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花嫁の間
第四話 名前を失くす宮
香蓮は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
茜の残した沈黙が、音より重く、息苦しく胸にのしかかってた。
――あれは、本当に茜だったのか?
表情も、仕草も、声も、何もかも違っていた。
まるで、茜の姿をした誰かだったような。
そのとき、背後で足音がした。
無表情な女官がまた現れ、淡々と告げる。
「本日より、香蓮様は“香”の名を以て登録されます」
「……“香”」
「はい。“香”の一文字は、後宮における妃の名前でございます。
個々の名は、後宮においては使用いたしません。ご了承ください」
香蓮は目を閉じた。
名を、奪われる――。
それは、存在の輪郭をぼやけさせられるような感覚だった。
自分が“誰であるか”を、曖昧にされていく。
「それでは、“香”様、帝の御座所へ向かう準備を」
問いただす間もなく、女官はまた静かに下がっていった。
香蓮の心には、かすかなざらつきが残っていた。
部屋に戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
見覚えのない筆跡で、たった一言。
『花は、戻れない』
それだけ。
誰が置いたのかもわからない。
けれど香蓮は、その言葉に、意味もなく震えた。
香炉から再び立ちのぼる香の匂いが、いつの間にか鼻を突くほど強くなっていた。
それはもう、甘さではなく、どこか焦げたような苦みのある匂いだった。
名前を失った女たちが集う宮。
ここでは、香の名のもとにすべてが統一される。
個としての過去は忘れられ、“帝に捧げられる器”となるのだ。
香蓮は鏡の前に座った。
そこにはたしかに、自分の顔が映っている。
けれど、その目は――昨日よりも、わずかに他人に似ていた。
茜の残した沈黙が、音より重く、息苦しく胸にのしかかってた。
――あれは、本当に茜だったのか?
表情も、仕草も、声も、何もかも違っていた。
まるで、茜の姿をした誰かだったような。
そのとき、背後で足音がした。
無表情な女官がまた現れ、淡々と告げる。
「本日より、香蓮様は“香”の名を以て登録されます」
「……“香”」
「はい。“香”の一文字は、後宮における妃の名前でございます。
個々の名は、後宮においては使用いたしません。ご了承ください」
香蓮は目を閉じた。
名を、奪われる――。
それは、存在の輪郭をぼやけさせられるような感覚だった。
自分が“誰であるか”を、曖昧にされていく。
「それでは、“香”様、帝の御座所へ向かう準備を」
問いただす間もなく、女官はまた静かに下がっていった。
香蓮の心には、かすかなざらつきが残っていた。
部屋に戻ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
見覚えのない筆跡で、たった一言。
『花は、戻れない』
それだけ。
誰が置いたのかもわからない。
けれど香蓮は、その言葉に、意味もなく震えた。
香炉から再び立ちのぼる香の匂いが、いつの間にか鼻を突くほど強くなっていた。
それはもう、甘さではなく、どこか焦げたような苦みのある匂いだった。
名前を失った女たちが集う宮。
ここでは、香の名のもとにすべてが統一される。
個としての過去は忘れられ、“帝に捧げられる器”となるのだ。
香蓮は鏡の前に座った。
そこにはたしかに、自分の顔が映っている。
けれど、その目は――昨日よりも、わずかに他人に似ていた。
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