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花嫁の間
第六話 沈んだ家
香蓮は、寝台の上でまぶたを閉じた。
後宮に来てから、まともに眠っていない。
香のせいだろうか、それとも、静かすぎる世界のせいか。
――けれどこの夜は、夢が来た。
夢の中に、懐かしい風の匂いがした。
白木の家。囲炉裏の煙。父の書斎に立ち込めていた、墨の香織。
「香蓮、花を活けるのは“心”だ。形ではないよ」
そう言って微笑んだ父の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
香蓮の父は、宮廷の下級文官だった。学問に通じ、言葉を慎み、いつも穏やかな人だった。
だけど三年前、“帝に呪詛した”という罪で処刑された。
証拠はなかった。突然の密告と、急な裁き。
気付けば、家は取り壊され、香蓮は遠縁の親族のもとに預けられていた。
その年、母も病に倒れた。
香蓮は、静かにすべてを失った。
そんな香蓮に、ある日、宮からの召しが来た。
「後宮に入れ。おまえが“香”として選ばれたのだ」と。
選ばれた?何に?誰に?
問いかける声は無視された。
だが彼女にはわかっていた。
――これは、何かの罰であり、あるいは父の残した“遺志”を確かめる旅なのだと。
後宮では、誰もが“香”という名に塗り替えられる。
過去も、家も、名も、全部。
だからこそ、香蓮は決めていた。
自分だけは、記憶を手放さない。
たとえ、どれだけ名前を呼ばれなくても。
たとえ、自分の顔が少しずつ変わっていく気がしても。
夢から醒めると、香炉は消えていた。
でも部屋には、まだ香の残り香がしつこく漂っていた。
それは、父が最期まで好んで使っていた香と、よく似た匂いだった。
香蓮は身を起こし、机の引き出しをそっと開けた。
そこにしまってあるのは、たったひとつの小包だった。
中には、薄紙に包まれた香木が一片。
父がいつも使っていたものと同じ種類。
宮に入るとき、持ち物はすべて取り上げられたが、この香だけは、なぜか残されていた。
いや――「残されていた」のではなく、「あえて残された」のではないか。
そんな気がしていた。
香蓮は香木を鼻先に近づけ、そっと目を閉じた。
この香りを嗅ぐたびに、父の筆の音、母の柔らかな手、庭に咲いたユリの花を思い出す。
忘れたくないと思う。
けれどこの場所では、思い出すことさえ、罪なのだ。
名前を奪われ、言葉を選び、顔を整え、香を染みこませられ――やがて「香」は帝の好みに“整えられる”。
それが、この後宮で花開くということ。
――わたしは、“花”にはならない。
香蓮は香木を布に包みなおし、衣の奥深くに仕舞い込んだ。
たとえ誰にも気づかれなくても、たとえ自分でも忘れてしまっても。
この香だけは、きっと、いつか思い出させてくれるはずだ。
この後宮のどこかに、父を陥れた“何か”がある。
そしてそれは、おそらく帝に近い場所にある。
香蓮の中に、静かな炎が灯る。
彼女はまだ怯えていた。
帝の眼差し、鈴の音、女官たちの無言、変わり果てた茜――
すべてが怖かった。
けれど、それでも、確かめなければならない。
なぜ父が死んだのか。
なぜ、自分が“香”に選ばれたのか。
そして、この後宮で、何が“摘まれて”いるのかを。
香蓮は、そっと立ち上がった。
窓の外には月が浮かび、静かに世界を見下ろしている。
その光に照らされた後宮の屋根が、どこまでも美しく、そして冷たく連なっていた。
まるで、天の下で咲いた無数の花々が、誰にも気づかれず枯れていく庭園のようだった。
後宮に来てから、まともに眠っていない。
香のせいだろうか、それとも、静かすぎる世界のせいか。
――けれどこの夜は、夢が来た。
夢の中に、懐かしい風の匂いがした。
白木の家。囲炉裏の煙。父の書斎に立ち込めていた、墨の香織。
「香蓮、花を活けるのは“心”だ。形ではないよ」
そう言って微笑んだ父の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
香蓮の父は、宮廷の下級文官だった。学問に通じ、言葉を慎み、いつも穏やかな人だった。
だけど三年前、“帝に呪詛した”という罪で処刑された。
証拠はなかった。突然の密告と、急な裁き。
気付けば、家は取り壊され、香蓮は遠縁の親族のもとに預けられていた。
その年、母も病に倒れた。
香蓮は、静かにすべてを失った。
そんな香蓮に、ある日、宮からの召しが来た。
「後宮に入れ。おまえが“香”として選ばれたのだ」と。
選ばれた?何に?誰に?
問いかける声は無視された。
だが彼女にはわかっていた。
――これは、何かの罰であり、あるいは父の残した“遺志”を確かめる旅なのだと。
後宮では、誰もが“香”という名に塗り替えられる。
過去も、家も、名も、全部。
だからこそ、香蓮は決めていた。
自分だけは、記憶を手放さない。
たとえ、どれだけ名前を呼ばれなくても。
たとえ、自分の顔が少しずつ変わっていく気がしても。
夢から醒めると、香炉は消えていた。
でも部屋には、まだ香の残り香がしつこく漂っていた。
それは、父が最期まで好んで使っていた香と、よく似た匂いだった。
香蓮は身を起こし、机の引き出しをそっと開けた。
そこにしまってあるのは、たったひとつの小包だった。
中には、薄紙に包まれた香木が一片。
父がいつも使っていたものと同じ種類。
宮に入るとき、持ち物はすべて取り上げられたが、この香だけは、なぜか残されていた。
いや――「残されていた」のではなく、「あえて残された」のではないか。
そんな気がしていた。
香蓮は香木を鼻先に近づけ、そっと目を閉じた。
この香りを嗅ぐたびに、父の筆の音、母の柔らかな手、庭に咲いたユリの花を思い出す。
忘れたくないと思う。
けれどこの場所では、思い出すことさえ、罪なのだ。
名前を奪われ、言葉を選び、顔を整え、香を染みこませられ――やがて「香」は帝の好みに“整えられる”。
それが、この後宮で花開くということ。
――わたしは、“花”にはならない。
香蓮は香木を布に包みなおし、衣の奥深くに仕舞い込んだ。
たとえ誰にも気づかれなくても、たとえ自分でも忘れてしまっても。
この香だけは、きっと、いつか思い出させてくれるはずだ。
この後宮のどこかに、父を陥れた“何か”がある。
そしてそれは、おそらく帝に近い場所にある。
香蓮の中に、静かな炎が灯る。
彼女はまだ怯えていた。
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すべてが怖かった。
けれど、それでも、確かめなければならない。
なぜ父が死んだのか。
なぜ、自分が“香”に選ばれたのか。
そして、この後宮で、何が“摘まれて”いるのかを。
香蓮は、そっと立ち上がった。
窓の外には月が浮かび、静かに世界を見下ろしている。
その光に照らされた後宮の屋根が、どこまでも美しく、そして冷たく連なっていた。
まるで、天の下で咲いた無数の花々が、誰にも気づかれず枯れていく庭園のようだった。
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