愛執の匣

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1話

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「ねえ、セックスってしたことある?」

 意地悪い声音に、兄の手が止まった。
 表情は憎らしいくらいに変わらなかった。ただ、金がかった少し長めの前髪の影、細い銀色のフレームの奥の瞳が、僅かに揺らめいた。
 その僅かながらの変化に、昂大たかひろはにんまりとする。

 兄の匡一きょういちは、腹立たしいくらいクールだった。何事も卆なく、平均点以上の結果でこなし、真面目で、教師や後輩達からのウケもかなりいい。もちろん近隣住民や親類からの評判もかなり高い。
 対する昂大は、顔はそっくりだというのに何事にもやる気がなく、日々を適当に生きているような性分だ。漫画やドラマの設定のように、真面目な兄と不良の弟などというほどにははっちゃけた性格をしてはいなかったが、あの兄にどうして似なかったのか、と嘆かれる程度には落第生だった。
 そんな昂大は、いつの頃からか、兄との関係に距離を取るようになっていた。

 周囲に比較されることも腹立たしかったが、そんな兄のように生きられない自分にも嫌気が差していたからだ。ならば、比べられたりするようなことがないように、近づかなければいいだけのことだった。
 小さい頃はべったりしてこの上なく仲のよい兄弟だったが、兄が中学生になる頃には、昂大は匡一に近づかなくなっていた。匡一はそれに気づいているのかどうなのか、特になにを言うでもなく、弟の作った距離をそのまま保っている。それがまた、昂大には腹立たしかった。

 以来、昂大はなにかと匡一に反発している。
 だから、揶揄い半分、その整ったクールな表情を崩してやろうと、先程のような意地の悪い質問をぶつけてみたのだ。

 昂大はニヤニヤと兄を見つめた。

「へぇ。やっぱ兄貴経験あるんだ?」

「……馬鹿なことを言っていないで、早く問題を解け」

「いいじゃん、教えてよ」

 昂大はノートの広げられたテーブルの上に身を乗り出し、迷惑そうな横顔を見せる匡一を見つめた。

「ねえ、誰としたの? 気持ちよかった?」

 今付き合ってる人かな、それともその前の人かなあ、とケラケラ笑いながら兄の女性遍歴を指折り数えてみる。
 匡一は前述の通り、性格もよく先生受けもいい優等生で、成績も悪くなく、運動神経もいい。まるで少女漫画のヒーローのような彼が、モテないわけがないのだ。昂大が知っているだけで、中学生のときに一人、高校生のときにも二人の彼女がいた。他にもいたかも知れないが、昂大が把握しているのはその三人だけだ。大学に入ってからはサークルのメンバーだという女性の名を何人か耳にしたが、特に親密な間柄ではないと言っている。

 ねえ、とまた昂大がニヤニヤ顔を向けると、トンと音を立てて匡一がシャープペンシルをテーブルに置いた。眼鏡の奥の瞳が、ジロリと睨みつける。

「いい加減怒るぞ、タカ。今の自分の立場がわかっているのなら、真面目に問題を解け」

「なにキレてんの?」

 相変わらず表情を変えはしなかったが、口調に僅かな苛立ちを含ませる兄に、昂大は尚もそんな軽口を叩く。匡一はそんな弟の不真面目な態度に深い深い溜め息を零した。

「こんな因数分解の初歩も理解してないような子供に、セックスがどうのなんて話は早いと思うよ、兄ちゃんは」

 呆れた口調で零し、テーブルの上に折り畳まれた短冊状の成績表を乗せる。そこに記された成績は、辛うじて社会科の得点だけは平均点を上回っていたが、他の科目はほぼ壊滅状態で、特に酷いのが英語と数学だったのだ。昂大はバツが悪い心地になりながらもそれを外には出さず、ただ不貞腐れたような表情をして成績表から目を逸らした。

 昂大の中間考査は散々だった。順位は下から数えた方がかなり早い。
 一年生のうちはそうでもなかったのだが、二年生になる頃から徐々に下がり始め、大切な三年生の一学期中間考査の結果が、とうとうコレだ。
 トップグループの、しかも三位以内の常連だった匡一とは大違いの成績に、彼の在校時を知る教師はえらく驚き、同時に僅かに落胆したのだった。
 そんなこんなが、兄に対して小さな反発心を抱いている昂大にとってはとても腹立たしく、ストレスを感じさせるものだった。
 その上、今のこの状況だ。
 昂大の成績の下降っぷりを案じた母が、匡一に弟の家庭教師をしてやるように言いつけたのだ。どうやらきちんと時給が発生しているらしく、金額は千円らしいのだが、家庭教師としては格安で、学生のバイトの時給としては好待遇の額になるだろう。
 その授業が、週三日、一日三時間だ。うんざりする。

 昂大はテーブルの上に顎を乗せ、持っていたシャープペンシルを上唇と鼻の間に挟んで唇を尖らせた。

「どうせ兄貴にオレの気持ちなんかわかりっこないよ」

「なにをいじけているんだ、お前は」

 昂大の勉強を見てやる傍ら、自分のレポートもやっているらしい。中学生用のものではない参考書を膝の上に載せながら、やる気のない弟を呆れたように見つめる。
 ふん、と昂大は鼻を鳴らした。

「オレは出来のイイ兄貴とは違うし。こんなのいくらやったって理解出来ないしね!」

「だから俺が教えているんだろう」

「無ぅー理ぃ~! オレにこんな問題出来る筈がないの!」

 叫んだかと思うと、素早くパンパンパンとノートと問題集を閉じ、ペンケースをその上に重石にして後ろへ引っ繰り返った。

「昂大」

 完全に勉強を放棄した弟に、匡一は静かに声をかける。昂大は返事もせず、ぐるりと背を向けた。

 微かに溜め息を零し、眼鏡を外す。
 匡一には弟の考えていることがよくわからなかった。小さな頃は、兄ちゃん、兄ちゃん、と後ろをついて来ていた弟が、匡一が中学に上がる頃から傍に寄りつかなくなった。そういう年頃なのだろう、と思っていたが、どうやら自分は彼にあまり快く思われていないらしい。会話をすれば先程のように妙に突っ掛かってきたり、挑発的な物言いばかりを繰り返す。まったく子供染みた行為だ。


「昂大、もうやらないのか?」

 眼鏡のツルを閉じたり開いたりと弄びながら、匡一は背を向けた弟に問いかける。勉強を始めてまだ三十分――元々あまり集中力のない性質だが、今日は特に酷い。
 金曜日の夜、二十一時を少し回ったところだ。
 二十時東京駅発の夜行列車に乗って旅行に出かけた両親不在で、週末の夜――こんな素晴らしい時間はない。その素晴らしい時間帯に、お互い勉強などしたくないのは山々だ。

 よし、と匡一もノートを閉じた。

「今夜はもう止める」

 その声に、昂大が跳ね起きた。

「本当?」

「やる気がない奴に教えても意味はないからな」

「さっすが兄貴!」

 へへ、と笑いながら、昂大はノートの他に参考書と辞書も纏めて抱え、さっさと立ち上がった。

「ゲームするなら、風呂に入ってから、日付が変わる前までだからな」

 自分のノートや参考書を片付けながら、部屋を出ようとしている弟に声をかける。

「うるさいな、小姑! わかってるよ!」

 母親のようなことを言う兄にべーっと舌を出し、自分の部屋へと走って行った。隣からドアの開閉される音が響き、机の上に勉強道具をぶちまける音が続くと、すぐに着替えを抱えた昂大が部屋の前を横切って行った。呆れている匡一には見向きもせず、脱衣所で手早く服を脱ぎ捨て、浴室に飛び込む。カラスの行水などという速さで出たらまたなにを言われることか、とうんざりしつつ、少し時間をかけて髪と身体を洗い、湯船にも長めに浸かった。

 脱衣所に戻り、脱ぎ捨てた服の下敷きになっていた携帯電話を引っ張り出して時間を確認すると、所要時間約十五分。これなら文句ないだろう。
 パジャマ代わりのスウェットに着替えてキッチンに向かい、水を一杯飲み干し、そこへ氷とオレンジジュースを注いだ。そのコップを手にしたままお菓子の置いてある棚を漁り、ポテトチップスを一袋取り出す。これで準備万端だ。



「――…え、明日?」

 部屋に戻る途中で兄の部屋の前を通りがかると、僅かに開いたドアから兄の声が漏れ聞こえた。

「急だな。……いや、予定はないけど。あまり気乗りしない」

 電話中のようだ。

「いや、だってカラオケだろ? 俺、歌うのあまり好きじゃないんだよ。音痴でさ」

 どうやらカラオケに誘われているらしい。
 よく言うぜ、と昂大は思った。高校生の頃は放課後しょっちゅうカラオケに行っていた。匡一が帰りが遅くなるときは、予備校の日でなければ、カラオケかボウリングで遊んでいたからだ。
 それに、匡一は歌が上手い。身内の贔屓とかではなく、あれは上手い部類に入る歌声だ。

(行けばいいのに)

 そうしたら明日は家に昂大が一人だ。なにも気にせずのびのびと出来るというものだ。
 ふん、と鼻を鳴らし、自分の部屋へと引っ込んだ。




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