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しおりを挟む気づくと、家だった。
逃げ帰ったのだろう。擦り傷が足にいくつもあるのは、逃げようと必死こいた結果、山道ですっころんだせいだ。
ああ、なんて恐ろしいものを。
僕は家に帰るやいなや、何も言わずに部屋に飛び込んでそのまま時を過ごしていた。布団にくるまる気にもなれない。目をつぶると、あの光景が浮かんできてとてもじゃないが眠る気にもなれなかった。身体を無くした、軍人たち。その光景を見た時、死にたいと思っていた自分の気持ちが如何に甘っちょろいものかを実感していた。
夢であれば。
そうであればよかったのに。
「優孝ーっ」
窓の外から、ノックの音がした。
「ひっ!」
声は、聞き覚えがある。いや、生まれた時から何回も聞いてきた声だった。もちろんその主が誰かもよく知っている。
だけど、僕はそれからすらも、出来れば逃げたいと思っていた。
もし、あの妖怪だったら。
僕を捕まえに来たら。
きっと抵抗すらできやしない。
たとえあの華奢な手で柔らかくつかまれたとしても、僕はごめんだった。
「開けてえ、開けてよう」
控えめな叩く音がする。無視だ無視。カーテンの向こうなんかに、何もない。当たり前だ。
「もー、何なのよう!」
バンッ。
「うわあっ!」
「開けなさいよう!開けなさいったらあ!」
舌ったらずな声が、僕の部屋の窓から聞こえる。だめだ、こうなったら、静香は。
僕はため息をついた。それは緊張をほぐすためだった。
違う、違うんだ。あの女性ではない。
このカーテンの向こうにいるのは、静香。上川静香。僕の幼馴染。そうだ、間違いない。
「いい加減開けてったらあ!」
「ちょ、ちょっと待って」
僕は窓の向こうの彼女を諫めるように言い、カーテンを開けた。
隣の家、その屋根の庇の間が、おおよそ二〇センチもないような距離。住宅密集地のこの地区ではありがちな形態だ。僕の窓をたたいていた上川静香は、カーテンを開けたことでようやく安堵したような、それともまだ怒り足りないというような複雑な顔をしていた。鍵のロックを開けて中に招き入れる。
「全くなんだってのよ。変に警戒しちゃってさあ」
にゅーっと長い身体をまず入れ、そこからサッシを跨いで、これまた長い足を窓際に置いてあるベッドの上に置く。
長身だ。純粋にすらっと長く感じる身体。胴が長すぎても足が長すぎても、ここまで長くは感じない。違和感を感じてしまうはずなのに。均整の取れた静香の身体には違和感一つない、完成されたノッポという印象を持ってしまう。
「今日もあの廃校に行ってたのね!待っててって言ったでしょお!」
「お、怒らないでくれよ、悪かったって……」
背が高い癖に、静香はまだ舌ったらずな喋り方が抜けていない。どこか子供っぽく―――いや実際子供なのだが、その背丈の高さと見合っていないせいでなんだか変に感じてしまう。見た目とのギャップを知らず知らずのうちに感じているのかもしれない。
「何しに行ってたのよ、あんなとこにい」
「別に……いいだろ、そんなのは」
「よくないわよう。だってあそこ、お化け屋敷じゃない。有名よ」
お化け屋敷?知らなかった。静香とは違って、人間関係がひどく狭い僕は、そうした噂話の類に疎い。
「そうなのか?」
「ええ、高校でも信じてる子はいるみたいよお。なにせ、あそこ、元日本軍の敷地だってんじゃない。それなら、ほら、いくらでもネタはあるもんねえ」
「う、ううん」
戦争関連の施設がみんなお化け屋敷になるというのなら、この街はお化け屋敷の宝庫になってしまう。旧日本軍の時は、全国有数の海軍城下町。東洋一と呼ばれた造船所を持っていて、今でもその造船ドッグを持つ会社に勤めている人は多いし、戦後、海軍から名前を変えた海上自衛隊に勤めている人もいる。たぶん僕の同級生の中にも、卒業後はそのどちらかに勤める人が大多数だ。
「そ、それはいいんだけどさ」
「うん?」
「大会、もうすぐだろ?僕と帰るために早上がりしてたら、そっちがだめになってしまわないか?」
「は?いや、別に?」
静香は陸上部のエースだ。短距離長距離といったトラック競技をするには少しばかり高すぎる背丈も、背面飛びだとか三段跳びといった競技には適合している。それをしめすかのように、彼女は去年、一年生でインターハイ出場を果たした。
「別にって……」
「だあって、これ。詰まんないわよ。勝って当然、負けたらほめてもくれない。結果だけ見てさ、スコア見てさ。それで、私すべてじゃないもんね。私にとってダメダメでも、それが実は後々につながるってこともあるんだもん」
舌ったらずな早口だ。それが本心でないことはよくわかる。子供っぽいところのある分、静香の精神はどこかしら繊細に出来上がっている。ベッドの上で胡坐をかいていて、自分の見かけなど気にしたことがない風に装っていても、手入れした髪や整えた爪が物語る人目への気にかけ。
彼女は、前に行く。前進する。それができる。
そうしないのは、僕のせいなのかもしれない。
幼いころから隣の家に住んでいて、いつも一緒にいた。そのせいか、静香は僕のことをほおっておけなくなったのかもしれない。
自意識過剰だ。
本心が僕をあざけり笑った。
(さっさと、僕の手の届かないところに行ってしまってくれ)
わざわざ家になんて来なくてもいい。来たところで、彼女に対するコンプレックスを刺激されるだけだ。
豪奢な菓子箱でしかない僕。その中身―――たぶん、魅力的な何かがぎゅう詰めにされている彼女。
イライラした。その原因が、僕の努力が彼女に及ばなかったという一点に集約されている気がして、またイライラする。
「あの、さ」
胡坐をかき、どこかを見ていた静香が、恐る恐るとばかりに、僕に話しかけてきた。
不安げな顔だ。
そんな顔、彼女にはふさわしくもないというのに。
僕は勉強机の椅子に座ったまま、彼女に向き直った。
「……なんだよ」
「あの、怒ってる?」
怒ってなんか、ない。ただ、イライラしているだけだ。
「別に」
静香に対しての劣等感、拗らせ。そんなものを、誰かにぶつけられたら、これほど楽なこともないだろう。誰かに相手してもらえることは、それは出来る。豪華な菓子箱に引き付けられ、中身を空けることを決して許さない存在。友人と呼ぶべきかは迷う。そうした存在にその劣等感を詰め込んだような罵倒をすることくらいなら出来る。
意味は、ないけど。
「そう」
伸ばすように鷹揚に言った。
安心が詰まっていた。
彼女が僕に怯える必要なんて、ありもしないのに。
「急にどうしたの」
「だ、だって、あの廃校に行く意味なんてないでしょう?なのにいっつもそっちに行っ、て私を相手にしてくれないから、不安で……」
意味が、分からない。
たとえ、そのままの意味だとしても、彼女の相手をしてくれる人なんていくらでもいる。顧問、部の友達、彼女のファン。そうした人たちが、いくらでもいるだろうに。
僕が彼女の相手をしなくちゃならない道理なんてない。
いや、そんな難しく考えることもないだろう。
はっきり言って、彼女と僕では身分が違う。
スクールカーストだとか、友達の質だとか、全てをひっくるめて僕はそう思った。
「まあ、何もやってないからね。その……静香と違うし、僕は」
「同じ高校生じゃん、そんなこともないでしょ?」
気楽に言ってくれる。
彼女は自分の存在がどれほどのものなのか、理解していないのかもしれない。
「違うよ」
「家だって隣なんだよ?」
「でも違うって。大体なんだよ、その理由」
胡坐掻きっぱなしなのもあれなので、僕は座椅子を用意する。背が高すぎるのも厄介らしく、彼女は腰に違和感を感じたりするらしい。そうした事情を考えた母が買ってきた座椅子。たぶん、息子の僕より、隣の娘である静香の方が使っている。
「中学までそんな事、なかったじゃん。もっと気楽にやろうよお」
「僕は気楽だって。その証拠に、今日は休山登山だ」
「だったら私もいっしょに行ってもいいじゃん」
「部活だろ?そっちは」
「早めに上がれる日だってあるし、良いのよそんなの。一回一緒に行こ?ね」
「そのうちね」
僕はしつこい静香の言葉を遮った。
それ以上相手にしたくなかった。
そうしてしまえば、彼女にぶちまけたくなってしまう。
自分の醜い部分を。どうしようもなく情けない劣等感を。
死にたくなった理由を。
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