お菓子と僕

餅雅

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お年玉

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 空を霧の様にかき曇らせていた雪が止んだ。雲の切れ間から陽の光が零れ、薄明光線が幾つも白い大地に降り注いでいる。さっきまでの嵐が嘘のように、何処かから甘い花の香りが漂って来た。道に佇んでいた高山 栄一は不思議そうに周りを見渡した。前も後ろも、雪が積もっている。道路も土塀の上も、住宅街の屋根の上も一様に真っ白だ。今はまだ冬だ。花なんて咲いている訳が無いと思いつつ、栄一は白銀の世界を突き進んだ。道の角を曲がった先にお寺がある。その立派な四脚門の前に立つと、訝しく思いながら中を覗いた。
「栄一、こっちじゃよ」
 名前を呼ばれた気がして周囲に視線を這わせた。誰もいない。こんな事をしている場合では無い。一つ前のバスで妻と娘が先に妻の実家に着いているはずだ。きっと、遅れた栄一の事を待っているだろう。そう思い直して踵を返すと、今度は幼女の声がした。
「パパ~!」
 門の中へ再び顔を出すと、娘の六花が手を振っている。不思議に思いながら寺の敷地に入ると、寺の中から妻の茜も出て来たものだから驚いた。聞くと、実家に行くよりも前に、ご先祖様に挨拶をしていたのだと言う。寺の裏の墓地に三芳家の先祖代々の墓が在るのだと言った。
「おじいちゃんからね、お年玉貰ったのよ」
 五歳の六花が無邪気に言うと、それを聞いた妻が眉根を寄せた。
「さっきまで吹雪いていたでしょう? その間にこの子ったら何処かのお宅のお爺さんに良くしてもらったらしくて、お年玉まで貰ったのに、名前を聞かなかったって言うのよ? お礼を言いに行きたいのだけれど、場所を忘れてしまったらしくて……」
 そう不満そうに話した。見ず知らずの老人からお金を貰ったとあっては親として心中穏やかではいられない。
「幾ら入ってたの?」
「五百円!」
 嬉々として応える娘の顔は、とても溌溂としている。
「どんなお爺さんだったの?」
「にこにこしてて、暖かそうな赤い着物着てた。赤い毛糸の帽子被ってて……家の中に入れてくれて、火鉢にあたらせてくれたの。あとね、あられを焙ってくれたの」
 不意にまた、栄一の鼻先をあの香りが掠める。
「おじいちゃんの事は栄一お父さんが知ってるよって言ってた」
 頭の中で、遠い懐かしい記憶が蘇った。
「ああ……多分、大丈夫だろう」
「あなた……」
 反論しようとした妻を制した。
「そのお年玉を貰った時、お爺さんになんて言われたんだ?」
 六花は得意気に頬を高揚させていた。
「よく考えて使う事」
 脳裏に、微笑みを湛えた老人の顔が思い浮かぶ。
「お礼は言えた?」
「ありがとうございますって言ったの」
「ならそれで良いじゃないか」
 そう言って六花を抱き上げると、妻に向き直った。
「お墓、お父さんも挨拶に行って良いかな?」
「それは別に構わないけれど……」
 彼女はまだ不安気な顔をしていたが、栄一はにこりと笑う。
「実は、お父さんの小さい頃の話なんだけれど……」
 雪を踏みしめながら昔の記憶を辿った。


 ーーどういう経緯だったのかをよく覚えていない。ただ、自分の小さな掌に和紙で出来た小さなお年玉袋が握られていた。白と銀の水引で出来た五本取りの梅結びが付けられていて、梅結びには『固く結ばれた絆』『魔除け』『運命向上』等の意味があるのだと言われた。仄かに爽やかな銀梅花の香りがして、それには祝福の意味があるのだと……けれども当時は親のいない所で直接、自分に手渡された事が嬉しくて、それらの言葉を聞き流していた。
「よく考えて使う事」
 老人のその言葉だけ辛うじて耳の底に残った。親はまだ小遣いなど持たせてくれなかったし、親戚から貰ったお年玉は大抵親が銀行に預けてしまう。だから何を買おうかとか、一人でお店に行くのが楽しみだとかそういった事で胸がいっぱいだった。だからお礼を言ったのかもあやふやだった。もしかしたらお礼の一つも言わなかったのかもしれない。


 梅が満開である。枝に沢山の花をつけているが、白い雪が積もっていてその香りだけが漂っていた。外との仕切りのない縁側に腰掛けている老人が一面に降り積もった雪景色を眺めている。赤い丹前を羽織り、湯気の立つ焙じ茶を啜っていた。白地に藍色の模様が入った重く硬い肌触りの湯呑みは砥部焼で出来ていた。
「ひいさん」
 子供が庭先にやって来て老人に声をかけた。庭を囲った築上塀を背にして、黒いジャンパーを羽織った男の子が立っている。茶色いコーデュロイのズボンに、藍色の暖かそうなブーツを履いていた。老人は濡縁に座ったまま、五つ程の栄一に微笑みだけ向けている。彼は不貞腐れた様に頬を膨らませ、眉間に深い縦皺を寄せている。老人の隣に来ると、荒々しく腰掛けた。
「母ちゃんに怒られた」
「そうかい。お母様に怒られたのかい。それは辛いねぇ」
 毛糸の赤い帽子のてっぺんに付いた毛糸玉をゆらゆらと揺らせながら何度も頷いていた。
「何で駄目なのかな?」
 幼子の円な瞳は潤んでいた。今にも、涙が零れそうなのを必死に堪えている。
「何があったんだい?」
 微笑みながら優しく問い質した。彼は不満気な顔をして灰色の空を見上げ、頭の中を整理するように足元の雪に視線を落した。
「さっきひいさんがお年玉くれただろう? それを黙って持ってて、駄菓子屋でお菓子を買ったんだ。それから、公園でお菓子を食べようと思って蓋を開けて、ほら、小さなビニール紐みたいなのが出るじゃん、あんな細くて小さいの、と思って直ぐ捨てたんだ。それを母ちゃんに見られてて、凄く怒られた」
 必死に身振り手振りを加えて話した。どうやら箱型の、ビニールに包まれた駄菓子を買って、それを開けた時に細いビニールゴミが出たのだろう。
「それは悪かったの」
「ひいさんからお年玉貰ったって言うべきだったかな? けど、そんな事したら銀行に貯金するって取り上げられるの解ってるし、お菓子を買って、ひいさんとこで隠れて食べたら良かったかな?」
 ぶつぶつ言っていると、老人はふふっと笑った。
「そうじゃな、一言、お母様に報告すべきじゃったな。たった五百円程のお年玉を銀行に態々預けに行ったりせんよ」
 そこまで言ってお茶を一口啜った。
「まあ、儂からも一つ言わせて貰えるじゃろうか?」
 栄一は不思議そうに老人の顔を見上げた。
「お年玉を渡す時、ワシが何と言ったか覚えておるかな?」
「よく考えて使う事」
「そう」
「ちゃんと考えて、親に黙ってお菓子を買ったんだよ」
「そうじゃな。けれどもそれがワシの真意じゃと思ったのかな?」
 そこまで言われ、老人が怒って居るのだと気付いた。顔は笑っていて言葉も柔らかいが、何となく叱られているように感じる。
「解んないよそんなの」
「そうじゃな。では想像してみよう。
 ワシが生まれたのは貧乏な家での、父はワシが七つの頃に、母は十歳の時に病で亡くなってしまった。親戚を転々とし、その時に出会ったのが貝原益軒の和俗童子訓じゃった。ワシはその本に感化され、沢山勉強した。色んな本を読んだ。十二歳から働きにも出た。色んな人の支えがあって役職も貰えたし、家も建てた。結婚もして子供も四人居た。退職してからは田畑を耕すのが専らの趣味じゃった。そんな老人が、年離れた幼子にお菓子を与えずに何故、少ないお金を渡したのじゃろう?」
 子供の眉根が引きつっていた。
「勉強しろってこと?」
「なに、買い物だってれっきとした勉強じゃよ。ただ、お菓子は食べてしまうと無くなってしまう。本なら何度でも読み返す事が出来る」
 彼は口をへの字に曲げ、神妙そうな顔をしている。それならそうと、お年玉を渡した時に「本を買え」と言えば済む事だ。なのに、後出しじゃんけんの様に言われ、不貞腐れている。
「まあ、これは少し……ワシの意地悪じゃがの」
 にこりと笑うが、彼の表情は憂鬱そうだ。
「本なら図書館へ行けば借りる事も出来るしの、栄一にとってはお菓子の方が勉強になるかもしれん」
 彼の目が期待で輝いていた。お菓子で勉強出来るなど聞いたことがない。お菓子はただの美味しい趣向品だと思っていた。だからもしかしたら、これをきっかけに勉強になるから……と言って、いつも買ってもらうお菓子を増やすことが出来るかも知れない。そんな思惑さえ浮かんだ。
「お菓子で勉強?」
「そうじゃよ。例えば……」
 老人はそう呟いて瞳を宙に投げた。嬉しそうに、興味津々な表情の彼の為に言葉を探す。
「栄一にお菓子を売ってくれた店員さんが居たじゃろう?」
「うん」
「そのお店のご主人が、このお菓子をお店に置きたいと思って、卸屋さんから買って来るんじゃよ」
 思ってもない言葉に目を丸くした。
「その卸屋さんはお菓子のメーカーさんからお菓子を買うんじゃな。そしてそのお菓子のメーカーさんの中でどんなお菓子にするかという企画を立てたり、デザインを考えたり、価格を決めたりする人達が居るんじゃよ。お菓子を作る機械も要るのう。その機械を組み立てる人、機械の部品を作る人も……」
 幼い眼差しが、驚いた様に更に大きくなった。
「そのお菓子は、どんなお菓子なんじゃい?」
「ピーナッツにチョコレートがコーティングしてあるやつ」
「では、チョコやピーナッツを買い付けに行く人も要るの、カカオは中南米の方だったかの? そこでカカオを育ててくれる人も必要じゃ。ピーナッツは落花生じゃな。それを育てる農家さんも必要じゃ」
 栄一の顔が呆気に囚われ、口を開けたり閉めたりを繰り返すが声にならない。たかが駄菓子一つにそれだけの人が関わっているだなんて、今まで誰も教えてくれなかった。考えたことも、疑問に思うこともなかったのである。
「カカオやピーナッツは人の手だけでは育てる事が出来ない。栄養のある土も要るし、水も要る。あとはお日様の光じゃな。お日様も、今より近過ぎては地球が熱くなり過ぎてしまうし、遠すぎては寒過ぎてしまう。丁度良い距離に居てくれるから、植物が育つのじゃよ」
 頭の中が沢山の人で溢れ、地球を出て太陽系が広がった。あまりにも壮大な話に、お菓子の話をしていた筈なのに……と頭を悩ませている。
「じゃからの、このどれか一つでも欠けると、栄一の手元にはお菓子が届かないのじゃよ。じゃからそのお菓子一つ、栄一が食べる為に沢山の人や、長い時間や、環境が関わっている。栄一の為に、この世界の皆がそれぞれの仕事を全うし、お菓子を作って栄一の元へ届けてくれたんじゃよ。それを忘れない為に、物を頂く時には手を合わせて『戴きます』と言うのじゃよ」
 息を飲んでこくりと頷いた。まさか、お店で売られているお菓子一つにそんな壮大な世界が詰まっているなどと考えたことが無かったのだ。お店にあることが、親に買ってもらえることが普通になり、食べられることが当たり前になっていた。そこには感謝など微塵もなく、ただ貪っていただけなのだと気付いた。
「それからもう一つ」
 まだ、何かあるのかと老人を見つめた。
「どんなに小さなゴミでも、ポイ捨てはいかん」
「え~……ミミズよりも細いんだよ?」
 栄一が煩わしそうに呟くと、老人はふふっと笑った。
「ビニールは土に還らないからのぅ……例えば、栄一が捨てたそのゴミを、犬や猫が食べ物と間違えて食べてしまったらどうじゃろう?」
 突飛な発言に彼の顔が強張った。
「お腹を壊してしまうかもしれないし、喉に詰まらせて死んでしまうかもしれない。飼い犬や飼い猫なら飼い主は悲しむじゃろうな。その犬猫がこれから先産んだかもしれない子や孫達がみんな生まれなくなってしまう。犬や猫でなく、人間の子供だったら……?」
「そんなの……」
 堪らなくなり、栄一が叫ぶように声を絞り出した。
「……わからないよ」
 そんなことまで考えた事が無かった。
「そうじゃな、これは少し残酷な話じゃった。ではもう一つ、栄一が捨てた小さなゴミを見たのが、悪い人だったらどうじゃろう?」
 奇抜な話に栄一は頭を悩ませた。
「悪い人?」
「まあ、泥棒さんかな。公園や道端にゴミが落ちている。それを見た泥棒は、この街はルールの守れない人が住んでいる街だと思う。ルールが守れないという事は周りにそれを注意する人も居ない、無感心な人が多いと言うことじゃ。周りに無感心な人が多いという事は他所の家に泥棒が入っても誰も気付かないと言うことじゃ」
 想像しただけでどんどん顔が引き攣っていた。
「泥棒に入られた人は財産を奪われて、それは悲しい思いをするじゃろう。泥棒に入られた人はまた泥棒に入られるのが嫌で引っ越すかもしれない。泥棒が出る街だと知った人たちも治安が悪い街だと思って出て行くかもしれない。そうなると、街の税金を納める人が減ってしまう。税収が減ると街を維持するのが難しくなってくるじゃろうな。警察も慈善事業ではないから、ますます治安は悪くなって行く……」
 泥棒に入る人が一番悪いだろう。けれども、泥棒が入りやすい環境を自分が作ってしまったとしたら……自分の些細な行動が、周りや地域の人に影響を及ぼしてしまうと考えると顔面蒼白だった。それを見て、老人は脅し過ぎたかと言葉を止める。
「あとは、栄一自身の悪い習慣にならない様にとお母様は咎めたのだと思うのだよ」
 いつの間にか雪が降り始めていた。
「これくらい、と思う事でも、一度癖になると人は中々辞められなくなるものなのだよ。最初は小さなゴミでも、そのうち空き缶やお菓子の袋になり、タバコの吸殻になっていく。そういう悪い習慣が身について大人になると、他人から信用されなくなってしまう。信用されないと仕事をさせてもらえない。仕事が出来ないと給料が貰えなくて食べるものにも困ってしまう。そして遂に強盗に押し入って他人の物を盗み、前科が付いてしまう。前科が付けば尚更職に付くことは難しいから、犯罪を繰り返し、刑務所へ入ったり出たりを繰り返してしまう。そんな人生を送って欲しくないから、お母様は栄一を怒ったのじゃよ。良かったの、叱って貰えて。もうせんじゃろ? 栄一は立派な大人になるわい」
 そっと老人は彼の頭を撫でた。栄一は俯き、小さく頷く。
「……ひいさん、これ、一個あげる」
 ジャンパーのポケットからお菓子の箱を取り出した。中から茶色い丸いお菓子を一つ摘んで差し出すと、老人は両手で大事そうに受け取った。
「ありがとうございます」
 老人がにこりと笑うと、彼は頷いてそのチョコレートを眺めた。このチョコレート一粒に沢山の人と時間と環境が詰まって居るのだと思うと、いつもよりも美味しく感じられる。
「十言の神咒と言っての」
 再び話し始めると、首を傾げた。
「栄一にはお母様とお父様が居るじゃろう? そのお母様とお父様にはまた親が居る。さらにその親にも親が居て、それらを先祖と言うんじゃが、それをずっと遡って行くと人類の始まり、果ては生命の誕生まで遡る事が出来るんじゃよ」
 彼は目を丸くして不思議そうに老人の顔を見た。頭の中に、本で見た原人とかアウストラロピテクスが現れ、恐竜が出て来た。
「この中の誰か一人が欠けると栄一はこの世に存在しなくなってしまう。先人達が皆頑張ってくれたから今、スイッチ一つで電気が点くし、軽くて暖かい服を着る事も出来る。栄一の中にはそれらの……世界の長い歴史が詰まっておる。この地球に七十億人以上人間がいる中で、栄一と出会えるのは本当に奇跡に近い事なんじゃ。じゃから、ありがとうございますと言う十文字には、相手を肯定し、世界を肯定する意味が含まれておる。じゃからいくら言っても失礼にならないし、沢山言うと皆に喜ばれる神語なのだよ」
 少し難しくて首を傾げた。その様子を見て老人が言葉を変える。
「生まれてきてくれて、生きてここに居てくれて感謝しています。という意味が、ありがとうございますの十文字に含まれておるのじゃよ」
 手を合わせて拝む老人を見て、少し恥ずかしそうにそっぽを向いた。ふーんと鼻を鳴らすと、縁側から飛び降りた。
「母ちゃんに謝ってくる」
「そうすると良いよ。親は子供に、立派になって欲しいと願って叱っているのだから、反省して次また同じ事を繰り返さないように気を付けていれば、親は自ずと口出ししなくなるものじゃよ」
 栄一は頷くとにこりと笑った。
「ひいさん、ありがとうございます」
 庭を駆けて行ってしまうと老人は再び庭の梅の木に目をやった。雪がしんしんと降っている。梅の香りだけが仄かに香っていた。老人はふふっと笑うと子供がつけた小さな足跡に雪が積もるのを眺めていた。


「それから、何度かひいさんに会いに行こうとしたんだけど、結局それきり会えなくてさ、夢だったのかと思ってた」
 栄一の話を聞いていた妻が不思議そうな顔をしている。六花は貰ったばかりのお年玉袋を眺めながらにんまりと笑っていた。寺の裏から山肌に沢山の墓石が並んでいる。その間を縫うように三人は山を登っていた。
「それ、もしかして……」
 茜が言いかけると、六花が指を立てて声を上げた。
「あ! さっきのおじいちゃん!」
 栄一と茜が六花の指し示した方へ顔を向けると、梅の木があった。雪が降り積もっているが、よく見ると白い梅の花が幾つもついている。その梅の木の足元に小さなお地蔵様が佇んでいた。赤い毛糸の帽子に、小さな赤い布が巻かれている。それを見た六花が残念そうに声を潜めた。
「間違えちゃった……」
「そうね、もしかしたらお地蔵様が六花を助けてくれたのかもね」
 妻はそっとお地蔵様の前に屈んで手を合わせた。六花も母に倣い、栄一も手を合わせる。仄かに梅の香りが漂っていた。
「このお地蔵様ね、私の曾祖父が作ったんですって」
 お地蔵様の顔は嬉しそうに微笑んでいるように見える。
「祖母から聞いた事があるの。昼間は働いて、夜は夜中までずっと勉強しているような人だったって……子供の頃からの癖だったそうよ。お話し好きでいつもにこにこしていた人だったって……戦争で息子二人を亡くして、末っ子と奥さんは病気で亡くなったそうなの。唯一残った娘……私の祖母の為にこのお地蔵様と梅の木を遺したんだって。
 どんなに寒くても真っ先に春の訪れを報せる梅の様に、どんなに辛くても必ず幸せは訪れるから笑っていなさい。苦しくなったらこのお地蔵様に話しなさい。そう言ってたそうよ」
 そこまで話してふと茜は梅の木を見上げた。
「不思議な事もあるものね」
 茜は可笑しくて思わず笑った。その笑い皺が、ひいさんの笑顔を栄一に思い出させた。
「……そうだな」
 まさか、あの時の出会いがこんな形で縁を結ぶなどと栄一は考えた事も無かった。だから本当にあの時、おひいさんに会わなかったら今の自分は無かったと思う。
「ありがとうございます」
 栄一が呟くと、六花も同じように復唱した。妻も微笑みながら同じ言葉をお地蔵様に添える。
「ありがとうございます」
 不意に何処かから老人の声が降ってきて三人は不思議そうに周りを見渡した。さっきまで止んでいた雪が、再び降り始めている。ちらつく雪の中、墓石がそこここに並んでいるだけで他に誰も居ない。三人は顔を見合わせ、お地蔵様へ目をやるとふふっと笑った。
 三人が墓参りを終えて帰って行く後ろ姿をお地蔵様が微笑みながら見送っていた。
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