侯爵様と家庭教師

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26 侯爵様と寝台の月

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 ピアノの音が聞こえていることに気づき、ミーガンは掃除の手を一瞬止めた。

「……エレノアさんかな?」

 彼女がピアノを弾けることは知っている。けれど、彼女がこの屋敷に住み始めてからの二ヶ月ばかりの間で、子供達がいるとき以外に弾いているところは見たことがなかったので、少し珍しく感じた。
 一昨日に調律師が来ていたので、調子を確認しているところなのだろうか。

「旦那様だと思うわよ」

 階段の手摺りを磨いていたアニーも顔を上げ、微かに笑って答えた。
 へえ、とミーガンは目を丸くした。

「旦那様のそういうところ見たことないけど、弾けるんだ?」

「私もよくは知らないけどね。ご家族が揃っていらした頃は、よく皆様で演奏なさっていたそうよ。旦那様はヴァイオリンとピアノをお弾きになっていらしたとか」

「へええぇ!」

 ピアノの演奏などは良家の子女の嗜みなのだ。ほぼ必修と言っても過言ではないだろう。
 そんな話をしているうちに、音が少し変わった。上手いか下手かということもよくわからない程度に音楽に関しては疎いミーガンだが、その変化はなんとなくわかった。
 アニーの予想通り、ピアノを弾いていたのはマシューだった。それが今は、嫌がるリュネットを無理矢理座らせての連弾だ。今まで一度もこんなことをしたことはなかったが、意外と呼吸は合うもので、テンポがずれることもなく綺麗に揃って音が走る。
 座ったときは仏頂面だったリュネットも、今は表情が多少和らいで、少し楽しげにも見える。
 リュネットは音楽を奏でることが好きなのだろう。歌は苦手だと言っていたことがあるが、ピアノはメグと一緒によく弾いていた。

「いつでも好きなときに弾いていいんだよ?」

 一曲終わったところで満足そうな顔をしているリュネットに、マシューは言った。どうせ弾くような人間はいないし、マシューも自分で弾くのはそれほど好きではない。それ故に放ったらかしのピアノはよく音が狂う。
 でも、とリュネットは遠慮気味に首を振った。

「メグとは一緒に弾いていたじゃないか」

「メグと一緒だったからです。他所様のお家のものを勝手に弄るのは失礼です」

「僕が許可をしているのに?」

 その言葉に少し興味を惹かれたような顔を上げたが、すぐにハッとして、申し訳なさそうに頷いた。やれやれ、とマシューは溜め息をつく。

「そう。でも、僕が頼んだときには弾いてくれるかな?」

「それは……まあ、そうですね。お望みとあらば」

「じゃあ、ショパンをリクエストしてもいいかな? スケルツォか子守唄がいいな」

 早速の言葉に少し面食らったようだが、リュネットは頷き、鍵盤に指を乗せた。

「久しぶりなので……間違えても叱らないでくださいね」

「もちろんだよ」

 頷いてやると小さく微笑み、リュネットはショパンの子守唄を弾き始めた。

(さて、どうしたものか……)

 迷いなく動くリュネットの手許を見つめながら、マシューは僅かに考え込んでいた。
 まっすぐと伸びて鍵盤に向き合うその姿に、泣きじゃくっていた先日の姿は重ならない。まるで別人のようだ。
 けれど、あの幼い子供のように泣きじゃくり、自分の気持ちがわからない、と不安そうにしていた姿こそが、本当のリュネットだと確信している。

 クリスマスの夜のときもそうだ。彼女はマシューに対する自分の気持ちがわからないと泣き、そんなことを考える自分が嫌だ、とまた泣いた。
 自立した女性になる、ひとりで生きて行ける、と豪語していたリュネットだが、全然そんなことなどない。中身は世間知らずのお嬢様のままで、ちっとも成長していない。寄宿学校で育ち、個人の屋敷に雇われて住み込みで働いていた為、人と接する機会が少なかった所為だろう。彼女の生きる環境は常に狭い場所に限定されてきた。そんな環境が、リュネットの心の成長を妨げている。
 女学校で育った為に男性には不慣れな上に、何度か不埒な男共に襲われかけるという恐怖を経験していて、男性に対する苦手意識を強めたことだろうし、そうなると、物語の中の王子様のような無害な男でもない限り、傍に来る男性すべてに嫌悪を抱く。マシューに対する感情が明らかにそれだった。

 それでも物腰の柔らかい人物なら幾分かは抵抗が薄いようで、ハワードやバーネットには普通に接している。特にハワードとはこちらに来てからずっと一緒だったこともあり、上司である彼には信頼を寄せているくらいだ。それが少し面白くない。
 同じように紳士的に接しているのに、リュネットのマシューに対する態度は未だに距離がある。キスを許す癖に、基本的には警戒心は剥き出しだし、それがいつまでもなくならないのも面白くない。

 しかし、先日泣かせたことで、その関係に少し変化が訪れたのは確かだ。

 マシューはリュネットの腰に腕を回した。突然触れられたリュネットはびくりとし、思わず演奏を止め、驚愕を含みつつも怪訝そうに仰ぎ見る。そこで素早く唇を奪う。更に驚いた手が鍵盤を叩き大きな不協和音が奏でられたが、こちらが突き飛ばされることはなかった。
 リュネットはマシューを拒まなくなった。それは大きな変化だ。

「――…駄目ノー……」

 キスの合間にリュネットが囁く。

「どうして?」

 それに答えるのは意地の悪い響きの問いかけだ。

「……人が、来ます」

 真っ赤になったリュネットが離れようとするが、それを引き留める。

「来なければいいの?」

 リュネットは答えない。代わりにそっと伏せられた睫毛が、キスの続きを期待されているようにも見える。
 唇を触れ合わせるが抵抗はない。マシューは更に深く口づけ、腰に回していた腕を更に引き寄せる。震える手がシャツの胸許に縋りついてきた。

 時折リュネットの唇が「駄目」と囁く。けれどそれ以上の抵抗はなく、拒絶もない。
 以前から思っていたのだが、彼女の囁く「駄目」は拒んでいるように感じられない。まるでその先を誘うかのように甘く震えている。

 先日、恋多きヴァルモール夫人の詩で揺さ振りをかけたとき、泣かせてしまったことは少しの後悔があったが、同時にそれはマシューの望む方向へとリュネットの気持ちを動かすことに成功していたようだ。

 恐らくリュネットは、少しずつ自分の気持ちに気づき始めている。だからマシューを拒まない。
 伊達に何人もの女性と浮名を流していない。自分に向けられる感情がどのような種類のものであるのか、マシューは敏感に感じ取れる。
 愛情に餓えているが故に恋に臆病な少女は、ようやく動き始めていた。
 ここで間違った手段を取ると、リュネットの心は手に入らなくなる。マシューは少し慎重にならざるを得なかった。

 今はまだキスだけの関係でいい。それで少しずつリュネットの警戒心を解いていっているとわかるのなら、もう少しだけ我慢出来る。
 けれど、リュネットが今のまま無防備な姿でマシューの理性を試すようなことを続けるのなら、その我慢もそんなに長くは保ちそうにない。
 マシューは真っ赤になっているリュネットの顔に向け、静かに微笑みかけた。




 リュネットは戸惑っていた。
 唇へのキスは親愛の証だ。けれど、親友同士でもすることはない。
 では、マシューと自分の関係はいったいなんのだろう――それがリュネットにはわからなかった。
 ジョセフに対しての方便で恋人を名乗ったが、実際にそういう関係ではない。けれど、マシューはリュネットに「愛している」と言ってくれている。

 では、リュネットはどうだろうか。
 それがわからない。

 廊下の陰で、呼び出された書斎の中で、マシューとは幾度となくキスをした。キスをすることに抵抗がなくなっていた自分に驚きつつも、その自分を受け入れてもいた。
 けれど、受け入れている自分が嫌だと感じ、そう感じる自分も嫌だ、と相変わらず矛盾した感情が心の中で鬩ぎ合っている。そのことにすっかり疲れてしまっていた。

(あの人なら、答えをくれる……?)

 何日も悶々と考え続けていたリュネットは、少し正常さを欠いていたのかも知れない。
 すっかり寝支度を整えてベッドに入っていたが起き上がり、肩掛けを身体に巻きつけて部屋を出た。
 時刻はもうすぐ日付が変わる頃だ。人を訪ねる時間帯としては非常識極まりないが、きっと彼は起きているだろうし、リュネットの訪問を嫌がることはないと思い込んでいた。
 少し冷える二の腕を抱きながら廊下を突き進み、マシューの部屋の前へと辿り着く。ドアの隙間からは灯りが漏れていたので、やはりまだ起きているのだと安心し、ノックした。

「どうぞ」

 部屋の中に入ると、マシューは机に向かって書き物をしている最中だった。

「……リュネット? なにかあった?」

 やって来たのがリュネットだとわかると、マシューは少し驚いたような顔でペンを置いた。こんな時間に彼女が訪ねて来るなど想像していなかったに違いない。

「私、わからなくて……どうにも眠れなかったのです」

 寝間着姿のまま、勢いでここまで来てしまった礼を失した行動を僅かに恥じながら、リュネットはたどたどしく言葉を探す。

「でも、あなたなら、なにか答えをくれるのではないかと、そう思って……」

 なんとか説明しようと言葉を選びながら紡ぐが、この自分でもわからない漠然とした感情を説明する為の言葉が更にわからなくて、どうすればいいのか戸惑い、それ以上の言葉が出て来なかった。
 マシューは部屋の隅に佇んで困惑の表情を浮かべているリュネットの様子に、静かに溜め息を零した。

「そのドアを閉めて、こちらに来る勇気はある?」

 リュネットはハッと顔を上げる。
 未婚の男女が同席する際、ドアは開けておくことがマナーだ。仕事の話をする書斎以外ではずっとそうして来た。

「そうしたら、きみの懊悩の答えをあげる。けれど、もう二度と後戻りは出来ないからね」

 リュネットは心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。
 このドアを閉めてマシューの傍に行けば、彼はリュネットの抱えるわけのわからない感情の答えをくれるのだろう。しかしそれは、リュネットを何処か知らないところに連れ去ろうとしているような、そんな恐怖も感じ取れた。
 眩暈を起こしそうなほどに心臓の鼓動が激しく聞こえ、リュネットの思考を鈍らせる。呼吸が乱れ、足許が竦んで震えた。

 マシューはなにも言わないし、動かない。リュネットがどうするのか、その行動を静かに見守っている。
 激しい鼓動の音に思考を遮られながら、ドアノブに震える手を伸ばし――廊下に出てドアを閉めた。

 まだ心臓が激しく鼓動を打っている。ドキドキする胸を押さえながら二、三歩ほど進むが、その場にへたり込んだ。
 何故突然あんなことを言い出したのか。いったい彼がなにを考えていたのか、リュネットにはわからない。ただ、なんだか恐かった。

 背後でドアが開く。
 振り返ることもなく、マシューが来たのだということはわかった。

「リュネット」

 座り込んでいるリュネットの前で立ち止まり、マシューが名前を呼ぶ。リュネットが恐る恐る顔を上げると、彼は無言で手を差し出す。立ち上がる為に貸してくれるようだった。
 おずおずと手を乗せると、強く掴まれて引っ張り上げられ、その場に立たされる。
 礼を言って離れようとしたのだが、それよりも早く、掴まれたままの手を引かれてよろめき、倒れかけたところを担ぎ上げられた。

「こ、侯爵……っ!」

 リュネットが驚いて呼び止めようとするが、マシューは構わずに部屋に戻ってドアを閉め、後ろ手に鍵をかけた。身を捩ってマシューの腕の中から降りようとするが、爪先から室内履きがパタリと床に落ちた音が虚しく響いただけで、離してくれる気配はない。

「気長に待っていようと努力していたけど、もうやめるよ」

 少し突き放すような冷たい口調でそう言うと、慌てているリュネットをベッドの上へと降ろす。

「きみが自分の気持ちを理解するまで待とうと思っていたけど、いつまで経ってもそんなことはないし、きみは僕を挑発するし……僕ももう限界だ」

「ちょ、挑発?」

 なんのことだ、と尋ね返そうとした唇が塞がれ、そのまま押し倒された。たっぷりの羽毛とクッションの利いたベッドは痛くなかったが、抑えつけられた手首が痛い。

「こんな時間に訪ねて来たきみが悪い」

 炎の灯ったような強い瞳で睨みつけられ、噛みつくようなキスをされる。
 身動ぐリュネットを圧し掛かるようにして抑えつけながら、胸許のボタンを外して襟を押し広げる。ひやりとした掌が鎖骨をなぞるように触れ、リュネットは身震いした。

「ねえ、愛しいリュネット。どうしてきみは、僕をそんなにも追い詰めるの?」

 耳許で囁くマシューの声に背筋が震えた。悲鳴は辛うじて飲み込む。

「きみが自覚して受け入れてくれるまで待とうと思っていたのに、きみは無防備に僕の前に現れて、僕の理性を試すようなことばかりする。酷いだ」

 マシューが首筋に口づけてくるので思わず身を竦め、怯えて身を捩るが難なく抑え込まれる。身長はあっても細身の彼がそんなに重いとは思わなかったが、やはり男性であるので力は強い。八歳の姪を軽々持ち上げていたくらいなのだから、リュネットを上から抑え込むことなどたいしたことではないのだろう。
 混乱するリュネットを余所に、マシューの手は少女の細い腰の線を辿り、寝間着の裾を手繰り寄せる。

「だ、駄目! いけません、侯爵……!」

 リュネットは青褪め、それをさせまいと僅かに暴れた。
 こんなことをしてはいけない。本当に後戻り出来なくなってしまう。それはリュネットにとっても、もちろんマシューにとっても、よくないことだ。
 その微々たる抵抗を抑えつけるように、マシューはリュネットの首筋に歯を立てた。噛みつかれたリュネットは小さく悲鳴を上げ、身を竦める。

「暴れないで、リュネット。酷いことをしてしまいそうだ」

 耳許に囁かれる声は低く苦しげなのに、背筋が震えるような冷たさも感じられた。ゾクッと手足が震え、噛まれた痛みと相俟って恐怖を感じたリュネットは身動ぐのを止めた。
 怯えた目を向けてくるリュネットにマシューは微笑みかける。

「ごめんね、リュネット」

 謝る声が先程までと違って優しい。
 なにを謝るというのか、とリュネットが不思議そうに瞬くと、マシューの手が強張る肩に優しく触れ、そのまま寝間着を下へと引き下ろした。

「い、や……っ、侯爵っ」

 露出されて外気に触れた肩が思わず震え、リュネットは思い出したかのように抵抗する。引き下ろされて袖が絡まる腕が上手く動かないのがもどかしいが、覆い被さる男を退けようと必死に押し返すが上手くいかない。
 その手首を抑えつけられ、僅かな抵抗は簡単に封じ込められた。己の無力さに絶望し、リュネットは双眸を潤ませる。

「やめてください……お願い……」

 手足で拒めないのならば、言葉で訴えかけるしかない。リュネットは震える声で首を振り、こんなことはやめてくれるように哀願した。そんな声にマシューは苦く笑ったかと思うと、ボタンを外すのももどかしげに寝間着の胸許を大きく開き、リュネットの白い肌を剥き出しにした。

「いやっ!」

 リュネットは悲しげに叫ぶが、抵抗の悲鳴など無意味だった。
 羞恥に震える大きな乳房をひんやりとした掌が掬い上げる。重たげなそれを慣れた手つきで揉みしだくと、マシューは溜め息を零した。

「ああ、リュネット……きみはなんて綺麗なんだろう」

 滑らかなのに吸いつくようなもっちりとした肌の感触に、思わずうっとりとしてしまう。こんなにも触り心地のいい肌に触れるのは初めてだ。今まで肉体関係を結んだ女性達の誰よりも素晴らしい、とマシューは笑う。形も大きさも、先端に色づく薄紅色の淡さも、なにもかもが理想的とも思えた。
 リュネットは恥ずかしさと困惑から肌を淡く染め、マシューの手をなんとか引き剥がそうとするが、震えて上手く力が入らない。無遠慮に乳房に触れる手の甲に何度か爪を立てたり、手首を掴んで止めようともするが、そんなことで男の愛撫が止まるようなことはなかった。

 どうしてこんなことになっているのだろう――肌の上を辿るマシューの唇の感触を感じながら、混乱している自分の心に整理をつけようとする。

 自分のなにが彼をこういう行動に出させたというのだろうか。リュネットが挑発をしたと彼は言うが、そんなことをしたつもりはないし、自分がなにをしてしまってこんなことになってしまったのか、本当にわからなかった。
 安心しきっていたのだろう。自分がなにをしても、マシューは許してくれるのだと。

 マシューはこんな時間に訪ねて来たリュネットが悪いと言った。確かにそうだ。非常識をした覚えはあるし、未婚の男女が面会するには明らかに不適切な時間帯だった。
 己の愚が招いたことだ。なにをされても文句を言えるわけがない。

 これからこのベッドの上で自分の身になにが起ころうとしているのか、おぼろげでもリュネットにはわかっていた。けれど、彼女が持っている知識など、男女が一緒のベッドで眠るといった程度のもので、マシューがいったいなにをしようとしているのかもわかっていない状態だ。何故服を脱がされているのかもわかっていない。
 自分が不道徳な行為に堕ちて行こうとしていることに気づいてはいるが、リュネットにはどうしようも出来ない。
 そうなる前に拒絶すればいい。この不埒な男を殴ってしまえばいい。今までリュネットを襲ってきた酷い男達にしてきたように、滅茶苦茶に手脚を動かせて、頬を引っ掻き、腹に蹴りを入れ、髪の毛を毟る勢いで引っ張ればいい。それですべては終わる。

 それなのに、リュネットの手は、脚は、動かない。
 まさか自分は期待しているとでもいうのだろうか。マシューとこうなることを。

 どうしよう、どうしよう、と自分の行動を後悔していると、マシューの唇が震えて尖る薄紅色の乳首を含み、それにやんわりと歯を立てられた。ぞわりと背筋が震え、リュネットは身を竦める。
 恐い、恥ずかしい、何故こんなことを――リュネットの心は激しく混乱していた。心拍は上がり、呼吸が浅くなり、緊張から手足が震えて汗ばむ。そんな様子に気づきながらも、マシューはリュネットを解放しようとはしなかった。
 抑えつける手の強さは痛いくらいなのに、身体の上を辿る唇は優しい。その差にリュネットはますます混乱した。

「侯爵……侯爵……もう、やめましょう。こんなこと……」

 無駄ということは薄々わかっているのだが、どうしても訴えずにはいられなかった。その声も憐れなほどに涙に震えて弱々しい。

「嫌だよ」

 憐れな訴えに答える男の声は酷く冷たい響きを孕んでいた。
 強張って見つめるリュネットの瞳を見つめ返すマシューの瞳は、いつもの深緑に僅かに金の虹彩を帯びている。その不思議な色合いに言いようのない感覚を抱き、無意識に身震いする。

「僕はこれでも随分と我慢してきたんだ。きみがキスを許してくれるのなら、しばらくはそれでもいいと思っていた。それなのに、きみはこんな時間に寝間着姿で現れて、不安げで、無防備な表情で見つめてくる。そんな態度をされて、僕がきみを襲わないとでも思った? 生憎と、僕はそこまで聖人君子じゃない。きみだって僕の噂は知っているだろう?」

 返す言葉がなくてリュネットは唇を戦慄かせる。
 リュネットが長くマシューを苦手に思っていた理由――それは女性関係だ。そういう噂を耳にするような年齢になってからでも、いったい何人の女性と噂になっていたのか、リュネットには把握しきれていない。恐らくメグも同じだろう。それくらいにマシューのまわりには女性が多くいた。
 リュネットの表情が凍りついたように青褪めると、マシューは苦く笑う。

「そんな僕が、愛しいきみを前にしてなにもしないだなんて、そんなことあるわけないじゃないか。よくもそんな甘い考えを抱けたものだね」

 その通りだ。女学校を卒業してからの間、自分の身に起こったことを忘れたわけでは決してないし、マシューをずっと警戒してもいた。それなのにどうしてか、いつの間にか彼はそういうことをしない、と愚かにも思い込むようになってしまっていたのだ。

「僕がきみをどれだけ求めているか、思い知るといいよ」

 熱を孕んだ緑の瞳に睨みつけられたかと思うと覆い被さられ、唇を乱暴に塞がれる。嫌がって逃れようとするが顎を掴まれて抑えつけられ、僅かに開いた歯列の隙間に舌先をねじ込まれて口腔内を暴かれる。その熱さと息苦しさにリュネットは微かに呻き、涙を溢れさせた。
 強張るリュネットから荒い手つきで寝間着を剥ぎ取ると、その細い肢体を乱暴にまさぐる。
 性的なことに無知な少女が羞恥に震えるよりも早く、脚の間の秘められた場所へと手を滑り込ませ、未だ誰にも触れさせたことのないそこへと指先を埋め込んだ。
 突然感じた初めての痛みと感触に、リュネットは苦鳴を漏らして背を撓らせる。
 無意識に太腿を閉じ合わせ、抵抗を試みるが、それは無遠慮な男の手を更に押しつけるだけの行為だった。先程よりも深く感じた異物感に眉根を寄せ、目の前の男の肩を押す。

「――…い……やぁ……っ」

 僅かに離れた唇の隙間から絞り出すように小さな悲鳴を上げると、双眸からボロボロと涙が零れ落ちた。
 何故こんなことをするの、と訴えかけたいのに、言葉が上手く出て来ない。いやいやと必死に首を振り、やめて欲しいという意思を示した。
 けれど、散々に我慢を重ねた末に火の点いた男が、そんなことで止まるわけがなかった。

 マシューは喘ぐ小さな唇をねぶりながら、委縮している秘処に埋めた指先を蠢かせ、硬く閉じたそこを柔く潤ませようとした。その行為にリュネットは更に身を竦めるが、蕾のような秘芯を指先で転がすと、びくりと身体を跳ねさせた。触れ合った唇の下から小さな声が漏れ、見開かれた濃紺の瞳が不安げに揺れる。
 硬く閉じる蕾のような小さなそれを指先で何度も触れてやれば、リュネットは全身に緊張を走らせて身体を強張らせるが、狭い隧道の奥からとろりと熱い蜜が溢れてくる。埋め込んだ指先でそれを確かめるように中を探ると、小さな水音は確かに零れ、隘路が拓いてきたことを物語った。

「いっ、あ、いやぁ……っ!」

 痛みなのかなんなのか。腹の奥の方に感じる違和感に胃が竦み上がるような感覚を抱き、思わず悲鳴を上げる。リュネットは自分の身体に起こった変化がどういうことなのかわからず、ただその異変だけをはっきりと感じ取り、不安と恐怖に全身を強張らせた。

「いや……あぁっ、こわい……」

 リュネットは幼い少女のように身を竦めて悲鳴を上げる。いやいやと首を振り、助けを求めるようにマシューを見上げた。
 けれど、今リュネットを苛んでいるのは、その助けを求めた男なのだ。そのことに改めて気づかされ、持って行き場のない感情に涙を零した。
 どうしてこんなことをするのだろう。ひどい、とマシューを恨めしく思った。

「ゆっくり息をして。いい子だから」

 泣いているリュネットを宥めるように額にキスを落とし、よしよし、と囁く。

「大丈夫だから、僕のことだけを考えていて」

 先程までの冷たい口振りを感じさせない優しい口調で語りかけるが、リュネットを苛むことはやめてくれない。慰めてくれなくていいから、もう解放して欲しかった。

「いやぁ……っ、うっ、あぅ……っ」

「力を抜いて。すぐに好くなるから」

「そん、な……っ、あっ、あっ」

 脚の間を生温かいものが伝い落ちていくのを感じ、リュネットはますます混乱しているが、閉じていた隧道が更に柔らかくぬかるんでくる。怯えながらも確実に拓いてきたことを確認しながら指を増やすと、リュネットが微かに喘いだ。その声は今までの怯えて震える声ではなく、悦びに戸惑っている声音だった。

「あっ……あぁ……ッ」

 吐息のように零されたリュネットの声が甘くマシューの鼓膜を震わせる。それを聞いたらもう限界だった。

「ああ、リュネット……僕のお月様リュヌ。早くきみの中に……」

 マシューは逸る気持ちを抑えられなかった。
 まだ早いのはわかっている。けれど、火の点いた身体はどうしようもない。
 経験のないリュネットには苦しい思いをさせるかも知れない。それでも、今夜のマシューは十代の少年のように気が急いていて、どうしても早く彼女とひとつになりたかった。

 自分の零した声に驚いているリュネットの太腿を掴んで左右に開き、その間に身体を滑り込ませる。
 不安そうにしているリュネットの瞳には、今の自分の姿はどう映っているのだろう――そんなことを考えながらトラウザーズの前立てを開き、窮屈そうにしていた自身を取り出した。

「リュネット――僕の名前を呼んで」

 とろりと蜜の溢れる秘処に先端をこすりつけながら、マシューは喘ぐように囁いた。
 リュネットは脚の間に感じる違和感に眉根を寄せながらも、困惑気に「マシュー……?」とその名前を返した。

「そう。もっと呼んで」

「マシュー?」

「もっと。もっとだ」

「マシュー」

 要求されるままにリュネットはマシューの名前を呼んだ。
 なにがなんだかわからなかった。もう恐いことは終わったのだろうか。こんな恥ずかしいことはもう止めてくれるのだろうか――そう思いながら、探るようにマシューの名前を口にする。
 マシューはうっとりとしたような表情でリュネットを見つめ、言われるがままに名前を呼んでくれる素直で可愛らしい唇に口づけた。
 マシューが身動ぐと、乱れた彼の髪がはらりと揺れる。栗色の彼の髪は光を受けると金色に光り、その様が綺麗だとリュネットはぼんやり思った。

 リュネットは性的なことに関して本当に無知だった。マシューの与える行為の意味も、その表情の理由もわからず、深く口づけられたことに翻弄され、眩暈を感じて瞼を閉じた。
 相変わらず無力な抵抗を試みていた指先からふっと力が抜け、シーツの上にパタリと落ちる。
 それを合図に、マシューはリュネットの中へと楔を刺し込んだ。

 リュネットは身を竦ませて声にならない苦鳴を漏らし、助けを求めるようにマシューの服を掴んだ指先が白くなるほどに力を入れる。
 なにが起こっているのかわからない。キスの感触にとろりと意識を手放しかけたら、引き裂かれるようなわけのわからない痛みが突然襲って来て、身体の真ん中のあたりに強い痛みが広がる。腰や下腹部が痛い。

「リュネット、力を抜いて。いい子だから」

 マシューが囁く。それすらもわけがわからず、リュネットは痛みに必死に耐えた。
 その痛みがどれくらい続いたのか、リュネットにはわからない。実際は一瞬のことだったのかも知れないが、引き裂かれるような痛みに長く長く苛まれ、その痛みに慣らされた頃、身体の奥に違和感を抱いていることに気づいた。

「リュネット」

 涙でぐしゃぐしゃになったリュネットの頬を撫でながらマシューが囁く。

「やっときみを手に入れた」

 うっとりとした囁き声に、リュネットは視線を上げた。こちらはすっかりと服を脱がされてしまっているというのに、タイを僅かに緩めた程度にしか着衣を乱していないマシューの姿が目に入り、なんだかすごく嫌な気分だった。自分ばかりが彼に好き勝手にされてしまっているようで。
 その嫌な気分を抱えたまま視線を彷徨わせていくと、自分の膝が彼の脇腹のあたりにあることに気がつき、あられもなく開かされた脚の間に焦点が合う。

「ねえ、リュネット――リュヌ」

 自分の下腹部がマシューの下腹部と重なり合っていることに驚愕して双眸を瞠ると、マシューがあの甘い声で囁いた。彼が身体を起こすと、またあの痛みがリュネットのことを苛んだ。シーツを握り締めて唇を噛む。

「僕の子供を産んでよ」

 囁きながら解けかけていたタイを外し、シャツのボタンも寛げる。
 なにを言っているのだろう、とリュネットは涙に濡れる瞳でマシューを見上げた。

「きみのここに、僕の胤子たねをあげるから」

 相変わらず冷たい掌が、リュネットの臍の下あたりを撫でる。身体が火照って熱くなっていたリュネットは、その手の冷たさに思わず身を竦め、歯を食い縛った。

「そうでもしないと、僕の不安は消えない気がするんだ」



 何度も何度も、数えられないくらいにマシューに揺さ振られ、その度にリュネットは小さく悲鳴を上げ続けた。
 それが何度も繰り返され、抑えつけられた手首が痺れて感覚がなくなってきた頃、リュネットを苦しめた痛みはいつの間にか和らいでいて、代わりに思考を奪って行く。

 朦朧とする意識の中で、マシューが何度も「愛している」と囁く声を聞いた。それにリュネットはなんと答えたのだろうか――記憶はなかった。




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