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花嫁の間
第七話 囁く音
翌日、香蓮は予定されていた所作の稽古へ向かった。
女官に案内され、薄暗い廊下を歩く。
壁には見事な花の絵が描かれているのに、それらはどれも色が褪せ、さびれていた。
稽古場に着くと、すでに数人の女官や若い妃たちが並んでいた。
彼女たちはみな、きちんと着飾ってはいるものの、どこか無表情で、命の気配が希薄だった。
教官役の老女が、乾いた声で指導を始める。
「――花のように、静かに。
香のように、抗わず。
帝のために、ここに咲きなさい」
香蓮は所作の型を学びながら、どうしても離れない感覚に苛まれていた。
指先ひとつ、歩みひとつに、すべて「型」が決められている。
それに従うことが、この後宮では絶対なのだと、押し込まれるように感じた。
ふと、周囲の女たちを見渡す。
笑っている。
微笑んでいる。
だが、どの顔にも“感情”がない。
ただ口元を釣り上げているだけ。
まるで、絵に描かれた花のようだった。
そのとき。
すぐ傍らで、誰かが震える気配を感じた。
隣にいた女官が、わずかに肩を揺らしていた。
視線を向けると、彼女の目は虚ろに開かれ、口元がひくひくと痙攣していた。
気付けば、指先も小刻みに震えている。
――何かおかしい。
香蓮がそっと手を伸ばそうとした瞬間、その女官は、力なく崩れるようにその場に倒れた。
他の女たちは、誰ひとり声を出さなかった。
悲鳴も、驚きの言葉もない。
ただ、教官役の老女が冷たい声で命じた。
「運びなさい」
無言のまま、他の女官たちが倒れた女を抱え、引きずるようにして稽古場を出ていった。
その様子は、まるで傷んだ花を摘み取る庭師のようだった。
香蓮は、動けなかった。
恐怖にではない。
圧倒的な、違和感に。
――ここでは、人の異変さえ、なかったことにされる。
それに気づいた瞬間、香蓮の背中を冷たいものが撫でた。
また、あの鈴の音が聞こえたのだ。
チリ、チリ。
静かに、けれどはっきりと。
振り返ると、ひとりの女が立っていた。
氷妃《ひょうひ》――。
後宮でもっとも高い位を持つ、美しき妃。
白磁のような肌。
無表情な顔。
そして、右手に握られた小さな金鈴。
氷妃は、こちらを見ているようで、見ていなかった。
彼女は小さく鈴を振った。
それだけで、空気が震えた。
――チリ、チリ、チリ。
香蓮は、その音を聞くたびに、自分の心が削られていく気がした。
氷妃の唇が、微かに動く。
「……はな……もどれない……」
かすれた、聞き取りづらい囁きだった。
でも香蓮には、はっきりと聞こえた。
“花は、戻れない”
その言葉の意味を考えるより先に、氷妃は女官たちに抱きかかえられ、連れて行かれた。
誰も、氷妃が何を呟いたのかを気にする者はいなかった。
再び静寂が訪れた稽古場。
空気は重く、ひどく乾いていた。
香蓮はそっと、自分の胸に手を当てた。
心臓はまだ、かろうじて鼓動を打っていた。
だがそれすら、ここにいるうちに消されてしまうのではないか――
そんな感覚に陥った。
目を閉じると、昨夜しまいこんだ香木の、微かな香りが鼻腔をかすめた。
それだけが、彼女にとって唯一、自分が“香蓮”であることを証明していた。
この後宮では、笑うことも、泣くことも、苦しむことも許されない。
ただ香りのように、抗わず、静かに、摘まれていく。
香蓮は知った。
――ここは、美しさに偽装された墓場だ。
ここにいる限り、自分もまた、やがて名前を忘れ、
心を溶かし、誰にも知られずに枯れていくのだと。
鈴の音が、まだどこか遠くで鳴り続けていた。
女官に案内され、薄暗い廊下を歩く。
壁には見事な花の絵が描かれているのに、それらはどれも色が褪せ、さびれていた。
稽古場に着くと、すでに数人の女官や若い妃たちが並んでいた。
彼女たちはみな、きちんと着飾ってはいるものの、どこか無表情で、命の気配が希薄だった。
教官役の老女が、乾いた声で指導を始める。
「――花のように、静かに。
香のように、抗わず。
帝のために、ここに咲きなさい」
香蓮は所作の型を学びながら、どうしても離れない感覚に苛まれていた。
指先ひとつ、歩みひとつに、すべて「型」が決められている。
それに従うことが、この後宮では絶対なのだと、押し込まれるように感じた。
ふと、周囲の女たちを見渡す。
笑っている。
微笑んでいる。
だが、どの顔にも“感情”がない。
ただ口元を釣り上げているだけ。
まるで、絵に描かれた花のようだった。
そのとき。
すぐ傍らで、誰かが震える気配を感じた。
隣にいた女官が、わずかに肩を揺らしていた。
視線を向けると、彼女の目は虚ろに開かれ、口元がひくひくと痙攣していた。
気付けば、指先も小刻みに震えている。
――何かおかしい。
香蓮がそっと手を伸ばそうとした瞬間、その女官は、力なく崩れるようにその場に倒れた。
他の女たちは、誰ひとり声を出さなかった。
悲鳴も、驚きの言葉もない。
ただ、教官役の老女が冷たい声で命じた。
「運びなさい」
無言のまま、他の女官たちが倒れた女を抱え、引きずるようにして稽古場を出ていった。
その様子は、まるで傷んだ花を摘み取る庭師のようだった。
香蓮は、動けなかった。
恐怖にではない。
圧倒的な、違和感に。
――ここでは、人の異変さえ、なかったことにされる。
それに気づいた瞬間、香蓮の背中を冷たいものが撫でた。
また、あの鈴の音が聞こえたのだ。
チリ、チリ。
静かに、けれどはっきりと。
振り返ると、ひとりの女が立っていた。
氷妃《ひょうひ》――。
後宮でもっとも高い位を持つ、美しき妃。
白磁のような肌。
無表情な顔。
そして、右手に握られた小さな金鈴。
氷妃は、こちらを見ているようで、見ていなかった。
彼女は小さく鈴を振った。
それだけで、空気が震えた。
――チリ、チリ、チリ。
香蓮は、その音を聞くたびに、自分の心が削られていく気がした。
氷妃の唇が、微かに動く。
「……はな……もどれない……」
かすれた、聞き取りづらい囁きだった。
でも香蓮には、はっきりと聞こえた。
“花は、戻れない”
その言葉の意味を考えるより先に、氷妃は女官たちに抱きかかえられ、連れて行かれた。
誰も、氷妃が何を呟いたのかを気にする者はいなかった。
再び静寂が訪れた稽古場。
空気は重く、ひどく乾いていた。
香蓮はそっと、自分の胸に手を当てた。
心臓はまだ、かろうじて鼓動を打っていた。
だがそれすら、ここにいるうちに消されてしまうのではないか――
そんな感覚に陥った。
目を閉じると、昨夜しまいこんだ香木の、微かな香りが鼻腔をかすめた。
それだけが、彼女にとって唯一、自分が“香蓮”であることを証明していた。
この後宮では、笑うことも、泣くことも、苦しむことも許されない。
ただ香りのように、抗わず、静かに、摘まれていく。
香蓮は知った。
――ここは、美しさに偽装された墓場だ。
ここにいる限り、自分もまた、やがて名前を忘れ、
心を溶かし、誰にも知られずに枯れていくのだと。
鈴の音が、まだどこか遠くで鳴り続けていた。
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