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番外編4 おばあ様には敵わない
しおりを挟むふらふらと動くリュネットの後頭部を見つめ、マシューは小さく溜め息をついた。
「リュヌ。動かないで」
両手で頭をぐっと掴んで抑えると、リュネットはビクッと背筋を伸ばし、身動ぐのをやめた。幼い子供のようなそんな仕種にマシューは思わず苦笑する。
「お祖母様が来られるのはお茶の時間くらいだろう? それまでずっとそうしているの?」
今はまだ朝食前で、時間は八時半を少し過ぎたところだ。午後のお茶の時間までは有に七時間はある。
リュネットが動いた為に失敗した編み目を梳き直しながら尋ねると、リュネットがほんのりと唇を尖らせながら振り向こうとするが、いけないと思ったのか、すぐに前へと向き直った。
「だって……」
言いかけ、落ち着きのない様子は確かに少し子供っぽかったかも知れない、と気づき、頬を染めて押し黙った。少しだけ恥じ入る。
すっかり慣れた手つきでリュネットの髪を編み込みながら、仕方がないか、とマシューはもう一度小さく苦笑した。
十五年も前に別れ、リュネットの両親の死後は連絡も途絶えていた祖母と再会したのは、二ヶ月程前のことだ。幼い頃はとても懐いていた優しい祖母に再会出来て、嬉しくて堪らないのだろう。
その祖母――ジュヌヴィエーヴは、フランスから海を越えてやって来て、リュネットを苦しめ続けた親戚の不祥事の後始末をしていた。それがすべて終わり、そろそろフランスに帰ろうという時期になったので、約束通りに一度こちらへ顔を出してくれることになったのだ。
待ちきれないのだろうな、と微笑ましく思いながら、シニョンにした毛先の残りをピンで留め、出来たよ、と告げて後ろから頬に口づける。
リュネットがマシューに髪を結ってもらうのは日課になっていた。さすがに喧嘩をしたときなどは遠慮させてもらっているが、髪結いは彼の趣味ということで、リュネット自身も触れられることが嫌ではないので、適当に任せている。
鏡を覗き込んで一応は出来栄えを確認するが、マシューのセンスは信用しているので、なにも言わずに頷いた。
「どうせあとで着替えるんだろう? 服に合わせてまた結い直してあげるよ」
「ありがとうございます」
リュネットはとびきりの笑顔で振り返った。その様子があまりにも可愛らしくて、マシューは思わず溜め息を零す。この笑顔が自分の為のものだったらよかったのに、と切なくなった。
じきに結婚することが決まっている二人だが、リュネットからマシューに対する態度は相変わらず甘さがなく、笑顔を向けられることもあまりない。特にこんなにも可愛らしい笑顔は。
残念だなぁ、と思いながら頬に手を伸ばすと、リュネットはちょっと小首を傾げ、ふっと微笑んだ。いつもの控えめな笑みだ。
やはり残念に思いながらキスをすると、朝食の準備が整ったことをハワードが報せに来たので、そのキスも中途半端に終わる。これまた残念で仕方がなかった。
駅への迎えの馬車が出てから随分経つ。
リュネットはそわそわと窓際に立っては部屋へ戻り、また窓際に行ってと忙しない。その様子をマシューは少し面白くなさそうに眺めていた。
午後になって着替えたリュネットは、お気に入りの紺の余所行きを着て、やはりお気に入りのカメオのブローチをしている。マシューは服に合わせて紺色のリボンを髪に編み込んでやったのだが、マシューの為に自分から着飾ったことのないリュネットが、祖母の為には着飾っているのかと思うと、やっぱりちょっと面白くない。溜め息をつき、読みかけていた本を投げ出した。
「リュネット」
名前を呼ぶと、落ち着きのない視線が振り返る。その様子に苦笑しながら、マシューは愛らしい唇に口づけた。リュネットは驚いたように震えたが、すぐに瞼を閉じ、そっとマシューの腕へと手を伸ばす。
優しく唇を啄んだあと、マシューの唇は頬に触れ、耳朶を食む。あっ、とリュネットは小さく声を漏らし、頬を染めた。
「駄目です、侯爵……」
抱き締めて首筋にキスをするマシューを、リュネットは押し留めようとする。こんなキスのされ方をしたら、せっかく綺麗に結ってくれた髪が崩れてしまうではないか。
けれど、そんなリュネットの力ない抵抗などどうということもなく、マシューの手がそっと胸許を撫でる。微かに吐息を漏らして身を竦めながらも、その手を避けることは出来なかった。
「侯爵……」
まだまだ陽も高い時間で、もうすぐジュヌヴィエーヴ達が来るというのに、こんなことをするなんて――リュネットは真っ赤になって身動ぎながらも、上手く拒絶出来ずに困っていた。
こういうときにどうすれば上手く躱せるのか、リュネットはまだわからない。マシューに触れられるとどうしても流されてしまう。いけないことだとはわかっているのに、いつもこうなってしまうのだ。
どうしようもなくてただ困惑していると、何処かから咳払いが聞こえた。ハッとして顔を上げれば、ドアのところにハワードが立っている。
「モンクレーヌ様がご到着になられましたが、こちらにお通ししてもよろしいでしょうか? 旦那様」
尋ねながらもハワードは眼鏡の奥の目を眇める。
「それとも、三十分程お待ち頂きましょうか? 長旅でお疲れのご婦人に、客間で」
その提案が嫌味だとすぐに気づいたマシューは溜め息を零し、リュネットを離した。
「いいよ。三十分で済むわけがないんだから、お待ち頂く必要はない。すぐにお通ししてくれ。お茶の用意も」
「畏まりました」
一礼して立ち去る家令の後ろ姿を見送りながら、マシューは襟と袖口を直す。
リュネットはハワードにこんな場面を見られ、恥ずかしくて堪らなかった。平然としているマシューに恨みがましい目を向ける。リュネットがこういうことに上手く抵抗出来ないとわかっているのだろうから、理性的に自重して欲しい。
しばらくすると複数の足音が近づいて来たので、リュネットは嫌な気分を払い除けながら、パッとそちらへ顔を向ける。
「……お祖母様!」
先頭を歩いて来た祖母の姿が目に入った瞬間、リュネットは両腕を広げて走り出す。祖母も両腕を広げ、駆け寄って来たリュネットを抱き留めてくれた。
「まあまあ。困った子ね。小さな子供みたいに」
「ごめんなさい、嬉しくて」
「もちろん私も嬉しいわ。……さあ、お顔をちゃんと見せてちょうだい?」
そう言われたので、リュネットはちょっと離れて祖母の顔を正面から見つめる。久し振りに見る祖母は、相変わらず自分とそっくりの顔をしていた。
「元気そうね、私の可愛い小さなお月様」
「お祖母様もお元気そうでよかった。お疲れではない?」
「大丈夫よ。レディ・マーガレットがよくしてくれたもの」
祖母の言葉に首を傾げて瞬くと、後ろの方からメグがひょっこりと顔を覗かせた。
「まあ! メグ!?」
こちらに来るなどとひとことも聞いていなかった。驚いて思わず大きな声を出すと、メグはにやりと微笑んだ。
「どう? 驚いた?」
「もちろんよ。会えて嬉しい」
思いがけない再会に笑みを浮かべると、サプライズの成功したメグは満足気だ。
「新婚旅行のお土産を持って来たのよ」
「わざわざありがとう。イタリアに行ったのだったかしら?」
「ええ。リュヌが好きそうなベネチアングラスのインク瓶とか、いろいろ買って来たから」
「気を遣わなくてよかったのに」
そんな女性陣の楽しげな再会の場面を邪魔しないように、ジュヌヴィエーヴの付き添い人であるアリスティドはマシューの許へと挨拶した。
「大叔母だけでなく、わたしまでもお招きに与りまして申し訳ない。カートランド侯爵」
「マシューでいいですよ。よくいらしてくれた、ムッシュウ・モンクレーヌ」
「わたしのこともアリスティドと」
二人は笑顔で握手をする。
「いやぁ。実は、本場のスコッチを飲めるのを、すごーく楽しみにしていたんですよ」
「それはいい。去年の出来はよかったし、蔵に父秘蔵の三十年物もあるんです」
夕食の後にどうですか、とマシューが勧めると、アリスティドはにこやかに微笑んで頷く。その笑顔がほんの少しだけリュネットに似ていた。
それぞれに一通りの挨拶を終えた頃、タイミングよくお茶が運ばれて来た。リュネットはいつもの癖でメイド達の方へ駆け寄り、その支度を手伝おうとしたのだが、茶器を持ったサラから咎めるような視線を送られたことに気づき、慌てて手を引っ込めた。この屋敷の中では当たり前になっていることでも、あまり一般的ではない行為だ。
「リュヌ。僕にお茶を淹れてくれる?」
困ったような表情になっているリュネットの気持ちを汲み、マシューはソファに腰掛けながらそんな要求を口にした。
主人に頼まれたのなら仕方がない。サラはリュネットにカップとポットを差し出し、それを受け取ったリュネットは意気揚々とお茶を注ぐ。そんな孫娘の様子に、ジュヌヴィエーヴは楽しそうに目を細めた。
「蒸気機関車というものは、随分と発展したのねぇ」
ジュヌヴィエーヴが暮らした頃にも既に存在はしていたが、移動の主力はまだ馬車であったし、そんなに利用したことはなかった。
もちろんフランスにも鉄道はあるが、長距離の移動を必要としないジュヌヴィエーヴには、ほとんど縁のないものだった。それ故に、久しぶりに乗った汽車に少し興奮した、とお茶を飲みながらおっとりと微笑む。
リュネットはそんな祖母の言葉を聞きながらにこにことしていた。十年近くずっと肉親との縁が薄かったリュネットにとって、祖母のことを少しでも知ることが出来るのは、失われていたその絆が戻って来たようで嬉しいのだ。
そんなリュネットの様子を、メグも嬉しそうに見守っているし、アリスティドも年下の又従兄妹の幸せそうな様子に目を細めていた。
ジュヌヴィエーヴもリュネットの視線を嬉しそうに受け止めながら、お茶請けに好物の檸檬タルトがあることに気づき、それをひとつ、口に運んだ。それを見ていたリュネットが「あっ」と小さく声を上げる。そうして頬を赤らめる様子に、メグは首を傾げた。
「どうしたの、リュヌ?」
「う、うん……あのね、檸檬のタルト、私も作るのをお手伝いしたの」
「そうなの?」
恥ずかしげに告げられた理由にメグは目を瞠り、すぐに檸檬のタルトを手にした。
「とっても美味しいわ!」
「でも、でもね? クリームを混ぜるのをお手伝いしただけだから、ほとんどジェシカさんが作ったのよ」
自分の実力ではない、と慌てて付け加えるリュネットの様子に微笑みながら、ジュヌヴィエーヴはふたつ目のタルトを手にしていた。
遠いところを訪ねて来てくれた祖母に、彼女の好物だというお菓子を作ってもてなしたかったのだが、ジェシカには我儘を言ってしまい、申し訳なかった。おおらかな彼女は笑って受け入れてくれたが、かなり迷惑をかけたと思う。
午後になると姿を見かけないと思っていたが、厨房に籠もっていたのか、とマシューもタルトを手にした。甘いものはそんなに好まないが、これは爽やかな甘酸っぱさが程よかった。
「大叔母様の作るクッサンも美味しいですよね」
お茶のお替わりを受け取りながらアリスティドは微笑む。
「あなたのお父様もそう言って、小さい頃はよく食べていましたよ」
ジュヌヴィエーヴの生まれ育った地域の伝統菓子クッサン・ド・リヨンは、少し工程に手間のかかるものだが、彼女の得意レシピのひとつだ。甘いものが苦手だった夫のギャレットも唯一食べてくれるものだった。
今度あなたにも作ってあげるわね、と告げられ、リュネットは嬉しげに頷いた。
夕食は午後八時からの予定だと聞き、それまで少し部屋で休ませてもらう、とお茶の痕にジュヌヴィエーヴとアリスティドとは別れた。メグも荷物を整理すると言って部屋に下がってしまったので、リュネットはいつも通りマシューと二人きりになってしまった。
「リュネット、ちょっと話そうか」
今日はさすがにいつものようにミーガン達の手伝いには行けないな、と手持無沙汰になっていると、マシューが改まった口調で書斎へと誘う。
なにかと怪訝に思ってついて行くと、一通の手紙を差し出された。
「先程、お祖母様からお預かりしていた。ジョセフ・スターウェルからの手紙だそうだ」
いつの間にそんな話をしたのだろうか、と双眸を瞠ってマシューを見上げ、彼の手にした手紙へと視線を戻す。
「謝罪の手紙だそうだ。父親がきみにしてきたことを聞き、すべての真相を知ったらしい」
リュネットに直接渡すと怯えるだろうから、あなたの判断で渡してあげて欲しい――とジュヌヴィエーヴは言っていた。
「自分の目で見るのが嫌なら、僕が内容を要約して伝えてもいい。見たくもないのなら、このまま暖炉にくべてしまおう」
どうする、と尋ねられ、リュネットは手紙へと手を伸ばした。
リュネットを逮捕へ至らせる冤罪の原因を作ったナッシュ・ワイルドは先月の終わり頃に身柄を拘束され、今は拘置所の中だ。裁判にかけられるときにリュネットが証言に喚ばれることもあるかも知れないとは言われているが、事件は一応は解決しているといえる。ドナルドも、ハウス警部も、近々行われる裁判で刑が確定することになっている。だから正直のところ、もう関わりたくなんてなかった。
けれど、ジョセフもある意味では巻き込まれた被害者だ。彼は父親の話を鵜呑みにして、その命令に従っていただけなのだから。
実際のところ、ジョセフ自身に恨むべき点はない。ちょっと乱暴にされたことがある程度で、直接はなにもされていないのだから。
手紙を受け取ったリュネットを、マシューは心配げに見つめる。そんな彼の袖をそっと掴んで引いた。
「あの……ちょっと緊張しているので、読んでいる間、一緒にいてもらってもいいでしょうか?」
躊躇いがちなお願いに、もちろん、とマシューは笑顔で頷いた。
「抱き締めようか?」
机に軽く腰掛け、両手を広げて見せる。冗談のつもりでそんなことをしたのだったが、リュネットは素直に近寄って来て、胸に背中を預けた。マシューはちょっと驚きながらも微笑み、手紙を広げる恋人の様子を静かに見守った。
手紙の内容は本当に謝罪の言葉だった。今までの自分の行いを悔い、とても誠実に謝ってくれているもので、少し角ばった癖のあるその文字は、リュネットの胸の奥にすとんと静かに落ちてくる。
文の最後には『もしも許してくれるのならば、これからは親戚として、お互いの支えとなって付き合っていければ光栄だ』と記されていたが、少し戸惑いは感じたものの、嫌な気分にはならなかった。
「侯爵、お願いがあるのですけれど……」
手紙を畳みながら、控えめに話しかける。
「結婚式に、サー・ジョセフをお呼びしてもよろしいでしょうか?」
謝罪の言葉は嘘偽りないと感じられた。親族に縁の薄いリュネットにとって、彼はその数少ない親戚である。仲良く出来るのならばそうしたいと感じた。
その言葉にマシューは僅かに顔を顰めたが、すぐに「きみが望むのならば」と笑みを浮かべてキスをしてきた。その優しい唇の感触にリュネットも微笑み、礼を告げた。
「ちょっとしたゲームを考えたの」
夕食を終え、揃って居間で寛いでいると、メグがそんなことを言った。
「私ね、お兄様のそのすかしたお顔が慌てるところを、一度くらいは見てみたいと常々思っていたのよ」
指名されたマシューは嫌そうな顔をする。
「随分な言い方だな。僕はお前になにか恨みでも買っていたかな?」
「別に? でも、いっつもなんでも卆なく熟すお兄様が慌てふためく様とか、一度くらい見てみたいじゃない。そう思わない、ハワード?」
室内に控えていた家令に話を振ると、彼は少し困ったように微笑んだ。
「そういう話をわたくしに仰られても困りますよ、マーガレットお嬢様」
同意を得られなかったことにメグは残念そうにするが、ハワードはニヤリとする。
「でもまあ、そんな表情は幼い頃に散々見させて頂きましたけれど、最近は特に見かけておりませんね。レディ・リュネットを怒らせれば見られるとは思いますが」
幼い頃は兄代わりだった家令の軽口に、マシューは舌打ちする。そんな様子にメグはにんまりだ。
「そんなわけでね、ちょっとしたゲームよ。準備して来るから待ってて」
にこにこしながら立ち上がり、リュネットとジュヌヴィエーヴの腕を掴む。驚いていると「ちょっと手伝って」と言われるので、二人はメグについて居間をあとにした。
残されたマシューとアリスティドは顔を見合わせ、思わず苦笑してしまう。
「妹さんは明るくていい方ですね。大叔母にもよく気を遣ってくださって、有難いです」
「そう仰るアリスティドも、十分お優しいではないですか。大叔母上の付き人のようなことをして、こんな遠くまで来られて」
「幼い頃から可愛がって頂いていますからねぇ」
これくらい恩返しのようなものだ、と微笑みながら、飲みたいと願っていたスコッチの入ったグラスを傾ける。
「わたしはね、大叔母様と一番仲のよかったエティエンヌ大叔父様に似ているそうなんです。生まれつきお身体の弱い方で、わたしの生まれるより前に亡くなってしまっているんですが」
亡くなったのは呆気ないほど突然のことで、ジュヌヴィエーヴは葬儀にも参列出来なかったという。海を渡った異国にいたのだから仕方のないことだが、ずっとそれを悔いているらしく、アリスティドにその兄の面影を重ねて可愛がってくれた。
身代わりで贖罪につき合わされているのだとは感じていたが、可愛がってくれるのは本心からのことだし、アリスティドはジュヌヴィエーヴのことが大好きだった。
「……わたしの初恋はね、ちょっと遅くて十四歳のときで、相手は大叔母様なんですよ」
最愛の夫を亡くし、悲しみに暮れながら故国に舞い戻って来た祖父の妹は、掻き消えてしまいそうなほど弱々しく儚げで、息を飲むほどに美しかった。まさかその女性が、既に四十を超えた年齢だとは到底信じられなかったことをよく覚えている。
「だから、リュネットに会えることは、ちょっと楽しみだったんです」
そう言ってアリスティドは悪戯っぽく微笑む。
一度も会ったことのない又従兄妹は、驚くほどにジュヌヴィエーヴと似ているらしいと知り、とても興味が沸いた。だからこそ、高齢の大叔母の付き添いも買って出たのだ。
そんなアリスティドの告白に思わずマシューが顔を顰めたとき、メグ達が戻って来た。
「さあ、お兄様!」
自信に満ちたメグの声が響くと、リュネットとジュヌヴィエーヴが背中を向けながら入って来る――が、先程までの晩餐用のドレス姿ではない。以前マシューがリュネットに贈った青いドレスと菫色のドレスを着て、髪型もそっくり同じになっている。
「どっちがリュヌか、おわかりになるかしら?」
二人は瞳の色が違うので、目を瞑ったままその場でゆっくりと回って見せる。驚くほどに見分けはつかなかった。背丈もほとんど同じで、体型もドレスに合わせてコルセットで締め上げて同じようになっているとはいえ、十九歳の孫娘と五十八歳の祖母が、まさか背格好もここまで似ているとは思わなかった。
アリスティドはじっくりと二人の姿を見つめてみるが、まったくわからず、すぐに「わたしはお手上げですかね」と溜め息を零して肩を竦めた。
メグはニヤニヤとする。
「どう? お兄様はおわかりになるかしら?」
着替えさせたメグでさえも、目を閉じられてしまうと、近くに寄らなければ見分けがつかなくて驚いたのだ。親友の自分でさえこうなのだから、兄もきっとそうに違いない、と確信を持って胸を張る。
「青いドレスがリュネット」
そんなメグの期待を打ち破るように、マシューは溜め息交じりにあっさりと答えた。
悩む素振りすら見せなかった兄の即答に、メグは双眸を瞠る。
「なにをやるのかと思えば……これで間違えて、リュネットと僕が喧嘩をすればいいとでも思ったんだろう? ようやく仲直りしたばかりなのに、冗談じゃない」
やれやれ、と立ち上がり、青いドレスを着ているリュネットの方へと歩いて行き――キスをした。それに驚いて目を開けると、マシューは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ほら。僕の大好きな瑠璃色の瞳だ」
「…………ッ!」
祖母やメグの前でキスをするなんて、いったいなにを考えているのだ、とリュネットは真っ赤になる。恥ずかしさと怒りに拳を震わせるが、迷いもせずに自分に気づいてくれたマシューのことが嬉しくて、その拳を振り上げることはなかった。
あらあら、と目を開けたジュヌヴィエーヴも微笑んだ。
メグは心底残念そうに溜め息を零し、悔しげに表情を歪めた。そんな様子を見ていたハワードが、隠れてこっそりと苦笑う。
「そうそう、アリスティド。さっきの初恋云々の話ですけど」
真っ赤になっているリュネットを宥めるように頬を撫でながら、思い出したようにマシューは振り返る。
「僕の初恋は、恐らくあなたよりも遅い二十一歳の、十二夜のとき」
さらりと告げられた年齢にアリスティドは大きく目を瞠る。初恋などだいたいの人は十歳前に経験しているものだ。十代も半ばになってそういう感情を抱いたアリスティドでさえ遅いと思っていたのに、マシューはそれよりも遅く、成人してからだという。
ほんの少し前のことではないか、と驚いていると、マシューは微笑んだ。
「その人は、出会い頭の僕にこう言ったんだ――あなたはとても酷い人です、って」
マシューの言葉にリュネットとメグは目を丸くし、揃ってマシューへと目を向けた。
「ねえ、愛しい僕のお月様。覚えている? 十一歳のお嬢さんの言った辛辣な言葉を」
忘れるわけがない。言ってしまってからしばらくして、あれはとても生意気だったし、お世話になった相手に対して失礼すぎる言葉だった、と心から恥じ入って後悔していたのだから。あれ以来しばらく気不味くて仕方がなかった。
「あのとき僕は、酔っていた愚かな頭に鉄拳を食らったような衝撃を受けて、突如として目が覚めたんだ。そして、僕はきみに恋に落ちた……今ならはっきりとわかる」
心からの笑みでそう告げ、驚いて固まっている華奢な身体を抱え上げる。突然視線の高くなったリュネットは短く悲鳴を上げ、恥ずかしさから慌てるが、そんな様子をその場にいた全員が温かな視線で見守っていた。
ずっと気づかないようにしていた。自分よりも小さな女の子に叱られて、その気丈さに惹かれただなんて情けない事実を。
けれど、マシューがリュネットを好きだと思うようになったのは、やはりあのときのように思う。それ以来マシューは、年に二度、末妹の小さな友人が遊びに来ることを、心待ちにしていたのだから。
そんな少女が美しく魅力的に成長し、今は自分の腕の中にある。なんと喜ばしいことだろうか。
「――…本当に、私の可愛い孫娘のことを心から愛してくださっているのですね、カートランド卿」
真っ赤になっている初心で恥ずかしがり屋な少女を愛しげに見つめていると、彼女にそっくりな祖母はそっと微笑んだ。マシューは笑顔で頷く。
そんなマシューの笑顔とリュネットの真っ赤な顔に、そう、とジュヌヴィエーヴは眩しげに頷いた。
「それでは、今回のズルは、見逃して差し上げますわね」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべ、トントンと自分の首筋を指先で叩いた。
あっ、とマシューは小さく声を漏らし、バツが悪そうに苦笑した。
「年の功ですわ」
マシューの気不味げな表情に向かって楽しげな笑い声を響かせ、先に休むことを告げると、決して年寄り臭さなど感じさせない軽やかな足取りで出て行った。
「ズル?」
祖母の残した言葉に、リュネットは怪訝そうな顔をした。なにかそのようなことをした気配はなかったのだが、気づかないうちにマシューはなにかしていたのだろうか。
「なんでもないよ」
不審げな表情を向けてくる恋人に肩を竦めて誤魔化すが、彼女はまだ不思議そうな顔をして首を傾げている。初心な彼女は真相を知ったらきっと怒って、また口を利いてくれなくなるだろうことが想像出来た。一ヶ月近くも冷戦を続けていたのが最近ようやく仲直り出来たところだというのに、再び険悪になるのだけは御免だった。
まったく以て、あのお祖母様には敵いそうにない――マシューは溜め息交じりに苦笑するしかなかった。
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