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ゴミの分別
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谷崎 一郎はゴミの分別をしていた。父が亡くなり、独り暮らしをしていた父の遺品を整理していた。一郎は一人息子だった。けれども父とは仲が悪かった。父は何でも反対した。行きたかった学校も、入る会社も、結婚相手だってそう……一郎の希望は悉くこの憎き血の繋がった父親に潰されたのだ。
自分は父親に嫌われていた。
父の遺品を整理しながらそう思う。母は十年前に他界していた。癌だった。発見が遅れたのも親父のせいだった。小柄でひ弱な母に負担をかけて父が殺したのだ。そう思うと遣る瀬無かった。
「どうしたの?」
不意に声をかけられて振り返った。リビングに見たことのない子供が一人ぽつんと立ち尽くしている。小学校低学年くらいだろう。頭に藍色の布を巻いている。一瞬、父の隠し子を疑った。
「君は?」
「ただの通りすがり。銀河っていうの」
通りすがり……そう言えば、ドアを開けっ放しにしていたのかもしれない。ここは一階で玄関が裏通りに向いていたからそれで子供がやってきたのだろう。
「危ないからあっちへ行きな」
掌をぶらぶらさせてしっしっと犬でも追い払う様に言った。
「ねえねえ、これ貰っても良い?」
子供がそう言って小さな白い物を手に取った。小さな車の玩具だ。ピンクのマジックや緑のクレヨンで落書きされている。一郎は眉根を寄せた。
「そんなゴミ貰ってどうするんだ? もっと良いものを親に買って貰いな」
少しうっとおしかった。けれども突然、記憶の奥底からあの小さい車の玩具の事が思い浮かんだ。
五歳だったか、六歳だったか、兎に角小さい頃、ショッピングモールへ両親に連れて行って貰った事があった。目に映る全てが輝いて見えて、玩具屋の前で、ショーウインドウに飾られていたそれに僕は釘付けになっていた。
「あの新幹線が欲しい!」
そう、あの時自分はそう言ったのだ。駄々を捏ねて、両親にねだったのだ。
「駄目だ」
いつもの、厳しい父の怒号に幼い一郎はしょんぼりと肩を落とした。そんな一郎の頭を撫で、母が一郎の隣に屈み込む。
「一郎ちゃん、ごめんねぇ。また今度ねぇ」
また今度……そう、そんな日は絶対に来ないと一郎は知っていた。お金が無いのだ。
「あ! ほら見て一郎ちゃん。あっちに小さな車があるわ。あれならママ、パパに内緒で買ってあげられるけど、あれじゃ駄目かしら?」
母親の提案に一郎は顔を上げた。誕生日でも無いのに買ってもらえたそのミニカーが嬉しくて、寝る時もずっと大事に持っていた。車の底に、覚えたての平仮名で自分の名前を書いて、偶に絵の具やマジックペンで車の色を変えて……そういえばあの時から、車関係の仕事に就きたいと漠然と思っていた。それで車の整備士になったのだ。
「駄目なの?」
銀河の声で現実に戻ると、一郎は銀河が手にしている車を一瞥した。タイヤは確か壊れて一つ無くなっていた筈だが、後輪タイヤの一つだけピカピカのタイヤがはめられている。多分、母が直したのだろう……
「そこに置いておいてくれ」
「そう……じゃあこっちは?」
今度は青いガラスコップを銀河は取り出した。また、一郎の脳裏に記憶が蘇る。
小学校三年生の時だったろうか? 母が気に入っていたガラスコップを割ってしまった事があった。幸い母は買い物に出ていたが、父に怒られるのが怖くて泣きながら素手で割れた破片を拾っていた。それに気付いた父が意外なほど何も言わずに片付けを手伝ってくれて、ガラスの破片で切ってしまった僕の指先に絆創膏を貼ってくれた。
「ちょっと付き合え」
ぶっきらぼうに父は言った。拾い集めた割れたガラスコップを持ち、父に連れられて外へ出た。
自分は等々捨てられる。
「ごめんなさい。ごめんなさい!」
と何度も泣き喚き、古びたお店の奥へ連れて行かれた時、自分はここに売られるのだと思った。
「シンさん、すまねぇ。こいつ直るかい? 家内の奴がさ、気に入ってて……」
サウナの様な暑い部屋の奥で何か作業をしていた中年は、ビニール袋の中のガラスコップを一瞥して苦笑いを浮かべた。
「へぇ、結婚記念日の、トシさんが作ったやつ……」
トシは一郎の父の名だ。そこで初めて、自分が壊したものが、父の手作りだったのだと知った。
「こいつはもう無理だぜ。また作り直した方が早い」
中年男はにやにやしながら言った。
「一郎、お前が壊したんだから、お前が作れ」
ぶっきらぼうに言われ、今会ったばかりの中年おじさんに長い棒を持たされた。
「一郎、デカくなったな。おじちゃんが教えてやるよ。あそこに赤く光ってる炉があるだろ? あそこにな、溶けたガラスが入ってんだ。火傷するなよ? 棒の先にガラスの液をつけたらな、この濡れた新聞紙で形を整えて、棒の反対側に穴が開いてるだろ? そこから空気を吹き込むんだ」
おじさんに教えられながらも、炉は離れていても熱を感じるし、それこそ太陽でも閉じ込めているんじゃないかと思うくらい熱くて怖かった。息を吹き込む時なんか、熱気が逆流して喉が焼けるんじゃないかと心配した。
そんなこんなで泣きべそかきながらおじさんに手直ししてもらい、一週間後にそれは自宅へ届けられた。届いた箱を父は一郎に渡した。
「ほら、今日は何だ……母の日だろう。お前が作ったんだからお前が渡せ」
一郎はすっかり母の日であることを忘れていた。
母はお気に入りだったコップが無くなってしまったと思っていたらしかった。だから一郎が箱を渡し、中からガラスコップが出て来た時、凄く喜んでくれた。
「一郎ちゃんが作ってくれたの? ありがとう」
コップを割ってしまったことは謝れなかったが、多分それは気付いていたんだと思う。あの母の嬉しそうな笑顔が鮮明に脳裏に蘇り、そして消えた。
「それも……置いておいてくれ」
一郎は項垂れた。
「おじさん、ゴミの分別、出来そう?」
銀河の言葉に一郎は応えられなかった。中学の時に陸上大会で優勝した時の新聞の切り抜きに、高校の時の水泳大会で一位をとった時の表彰状……自分と母しか写っていない写真のアルバム……
「素敵なお父さんだったんだね」
「金にシビアなクズ親だったよ。お陰で塾にも行かせて貰えなかったし、推薦もらえてたのに志望校だって……母さんを病院に行かせなかったし……」
そう。早めに病院で検査していれば助かっていたのだ。最後の最後まで母はパートを掛け持ちして、それで体を壊して……
「一郎ちゃん、受験頑張ってね! 学費はママがなんとかするから!」
不意に母の言葉が思い起こされた。母だけは、一郎の志望校を応援してくれていた。参考書も買ってくれて、受験の日も付き添ってくれた。受験が終わって気が抜けたのか、母はそれから直ぐ倒れた。
最初は過労だろうと思っていた。母が早朝の新聞配達から、夜中の病院の清掃、昼はスーパーのレジ打ちまでしていた事を知ったのは母が亡くなってからの事だった。
「一郎、大学は諦めろ」
合格通知を一郎は握り締めた。
「けど、母さんが……」
「入学金だけで母さんの生命保険と貯金が消えるんだ。それからの授業料は父さんの給料では払えん」
「じゃあバイトする」
「それで卒業出来なかったらどうするつもりだ」
結局、言い包められて辞退した。
就職も、東京の会社に行きたかったが行かせては貰えず、地元の整備工場で働く事になった。
自分の人生なのに、父の言いなりになっている気分だった。
「俺のせいだったんだろうか……」
ふと独り言を呟いた。母が死んだのは自分のせいだったのだろうかと今更悩んだ所で仕方が無い。ふと、玄関の呼び鈴が鳴り、一郎はゆっくりと立ち上がった。
誰だろう?
気付くと銀河の姿は無い。幻でも見ていたのだろうかとドアを開けると、そこには同い年くらいの小綺麗な女性が佇んでいた。
「あの……トシおじさんいらっしゃる?」
一郎は首を横に振った。
「何か?」
父の知り合いにしては年齢が離れていると思った。
「私、塚本 美鈴と言います」
その名前に聞き覚えは無かった。
「トシおじさんに、結婚した事を伝えて貰えますか?」
一郎は話しが飲み込めなくて首を傾げた。
「あの……父とはどういったご関係で?」
「えと……何から話したら良いかな? トシおじさんが運転していた車と、私の父が運転していた車とが事故を起こしまして、でも、過失は私の父にあったんです。それなのにトシおじさん、両親を亡くした私の為に毎月お金を振り込んでくれてて……」
一瞬、自分の耳を疑った。事故? そんな話は一度も聞かされた事が無かった。父も働いていた筈なのにやたら貧乏だったのは、その事故に責任を感じて、ずっと彼女の為にお金を振り込んでいたから?
「だから、もうお金は良いですってトシおじさんに伝えて頂けませんか? 本当にもう、トシおじさんにも幸せになってほしいって……」
思わず膝から崩れ落ちた。
「何だよそれ……」
一郎は怒りすら覚えた。結局親父のせいじゃないか。親父が事故を起こして、相手死なせて、その罪滅ぼしだか賠償だかで彼女にお金を貢いでいたんじゃないか。息子の人生を踏み躙って……
「大丈夫ですか?」
一郎は何も言わずにドアを閉めた。どうしようもない怒りが寝室に向かう。
「どういう事だよ?」
暗い寝室には布団が敷かれている。その布団は赤く染まり、布団を捲ると、とっくに冷たくなった父が横たわっていた。
「何で何も教えてくれなかったんだよ!」
父からは何の返事も無かった。
少し前、一郎は結婚を誓った彼女がいた。年上だが、凄く美人でお洒落の好きな女性だった。以前父に紹介した事があったが、相変わらず反対されていた。一郎は彼女がブランドバックが欲しいと言えば貯金を崩して買い与えたし、ダイヤのネックレスが欲しいと言われれば銀行からお金を借りて買ってあげていた。けれどもお金が無くなると、彼女の態度は明らかに冷めていた。どうにかしてもう一度振り向いてほしい。一郎は意を決して父に無心した。父はお金を貸してくれなかった。
「だからあんなのと付き合うのは辞めろと言ったんだ!」
自分の彼女を『あんなの』と言われて腹が立った。お前に何が解るんだ。お前が今まで息子の人生をめちゃくちゃにしてきたくせに、こんな時くらい金を貸してくれたって良いじゃないか。
一郎は台所から包丁を持ち出すと、父の腹に一突きした。父は抵抗したが、押し問答の末、寝室に転がる。
「うう……」
父のうめき声を聞きながら一郎は達成感に似た高揚感を得ていた。
「やった。やってやった。これで遺産は俺の物だ」
家の中に金目の物は無いだろうかと引き出しを漁り、出て来た通帳は空だった。
「本当、ゴミだよなぁ」
財布の中には五千円しか入っていない。
「しけてんな」
父が寝室で何か言っている。
「煩い」
布団を掛け、口を塞いだ。息が出来ずに手足をバタつかせ、くぐもった音だけが漏れていたが、やがて静かになった。
「はぁ~あ」
一郎は大きな溜め息を吐いて呟いた。
「もっと早くこうしておくんだった」
父と取っ組み合いになった時、サイドテーブルやゴミ箱を蹴飛ばしていた。ひっくり返った棚の引き出しから小さな車がちらりと顔を見せていた。
「ゴミの分別、出来そう?」
銀河の声がして一郎は深呼吸をした。父の血液の臭いが鼻腔に充満する。
「何なんだよお前、死神か? ゴミは俺の方だって言いたいのか?」
一郎の質問に銀河は少し首を傾げた。
「そうかもしれないね」
銀河のきょとんとした表情に苛立ちを覚えた。さも自分には関係ないといった顔に、一郎は歯軋りする。
「君が居なかったら事故に遭わなかったしね」
その言葉で不意に子供の頃の記憶が脳裏を過った。
二歳、三歳だったろうか? 父が遊園地へ連れて行ってくれるのだと母が言った。幼い一郎はいつも後部座席のチャイルドシートに乗せられるのだが、その日はやたらと機嫌が悪くて助手席を強請った。遊園地の開園時間に間に合うようにと思っていた両親の方が根負けし、チャイルドシートを助手席に付け替え、軽自動車は発進した。一郎はそれからご機嫌でちゃんとチャイルドシートに乗っていた。
喉が渇いたと一郎が言うのでコンビニでジュースを買い、再び一郎は助手席のチャイルドシートに乗った。車に揺られ、一郎がうとうとしている時、手に持っていたコーラを運転席側に落としてしまった。
「うわっ」
父の声がし、車体が大きく傾いた。父は自分の太ももに急にジュースが掛かって驚き、一瞬ハンドル操作をミスした。
ガシャン!
一郎は目を覚ますと、車は路肩に停まっていた。けれども父は慌てて車を降りて行った。母が
「一郎ちゃん、大丈夫?」
と抱え上げてくれた。次の瞬間、少し離れた所の電柱にぶつかり、停まっていた車が爆発した。母が慌てて携帯電話を取り、電話を掛けている。
「すみません、救急車と消防車をお願いします。事故です……場所は……」
焦った母に連れられて車を下りた。火の中から父が僕と同い年くらいの女の子を抱えて出て来る。母は上着を脱いで女の子にかけてやった。
「その子を頼む!」
「あなた待って!」
二度目の爆発音がして、母が必死に父を引き止めていた。車のドアが開かず、割れた窓ガラスから子供だけ助け出せたらしかった。
現場検証の結果、二台の車は接触していなかった。ハンドル操作を誤った父の車を避けて、対向車が電信柱に衝突。けれども対向車が制限速度を超過していたこともあり、父は逮捕はされなかった。けれども相手の女の子は両親を亡くし、施設へ預けられたらしい。
父は自暴自棄に陥っていた。
「ごめんなさい。私がちゃんと一郎を後部座席に座らせていれば……」
「いや、俺がジュースに気を取られたのが悪いんだ。お前も一郎も悪くない」
それから父は車の運転は一切しなくなった。
一郎は思い出して身震いした。自分のせいだ。自分の……自分で自分の人生を壊したのだ。
「まあでも、君が居たからご両親は頑張って生きてこられたんじゃないの?」
銀河はそう言うと、床にガラスコップを置いた。
「ご両親は君をゴミだなんて思って無かったから捨てなかったんだと思うよ? まあ残念な事に、君は父親をゴミだと思ったみたいだけれど」
ガラスコップの隣に銀河は玩具の車を置いた。
「さて、父親の居なくなった今、君は社会に必要とされる人間なのかな? どう? 僕が分別してあげようか?」
銀河は不敵な笑みを浮かべた。一郎はこの子供が一体何者なのか解らなかった。
トシはぼうっと布団の上に寝転がっていた。一歳の息子が、勢い良くトシの腹の上にダイブする。
「お、やったなぁ?」
きゃっきゃと笑う幼い一郎を抱き上げ、高い高いをする。それこそ目に入れても痛くないくらい可愛い、自分の宝だった。『宝』だった……間違いなく、誰が何と言おうと『宝』だった。
「パパぁ~大好き~!!」
無邪気な息子が、父の日のプレゼントを保育園で作ったのだと見せに来てくれた。あの頃が一番可愛かった。何処へ行くにも後追いする息子が可愛くて可愛くて、本当に……
「ゴミだよなぁ」
息子の呟きが聞こえる。通帳の入っていた棚の引き出しを息子が開けた時、一緒に入れておいた小さな紙がはらりと自分の枕元に舞い降りた。子供の字で書かれた『かたたたきけん』は一度も使われる事が無かった。
「……な……い……ゴミじゃ……ない……」
幼かった息子が父の誕生日にくれたものだ。あれから少しづつすれ違う事が多くなって、生意気になって……それでも……
「煩い」
顔に被せられた羽毛布団が鼻と口を塞いだ。何処で間違えたのだろう? 親子じゃないか。きっと話せば解る……話せば……
否、話すチャンスなんて幾らでもあった筈なのに……
息が出来ず、意識が途絶えた。
ーー気が付くと、自分の死体の前に立っていた。自分は死んだらしい。荒らされた部屋の中を見回すと、ふと床にガラスコップが置かれている事に気付いて無意識に笑っていた。
「ふふっ……あの時の一郎の顔……」
ガラスコップを作る時、「熱い」「怖い!」と泣き喚いていたなぁ。ちらりとこっちを見たが、代わりにやってくれとも、ギブアップとも言わなかったなぁ。
出来上がったコップを母さんに渡した時のあの気まずそうな照れた顔……妻の満面の笑み……あ~あ、あの頃に戻れたなら……
コップの横にミニカーが置かれている事に気付いて少し俯いた。
本当は、新幹線のレールの玩具が欲しかったんだよな。ちょっと高くて、新幹線も一台ではつまらないだろうし、レールも必要になるし、何より誕生日でも無いのに、一万円近くもする玩具のセットなど、あの頃のうちの経済状況では無理な話しだった。嫁が必死に窘めて、五百円程のミニカーで気を紛らわせてくれた。それをずーと大事にしてたものだから、悪い事をしたという罪悪感と、我慢の出来る良い子だと勝手に思い込んでいたのかもしれない。
妻が亡くなって遺品の整理をしていた時、後輪のタイヤが無くなった状態でお菓子の缶の中から出て来た。ラムネ瓶のビー玉と、貝殻と、使用済み切手と、玩具のコインと……所謂、子供の宝箱から出て来たものだった。その中からミニカーだけ取り出し、玩具屋に持って行った。
「ここに入るタイヤは売ってないかい?」
若い店員に話しかけたが、もうその玩具は販売中止になっているから部品は無いと言う……似た玩具の部品で合いそうな物を店員は一緒に探してくれたが、見つからなかった。
後日店員から電話があった時は飛び上がって喜んだなぁ。他の店舗に電話して探してくれたらしい。県外の店舗だったから送料の方が高くなると心配されたが、自分にとっては安いものだった。あの、新幹線の玩具に比べれば……
手に入ったタイヤがピッタリと車体に納まった時、
「一郎! 直ったぞ!」
と思わず呟いていた。もう一郎は大学生だ。ミニカーでは遊ばない。そんな事は重々承知だ。今日だって、悪い友達と遊びに行っているのだろう。
高校生の時、髪の毛を緑に染めて帰って来た時には怒鳴り散らしたなぁ……煙草の臭いもプンプンさせやがって……本当に、どうしようもない奴だ……どうしようもない……
いつだったか泥だらけで帰って来た事があったなぁ。喧嘩でもしたのかと思っていたら、溝に嵌った猫を助けていたのだと近所のおばちゃんから聞いた。
「あたしゃびっくりしたよ。溝掃除でもしてるのかと思ったら、三件隣の松本さん、あの人が飼ってるミケちゃんよ。二三日前から居なくなったって聞いてはいたんだけどね。ミケちゃん、おデブちゃんでしょう? きっと溝に落ちて上れなかったのね。松本さん十年飼ってるし、老猫よ。足腰ヨボヨボでねぇ。あたしゃお湯持って来て一郎ちゃんとミケを洗ったのよ。タオルで拭いてね、松本さんとこまで届けに行ったの。一郎ちゃん、照れくさいのかミケちゃんを私に押し付けて帰っちゃってね。
良い子ねぇ。トシさん、グレちゃってるのはきっと今だけだからね」
こっちは聞きもしないのに、延々と話してくれた。
「松本さんがね、一郎ちゃんにお礼言っといてって! 松本さん、痴呆入ってるのに、ミケと一郎ちゃんのことは解ったみたいなの。不思議ねぇ」
それは多分、一郎が小さい頃に松本さんの家の窓を割った事があるからだろうと思った。弁償すると言ったら、
「一郎がワシの家の前を通る度に思い出させてやるためにそのままにしといてやる」
なんて笑いながら言っていた。内側から段ボールを貼り、養生テープで補強していた。多分、猫を松本さんの家まで連れて行った時、その壊れた窓が目に入り、一郎は思い出したのだろう。それで何だかバツが悪くて自分で松本さんに猫を渡せられなかったのだ。
「本当に良い子よね。褒めてあげなさいよ」
おばちゃんはそう言って帰って行った。他人にそれだけ褒められると、息子のしたことなのに何故か自分まで誇らしくなってしまう。親バカだ。子供が悪い事をしたら自分も情けなくなるし、何でこいつは……と思うが、良い事をすると『流石、自分の子供。自分の宝』なんて思う。ちょっと都合が良過ぎるよなぁと思いつつ、帰って来た妻にも話してやると、妻は大喜びしていた。
「あなた、一郎ちゃんを褒めてあげてね」
妻は夕飯を作りながら言った。
「お前が言ってやれ」
「一郎ちゃん、お勉強頑張ってるのか中々家に帰って来ないでしょう? 私も忙しくて中々会えないし……」
妻は、一郎が勉強を頑張っていると思って居るらしい。髪の毛の事は
「私の若い頃もガングロとか金髪とかいろんなものが流行りましたからね。流行に乗り遅れて周りから浮いてしまったらその方が可愛そうですよ」
なんて言っていた。まあ本当の所は解らないが、確かにテストはいつも学年五位くらいをうろうろしているらしい。欠点は取ったこと無いと先生からも言われたらしい。運動も出来るし、見た目さえちゃんとすれば申し分ないとも……
「なあ、パート、増やし過ぎなんじゃないか? ちゃんと食べてるのか?」
「大丈夫ですよ。私、一郎ちゃんの夢は応援したいんですよ」
夢……その為にお前が倒れたのでは意味が無いと言ってやるべきだった。まさか癌になるほど弱っていて、そのまま亡くなるなんて思わなかった。
あの時、心底一郎が憎いと思った。あいつは毎日遊び歩いているのに、妻はそんな一郎の為に朝から晩まで働いて……
「一郎兄さん、居ませんか?」
葬式の日だったか、中学生の男の子が来た。直ぐ一郎が家から出て来て、何か話しているらしい。一度家の中へ入るのを見て中学生に声をかけた。
「一郎の友達かい?」
「一郎兄さん、僕たちの勉強見てくれるんです。今日はお葬式だって知らなくて、待ってても来ないからどうしたのかなって思って……」
その時、一郎がとある場所で勉強している事を知った。ボランティアで、年下の子達に勉強を教える代わりに、一郎自身も大学生から受験対策を教えてもらっていたらしい。塾に通えない子供達の為にそういった活動をしている人達が居ることを自分は知りもしなかった。遊び歩いていると思っていた自分が恥ずかしかった。
それでも、志望校へ行くのは許せなかった。妻もきっと、行かせてやれば喜んだだろう。先生からも奨学金制度の話しを持ち掛けられた。けれども借金をしてまで大学を卒業して、借金を背負って社会人にするのはどうしても気が引けた。社会人のスタートがマイナスからだなんて……自分も奨学金制度を使った。返済し終わるのに四十四歳までかかった。同じ轍を踏んでほしく無かった。
「ねえ、おじさん」
ふと、いつの間にか眼の前に子供が立っていた。見たことのない子供だ。頭に布を巻いている。
「ああ、一郎の……塾の子かな?」
そう言うと、子供は首を傾げた。
「ねえ、おじさん、おじさんの行く道はこっちだよ」
子供が指し示す方を見ると、部屋のベランダへ続く窓の向こうが、白く光っている。何処まで続くか解らない長い道が広がっている。それでやっと、『お迎え』なのだと思った。
「……一郎は……あいつは良い奴なんだ。きっとやり直せる。俺が悪かったんだ。ちゃんと一郎の話しを聞いてやれば……」
子供が不思議そうな顔をして、視線をそらした。思わず、子供の視線の先を追う。部屋の向こう、リビングの……柱からロープが垂れ下がっている。その先に首を吊っている息子の姿が目に入った時、思わず息子の体にしがみついた。
「一郎!」
ブツン……と、部屋が真っ暗になった。振り返ると、さっきまで光っていた道が消えている。
「一郎! 一郎! 今、下ろしてやるからな!」
言うが、どういうわけか思うように体が動かない。否、体がすり抜けてしまう。
「馬鹿野郎! 責任の取り方なんて他に幾らでもあるだろう!」
トシの悲鳴に似た怒号を銀河は家の外で聞いていた。一郎の魂は食べてしまったので、トシの悲痛な声を一郎が聞くことはない。
「困ったなぁ」
ちょっとあの魂は不味そう。事故を起こして人が死んでいるのだから悪人であると言ってもいいのだが、美鈴にああ言われては困る。両親を殺した殺人鬼だと罵って末代まで恨んでいれば良いものを、美鈴の魂も不味そうで食う気になれない。
「腹減ったなぁ」
足りない。一郎の魂だけでは不足だ。一郎の死体を見ればトシの魂も美味しくなるかと思ったが、不味そうな地縛霊になってしまった。自分を殺した息子を恨み、世の中を恨んでいれば良いものを、『自分が悪い』なんてお人好しだ。地縛霊になってしまったのでは塔にも行かないだろうし……あんなのがそこら中に居る。
銀河はとぼとぼと歩き出した。
「お父さんかぁ……」
ぽつりと呟いた銀河の背中を優しい風が押した。
自分は父親に嫌われていた。
父の遺品を整理しながらそう思う。母は十年前に他界していた。癌だった。発見が遅れたのも親父のせいだった。小柄でひ弱な母に負担をかけて父が殺したのだ。そう思うと遣る瀬無かった。
「どうしたの?」
不意に声をかけられて振り返った。リビングに見たことのない子供が一人ぽつんと立ち尽くしている。小学校低学年くらいだろう。頭に藍色の布を巻いている。一瞬、父の隠し子を疑った。
「君は?」
「ただの通りすがり。銀河っていうの」
通りすがり……そう言えば、ドアを開けっ放しにしていたのかもしれない。ここは一階で玄関が裏通りに向いていたからそれで子供がやってきたのだろう。
「危ないからあっちへ行きな」
掌をぶらぶらさせてしっしっと犬でも追い払う様に言った。
「ねえねえ、これ貰っても良い?」
子供がそう言って小さな白い物を手に取った。小さな車の玩具だ。ピンクのマジックや緑のクレヨンで落書きされている。一郎は眉根を寄せた。
「そんなゴミ貰ってどうするんだ? もっと良いものを親に買って貰いな」
少しうっとおしかった。けれども突然、記憶の奥底からあの小さい車の玩具の事が思い浮かんだ。
五歳だったか、六歳だったか、兎に角小さい頃、ショッピングモールへ両親に連れて行って貰った事があった。目に映る全てが輝いて見えて、玩具屋の前で、ショーウインドウに飾られていたそれに僕は釘付けになっていた。
「あの新幹線が欲しい!」
そう、あの時自分はそう言ったのだ。駄々を捏ねて、両親にねだったのだ。
「駄目だ」
いつもの、厳しい父の怒号に幼い一郎はしょんぼりと肩を落とした。そんな一郎の頭を撫で、母が一郎の隣に屈み込む。
「一郎ちゃん、ごめんねぇ。また今度ねぇ」
また今度……そう、そんな日は絶対に来ないと一郎は知っていた。お金が無いのだ。
「あ! ほら見て一郎ちゃん。あっちに小さな車があるわ。あれならママ、パパに内緒で買ってあげられるけど、あれじゃ駄目かしら?」
母親の提案に一郎は顔を上げた。誕生日でも無いのに買ってもらえたそのミニカーが嬉しくて、寝る時もずっと大事に持っていた。車の底に、覚えたての平仮名で自分の名前を書いて、偶に絵の具やマジックペンで車の色を変えて……そういえばあの時から、車関係の仕事に就きたいと漠然と思っていた。それで車の整備士になったのだ。
「駄目なの?」
銀河の声で現実に戻ると、一郎は銀河が手にしている車を一瞥した。タイヤは確か壊れて一つ無くなっていた筈だが、後輪タイヤの一つだけピカピカのタイヤがはめられている。多分、母が直したのだろう……
「そこに置いておいてくれ」
「そう……じゃあこっちは?」
今度は青いガラスコップを銀河は取り出した。また、一郎の脳裏に記憶が蘇る。
小学校三年生の時だったろうか? 母が気に入っていたガラスコップを割ってしまった事があった。幸い母は買い物に出ていたが、父に怒られるのが怖くて泣きながら素手で割れた破片を拾っていた。それに気付いた父が意外なほど何も言わずに片付けを手伝ってくれて、ガラスの破片で切ってしまった僕の指先に絆創膏を貼ってくれた。
「ちょっと付き合え」
ぶっきらぼうに父は言った。拾い集めた割れたガラスコップを持ち、父に連れられて外へ出た。
自分は等々捨てられる。
「ごめんなさい。ごめんなさい!」
と何度も泣き喚き、古びたお店の奥へ連れて行かれた時、自分はここに売られるのだと思った。
「シンさん、すまねぇ。こいつ直るかい? 家内の奴がさ、気に入ってて……」
サウナの様な暑い部屋の奥で何か作業をしていた中年は、ビニール袋の中のガラスコップを一瞥して苦笑いを浮かべた。
「へぇ、結婚記念日の、トシさんが作ったやつ……」
トシは一郎の父の名だ。そこで初めて、自分が壊したものが、父の手作りだったのだと知った。
「こいつはもう無理だぜ。また作り直した方が早い」
中年男はにやにやしながら言った。
「一郎、お前が壊したんだから、お前が作れ」
ぶっきらぼうに言われ、今会ったばかりの中年おじさんに長い棒を持たされた。
「一郎、デカくなったな。おじちゃんが教えてやるよ。あそこに赤く光ってる炉があるだろ? あそこにな、溶けたガラスが入ってんだ。火傷するなよ? 棒の先にガラスの液をつけたらな、この濡れた新聞紙で形を整えて、棒の反対側に穴が開いてるだろ? そこから空気を吹き込むんだ」
おじさんに教えられながらも、炉は離れていても熱を感じるし、それこそ太陽でも閉じ込めているんじゃないかと思うくらい熱くて怖かった。息を吹き込む時なんか、熱気が逆流して喉が焼けるんじゃないかと心配した。
そんなこんなで泣きべそかきながらおじさんに手直ししてもらい、一週間後にそれは自宅へ届けられた。届いた箱を父は一郎に渡した。
「ほら、今日は何だ……母の日だろう。お前が作ったんだからお前が渡せ」
一郎はすっかり母の日であることを忘れていた。
母はお気に入りだったコップが無くなってしまったと思っていたらしかった。だから一郎が箱を渡し、中からガラスコップが出て来た時、凄く喜んでくれた。
「一郎ちゃんが作ってくれたの? ありがとう」
コップを割ってしまったことは謝れなかったが、多分それは気付いていたんだと思う。あの母の嬉しそうな笑顔が鮮明に脳裏に蘇り、そして消えた。
「それも……置いておいてくれ」
一郎は項垂れた。
「おじさん、ゴミの分別、出来そう?」
銀河の言葉に一郎は応えられなかった。中学の時に陸上大会で優勝した時の新聞の切り抜きに、高校の時の水泳大会で一位をとった時の表彰状……自分と母しか写っていない写真のアルバム……
「素敵なお父さんだったんだね」
「金にシビアなクズ親だったよ。お陰で塾にも行かせて貰えなかったし、推薦もらえてたのに志望校だって……母さんを病院に行かせなかったし……」
そう。早めに病院で検査していれば助かっていたのだ。最後の最後まで母はパートを掛け持ちして、それで体を壊して……
「一郎ちゃん、受験頑張ってね! 学費はママがなんとかするから!」
不意に母の言葉が思い起こされた。母だけは、一郎の志望校を応援してくれていた。参考書も買ってくれて、受験の日も付き添ってくれた。受験が終わって気が抜けたのか、母はそれから直ぐ倒れた。
最初は過労だろうと思っていた。母が早朝の新聞配達から、夜中の病院の清掃、昼はスーパーのレジ打ちまでしていた事を知ったのは母が亡くなってからの事だった。
「一郎、大学は諦めろ」
合格通知を一郎は握り締めた。
「けど、母さんが……」
「入学金だけで母さんの生命保険と貯金が消えるんだ。それからの授業料は父さんの給料では払えん」
「じゃあバイトする」
「それで卒業出来なかったらどうするつもりだ」
結局、言い包められて辞退した。
就職も、東京の会社に行きたかったが行かせては貰えず、地元の整備工場で働く事になった。
自分の人生なのに、父の言いなりになっている気分だった。
「俺のせいだったんだろうか……」
ふと独り言を呟いた。母が死んだのは自分のせいだったのだろうかと今更悩んだ所で仕方が無い。ふと、玄関の呼び鈴が鳴り、一郎はゆっくりと立ち上がった。
誰だろう?
気付くと銀河の姿は無い。幻でも見ていたのだろうかとドアを開けると、そこには同い年くらいの小綺麗な女性が佇んでいた。
「あの……トシおじさんいらっしゃる?」
一郎は首を横に振った。
「何か?」
父の知り合いにしては年齢が離れていると思った。
「私、塚本 美鈴と言います」
その名前に聞き覚えは無かった。
「トシおじさんに、結婚した事を伝えて貰えますか?」
一郎は話しが飲み込めなくて首を傾げた。
「あの……父とはどういったご関係で?」
「えと……何から話したら良いかな? トシおじさんが運転していた車と、私の父が運転していた車とが事故を起こしまして、でも、過失は私の父にあったんです。それなのにトシおじさん、両親を亡くした私の為に毎月お金を振り込んでくれてて……」
一瞬、自分の耳を疑った。事故? そんな話は一度も聞かされた事が無かった。父も働いていた筈なのにやたら貧乏だったのは、その事故に責任を感じて、ずっと彼女の為にお金を振り込んでいたから?
「だから、もうお金は良いですってトシおじさんに伝えて頂けませんか? 本当にもう、トシおじさんにも幸せになってほしいって……」
思わず膝から崩れ落ちた。
「何だよそれ……」
一郎は怒りすら覚えた。結局親父のせいじゃないか。親父が事故を起こして、相手死なせて、その罪滅ぼしだか賠償だかで彼女にお金を貢いでいたんじゃないか。息子の人生を踏み躙って……
「大丈夫ですか?」
一郎は何も言わずにドアを閉めた。どうしようもない怒りが寝室に向かう。
「どういう事だよ?」
暗い寝室には布団が敷かれている。その布団は赤く染まり、布団を捲ると、とっくに冷たくなった父が横たわっていた。
「何で何も教えてくれなかったんだよ!」
父からは何の返事も無かった。
少し前、一郎は結婚を誓った彼女がいた。年上だが、凄く美人でお洒落の好きな女性だった。以前父に紹介した事があったが、相変わらず反対されていた。一郎は彼女がブランドバックが欲しいと言えば貯金を崩して買い与えたし、ダイヤのネックレスが欲しいと言われれば銀行からお金を借りて買ってあげていた。けれどもお金が無くなると、彼女の態度は明らかに冷めていた。どうにかしてもう一度振り向いてほしい。一郎は意を決して父に無心した。父はお金を貸してくれなかった。
「だからあんなのと付き合うのは辞めろと言ったんだ!」
自分の彼女を『あんなの』と言われて腹が立った。お前に何が解るんだ。お前が今まで息子の人生をめちゃくちゃにしてきたくせに、こんな時くらい金を貸してくれたって良いじゃないか。
一郎は台所から包丁を持ち出すと、父の腹に一突きした。父は抵抗したが、押し問答の末、寝室に転がる。
「うう……」
父のうめき声を聞きながら一郎は達成感に似た高揚感を得ていた。
「やった。やってやった。これで遺産は俺の物だ」
家の中に金目の物は無いだろうかと引き出しを漁り、出て来た通帳は空だった。
「本当、ゴミだよなぁ」
財布の中には五千円しか入っていない。
「しけてんな」
父が寝室で何か言っている。
「煩い」
布団を掛け、口を塞いだ。息が出来ずに手足をバタつかせ、くぐもった音だけが漏れていたが、やがて静かになった。
「はぁ~あ」
一郎は大きな溜め息を吐いて呟いた。
「もっと早くこうしておくんだった」
父と取っ組み合いになった時、サイドテーブルやゴミ箱を蹴飛ばしていた。ひっくり返った棚の引き出しから小さな車がちらりと顔を見せていた。
「ゴミの分別、出来そう?」
銀河の声がして一郎は深呼吸をした。父の血液の臭いが鼻腔に充満する。
「何なんだよお前、死神か? ゴミは俺の方だって言いたいのか?」
一郎の質問に銀河は少し首を傾げた。
「そうかもしれないね」
銀河のきょとんとした表情に苛立ちを覚えた。さも自分には関係ないといった顔に、一郎は歯軋りする。
「君が居なかったら事故に遭わなかったしね」
その言葉で不意に子供の頃の記憶が脳裏を過った。
二歳、三歳だったろうか? 父が遊園地へ連れて行ってくれるのだと母が言った。幼い一郎はいつも後部座席のチャイルドシートに乗せられるのだが、その日はやたらと機嫌が悪くて助手席を強請った。遊園地の開園時間に間に合うようにと思っていた両親の方が根負けし、チャイルドシートを助手席に付け替え、軽自動車は発進した。一郎はそれからご機嫌でちゃんとチャイルドシートに乗っていた。
喉が渇いたと一郎が言うのでコンビニでジュースを買い、再び一郎は助手席のチャイルドシートに乗った。車に揺られ、一郎がうとうとしている時、手に持っていたコーラを運転席側に落としてしまった。
「うわっ」
父の声がし、車体が大きく傾いた。父は自分の太ももに急にジュースが掛かって驚き、一瞬ハンドル操作をミスした。
ガシャン!
一郎は目を覚ますと、車は路肩に停まっていた。けれども父は慌てて車を降りて行った。母が
「一郎ちゃん、大丈夫?」
と抱え上げてくれた。次の瞬間、少し離れた所の電柱にぶつかり、停まっていた車が爆発した。母が慌てて携帯電話を取り、電話を掛けている。
「すみません、救急車と消防車をお願いします。事故です……場所は……」
焦った母に連れられて車を下りた。火の中から父が僕と同い年くらいの女の子を抱えて出て来る。母は上着を脱いで女の子にかけてやった。
「その子を頼む!」
「あなた待って!」
二度目の爆発音がして、母が必死に父を引き止めていた。車のドアが開かず、割れた窓ガラスから子供だけ助け出せたらしかった。
現場検証の結果、二台の車は接触していなかった。ハンドル操作を誤った父の車を避けて、対向車が電信柱に衝突。けれども対向車が制限速度を超過していたこともあり、父は逮捕はされなかった。けれども相手の女の子は両親を亡くし、施設へ預けられたらしい。
父は自暴自棄に陥っていた。
「ごめんなさい。私がちゃんと一郎を後部座席に座らせていれば……」
「いや、俺がジュースに気を取られたのが悪いんだ。お前も一郎も悪くない」
それから父は車の運転は一切しなくなった。
一郎は思い出して身震いした。自分のせいだ。自分の……自分で自分の人生を壊したのだ。
「まあでも、君が居たからご両親は頑張って生きてこられたんじゃないの?」
銀河はそう言うと、床にガラスコップを置いた。
「ご両親は君をゴミだなんて思って無かったから捨てなかったんだと思うよ? まあ残念な事に、君は父親をゴミだと思ったみたいだけれど」
ガラスコップの隣に銀河は玩具の車を置いた。
「さて、父親の居なくなった今、君は社会に必要とされる人間なのかな? どう? 僕が分別してあげようか?」
銀河は不敵な笑みを浮かべた。一郎はこの子供が一体何者なのか解らなかった。
トシはぼうっと布団の上に寝転がっていた。一歳の息子が、勢い良くトシの腹の上にダイブする。
「お、やったなぁ?」
きゃっきゃと笑う幼い一郎を抱き上げ、高い高いをする。それこそ目に入れても痛くないくらい可愛い、自分の宝だった。『宝』だった……間違いなく、誰が何と言おうと『宝』だった。
「パパぁ~大好き~!!」
無邪気な息子が、父の日のプレゼントを保育園で作ったのだと見せに来てくれた。あの頃が一番可愛かった。何処へ行くにも後追いする息子が可愛くて可愛くて、本当に……
「ゴミだよなぁ」
息子の呟きが聞こえる。通帳の入っていた棚の引き出しを息子が開けた時、一緒に入れておいた小さな紙がはらりと自分の枕元に舞い降りた。子供の字で書かれた『かたたたきけん』は一度も使われる事が無かった。
「……な……い……ゴミじゃ……ない……」
幼かった息子が父の誕生日にくれたものだ。あれから少しづつすれ違う事が多くなって、生意気になって……それでも……
「煩い」
顔に被せられた羽毛布団が鼻と口を塞いだ。何処で間違えたのだろう? 親子じゃないか。きっと話せば解る……話せば……
否、話すチャンスなんて幾らでもあった筈なのに……
息が出来ず、意識が途絶えた。
ーー気が付くと、自分の死体の前に立っていた。自分は死んだらしい。荒らされた部屋の中を見回すと、ふと床にガラスコップが置かれている事に気付いて無意識に笑っていた。
「ふふっ……あの時の一郎の顔……」
ガラスコップを作る時、「熱い」「怖い!」と泣き喚いていたなぁ。ちらりとこっちを見たが、代わりにやってくれとも、ギブアップとも言わなかったなぁ。
出来上がったコップを母さんに渡した時のあの気まずそうな照れた顔……妻の満面の笑み……あ~あ、あの頃に戻れたなら……
コップの横にミニカーが置かれている事に気付いて少し俯いた。
本当は、新幹線のレールの玩具が欲しかったんだよな。ちょっと高くて、新幹線も一台ではつまらないだろうし、レールも必要になるし、何より誕生日でも無いのに、一万円近くもする玩具のセットなど、あの頃のうちの経済状況では無理な話しだった。嫁が必死に窘めて、五百円程のミニカーで気を紛らわせてくれた。それをずーと大事にしてたものだから、悪い事をしたという罪悪感と、我慢の出来る良い子だと勝手に思い込んでいたのかもしれない。
妻が亡くなって遺品の整理をしていた時、後輪のタイヤが無くなった状態でお菓子の缶の中から出て来た。ラムネ瓶のビー玉と、貝殻と、使用済み切手と、玩具のコインと……所謂、子供の宝箱から出て来たものだった。その中からミニカーだけ取り出し、玩具屋に持って行った。
「ここに入るタイヤは売ってないかい?」
若い店員に話しかけたが、もうその玩具は販売中止になっているから部品は無いと言う……似た玩具の部品で合いそうな物を店員は一緒に探してくれたが、見つからなかった。
後日店員から電話があった時は飛び上がって喜んだなぁ。他の店舗に電話して探してくれたらしい。県外の店舗だったから送料の方が高くなると心配されたが、自分にとっては安いものだった。あの、新幹線の玩具に比べれば……
手に入ったタイヤがピッタリと車体に納まった時、
「一郎! 直ったぞ!」
と思わず呟いていた。もう一郎は大学生だ。ミニカーでは遊ばない。そんな事は重々承知だ。今日だって、悪い友達と遊びに行っているのだろう。
高校生の時、髪の毛を緑に染めて帰って来た時には怒鳴り散らしたなぁ……煙草の臭いもプンプンさせやがって……本当に、どうしようもない奴だ……どうしようもない……
いつだったか泥だらけで帰って来た事があったなぁ。喧嘩でもしたのかと思っていたら、溝に嵌った猫を助けていたのだと近所のおばちゃんから聞いた。
「あたしゃびっくりしたよ。溝掃除でもしてるのかと思ったら、三件隣の松本さん、あの人が飼ってるミケちゃんよ。二三日前から居なくなったって聞いてはいたんだけどね。ミケちゃん、おデブちゃんでしょう? きっと溝に落ちて上れなかったのね。松本さん十年飼ってるし、老猫よ。足腰ヨボヨボでねぇ。あたしゃお湯持って来て一郎ちゃんとミケを洗ったのよ。タオルで拭いてね、松本さんとこまで届けに行ったの。一郎ちゃん、照れくさいのかミケちゃんを私に押し付けて帰っちゃってね。
良い子ねぇ。トシさん、グレちゃってるのはきっと今だけだからね」
こっちは聞きもしないのに、延々と話してくれた。
「松本さんがね、一郎ちゃんにお礼言っといてって! 松本さん、痴呆入ってるのに、ミケと一郎ちゃんのことは解ったみたいなの。不思議ねぇ」
それは多分、一郎が小さい頃に松本さんの家の窓を割った事があるからだろうと思った。弁償すると言ったら、
「一郎がワシの家の前を通る度に思い出させてやるためにそのままにしといてやる」
なんて笑いながら言っていた。内側から段ボールを貼り、養生テープで補強していた。多分、猫を松本さんの家まで連れて行った時、その壊れた窓が目に入り、一郎は思い出したのだろう。それで何だかバツが悪くて自分で松本さんに猫を渡せられなかったのだ。
「本当に良い子よね。褒めてあげなさいよ」
おばちゃんはそう言って帰って行った。他人にそれだけ褒められると、息子のしたことなのに何故か自分まで誇らしくなってしまう。親バカだ。子供が悪い事をしたら自分も情けなくなるし、何でこいつは……と思うが、良い事をすると『流石、自分の子供。自分の宝』なんて思う。ちょっと都合が良過ぎるよなぁと思いつつ、帰って来た妻にも話してやると、妻は大喜びしていた。
「あなた、一郎ちゃんを褒めてあげてね」
妻は夕飯を作りながら言った。
「お前が言ってやれ」
「一郎ちゃん、お勉強頑張ってるのか中々家に帰って来ないでしょう? 私も忙しくて中々会えないし……」
妻は、一郎が勉強を頑張っていると思って居るらしい。髪の毛の事は
「私の若い頃もガングロとか金髪とかいろんなものが流行りましたからね。流行に乗り遅れて周りから浮いてしまったらその方が可愛そうですよ」
なんて言っていた。まあ本当の所は解らないが、確かにテストはいつも学年五位くらいをうろうろしているらしい。欠点は取ったこと無いと先生からも言われたらしい。運動も出来るし、見た目さえちゃんとすれば申し分ないとも……
「なあ、パート、増やし過ぎなんじゃないか? ちゃんと食べてるのか?」
「大丈夫ですよ。私、一郎ちゃんの夢は応援したいんですよ」
夢……その為にお前が倒れたのでは意味が無いと言ってやるべきだった。まさか癌になるほど弱っていて、そのまま亡くなるなんて思わなかった。
あの時、心底一郎が憎いと思った。あいつは毎日遊び歩いているのに、妻はそんな一郎の為に朝から晩まで働いて……
「一郎兄さん、居ませんか?」
葬式の日だったか、中学生の男の子が来た。直ぐ一郎が家から出て来て、何か話しているらしい。一度家の中へ入るのを見て中学生に声をかけた。
「一郎の友達かい?」
「一郎兄さん、僕たちの勉強見てくれるんです。今日はお葬式だって知らなくて、待ってても来ないからどうしたのかなって思って……」
その時、一郎がとある場所で勉強している事を知った。ボランティアで、年下の子達に勉強を教える代わりに、一郎自身も大学生から受験対策を教えてもらっていたらしい。塾に通えない子供達の為にそういった活動をしている人達が居ることを自分は知りもしなかった。遊び歩いていると思っていた自分が恥ずかしかった。
それでも、志望校へ行くのは許せなかった。妻もきっと、行かせてやれば喜んだだろう。先生からも奨学金制度の話しを持ち掛けられた。けれども借金をしてまで大学を卒業して、借金を背負って社会人にするのはどうしても気が引けた。社会人のスタートがマイナスからだなんて……自分も奨学金制度を使った。返済し終わるのに四十四歳までかかった。同じ轍を踏んでほしく無かった。
「ねえ、おじさん」
ふと、いつの間にか眼の前に子供が立っていた。見たことのない子供だ。頭に布を巻いている。
「ああ、一郎の……塾の子かな?」
そう言うと、子供は首を傾げた。
「ねえ、おじさん、おじさんの行く道はこっちだよ」
子供が指し示す方を見ると、部屋のベランダへ続く窓の向こうが、白く光っている。何処まで続くか解らない長い道が広がっている。それでやっと、『お迎え』なのだと思った。
「……一郎は……あいつは良い奴なんだ。きっとやり直せる。俺が悪かったんだ。ちゃんと一郎の話しを聞いてやれば……」
子供が不思議そうな顔をして、視線をそらした。思わず、子供の視線の先を追う。部屋の向こう、リビングの……柱からロープが垂れ下がっている。その先に首を吊っている息子の姿が目に入った時、思わず息子の体にしがみついた。
「一郎!」
ブツン……と、部屋が真っ暗になった。振り返ると、さっきまで光っていた道が消えている。
「一郎! 一郎! 今、下ろしてやるからな!」
言うが、どういうわけか思うように体が動かない。否、体がすり抜けてしまう。
「馬鹿野郎! 責任の取り方なんて他に幾らでもあるだろう!」
トシの悲鳴に似た怒号を銀河は家の外で聞いていた。一郎の魂は食べてしまったので、トシの悲痛な声を一郎が聞くことはない。
「困ったなぁ」
ちょっとあの魂は不味そう。事故を起こして人が死んでいるのだから悪人であると言ってもいいのだが、美鈴にああ言われては困る。両親を殺した殺人鬼だと罵って末代まで恨んでいれば良いものを、美鈴の魂も不味そうで食う気になれない。
「腹減ったなぁ」
足りない。一郎の魂だけでは不足だ。一郎の死体を見ればトシの魂も美味しくなるかと思ったが、不味そうな地縛霊になってしまった。自分を殺した息子を恨み、世の中を恨んでいれば良いものを、『自分が悪い』なんてお人好しだ。地縛霊になってしまったのでは塔にも行かないだろうし……あんなのがそこら中に居る。
銀河はとぼとぼと歩き出した。
「お父さんかぁ……」
ぽつりと呟いた銀河の背中を優しい風が押した。
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