嫌われ者の女神たち

神崎文尾

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栗峰女史の訪問

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「こんにちは。急な訪問、相すまなかったね」
 男は何とも億劫に礼をした。目の前の老女はすまないとはつゆほども思っていないような態度だ。車いすに座っているが、老人らしいところはそれだけ。日頃からよく鍛えているらしく、背筋や腹筋がしっかり鍛えられているのがわかる。九十近い老人だとはとても思えなかった。
 内海流歌が男の家に訪れた三日後。
 流歌自身から電話があった。会合する手はずを整えたいので、空いている日を教えてほしい。要するにそういう電話。
 男はいつでもいいと言った。別段済ませなくてはいけない用がある日など存在しない。趣味が庭いじりと読書の男にとって、妻を介さずに見る外の世界はそこまで魅力的ではなかった。
 そして、その電話からさらに三日後、見覚えのあるリンカーンが男の家の前に止まった。そして車椅子に乗った老女が訪問してきたというわけだ。
「なりたての男やもめだ。レディの訪問が嫌なわけがないさ」
「へえ、ジェントルマンだな。そういうの、中尉は好きそうじゃなかったけど」
 中尉。その階級が警察のものではなく、軍隊の階級呼称だと男は知っていた。車椅子に対応している家ではないから、移動は大変億劫なものだったが、居間まではこの間内海流歌とともに来た松尾というスキンヘッドが介添えをし、連れてきた。松尾氏はそのまま部屋を出ていたが。
「妻と会った頃は、まだまだ私もグリーンだよ。社会に出たての青二才。気の利いた言葉なんて言えない。お互い、そこがよかったんだろうな。秘密を話さないでもいい。何でもお披露目する必要もないだろ、大人だったからな」
 知らず知らずのうちに饒舌になっていた。孤独が意外と身に染みていたのかもしれない。老女は居間の仏壇に線香をあげ、浄土真宗の念仏を唱えていた。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。それだけだが、そのあとの瞑目は長かった。
「イギリスに留学でもしてたのかい?松尾の話だと、ひどく口の重そうな印象があったって聞いたけど」
「一つはイエス。私は元大学教授だ。専門は英国文学史。そりゃ研究対象の本場には二、三度留学はしている。一つは、ノーだ。講義も請け負っていたし、妻と会った当時はまだ助教授だったから抗議も受け持っていた。喋ることは、好きさ。しかしそれも、時と場合によるが」
 金婚式まで寄り添った妻を亡くしたのだ。もちろん、どちらかが先に亡くなると覚悟はしていたが、いざそうなると心に来るものがあった。口だって、重くなるに決まっている。
「お礼が、言いたかったんだよ。ありがとう。あんたのおかげで、中尉は人間に踏みとどまれた。それに自分の幸せをつかむために努力してくれた」
 老女は居間の机に手をあて、頭を下げた。
「私も、あなたに聞きたいことがある。主に二点ほど」
「さすが、元先生だな」
「どういうわけかな?」
「別に、嫌味じゃないんだけどね。言い方がどうも引っかかってさ。ほら、子どもの頃を思い出さないか」
「ちょっと遠すぎる記憶だよ」
「初めて会う威圧的な大人って、大体先生だろ。それも小学校の先生。私は高等小学校どまりだから、先生はそこまでだけど」
「そっからは教官だったりしたのかい?」
「ん、まあな。国防軍教導団女子部。要するに下士官の予備校みたいなもんさ。雀の涙でも、給料が出たし、任官すればいきなり一等兵。昇進のペースも、ただの志願兵とは二倍で違う」
「そんな厳しい場所の教官と、話し方がにているとはとても思えないが」
 これでも、緩やかな口調で人気があったのだ、とは言わなかった。
「毛色は違うが、似たようなものさ。大学教授といえば学問の徒。人生をかけて勉強をした人たちだ。それはもちろん敬意を払うさ。たぶん、こちらが払い過ぎて、ちょっとした妬みになっているんだよ」
「そう、かな」
 米国と戦争を終えた後、日本は学制改革を行おうとしたのだという。明治維新以降続いていた。小学校六年、高等小学校二年の義務教育を廃し、小学校六年、中学校三年に変えることで義務教育期間の教育の質を上げようとした。そのあとに、高校三年、大学四年と続いていく予定だったそうだが、それを阻止したのは、明治から続く高等学校や大学だった。
一握りのエリートだった彼らは、自分たちの地位を脅かされないよう、あの手この手で学制改革を阻止。勉強したいものだけが、勉強をすればいいとかたくなに主張し、それが政府に承認された。男が習った歴史の授業でそう書かれていた。今でも日本各地にはナンバースクールと呼ばれるエリート養成機関のなれの果てのような高等学校が多くあり、そのほとんどが男子校だった。
「あ、すまんね。どうも、会長と祀り上げられてから、気楽に喋られる機会が少なくってさ」
 歳を感じさせないはきはきとした口調で、老女は言った。
「改めて、自己紹介しよう。私は東京は町田に本社を置く民間軍事会社、マテリアルアーミーの会長、栗峰恵美だ。あなたの古女房、神戸彩音とは同期ではないが、同い年だった。仲良くさせてもらった仲だ。何でも聞いてくれ。中尉のことなら、私は何でも知っている」
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