの腕の中にすっぽりと納まった。
 寝ている間に刺さると危ないだろうから、きつく纏められている髪からピンを抜いていく。手探りでやっていたので首筋に指が触れ、リュネットは擽ったそうに身を震わせた。
 抜いたピンを枕の下に隠して改めて抱き締め直すと、リュネットは安心したように嘆息した。しかし、しばらくすると眉間に皺を寄せる。

「……硬い」

「え?」

 小声で不満げな呟きが漏れる。どういう意味か、と首を傾げるが、リュネットは寝息を立て始めていた。

(まさかとは思うけど……)

 メグと勘違いされているのだろうか。それなら先程の言動にも納得がいく。
 酔っているからいつもと違う態度だったのではなく、寝惚けて勘違いをしていたのか。それは少なからずショックだ。
 しかし、いくら髪と目の色が同じだからといって、男女の違いもわからなくなるものだろうか。やはりリュネットはしっかりしているようでいて、変なところでぼんやりだ。

(まあ、いいか)

 毛布をしっかりと肩まで引き上げ、小さな子供をあやすようにリュネットの背中を摩る。そうしているうちに、マシューにも段々と睡魔が訪れてきた。
 今夜はリュネットがよく眠れるよう枕に徹することを決め、静かに意識を手放した。



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