花還らず

シーア

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花嫁の間

第八話 扉

夜が更けても、香蓮は眠れなかった。

寝台の上でまどろもうとするたび、あの鈴の音が耳の奥に蘇る。
氷妃の虚ろな瞳、かすれた囁き――「花は、戻れない」。
何度も思い出しては、そのたびに胸の奥が冷たく沈んでいく。


たまらず香蓮は寝台を抜け出した。
薄衣を羽織り、そっと廊下へ出る。
足音を殺して歩くが、それでも自分の気配が異様に大きく感じられた。


後宮の夜は、静かだった。

風の音もない。
虫の声もない。
灯籠の明かりだけがぼんやり揺れて、無数の影を床に落としている。

香蓮は歩きながら、ふと気づいた。
自分以外に、誰一人、動いている気配がないのだ。

まるでこの後宮すべてが、夜になると、息を止めているかのようだった。


胸の内にざわめきが広がる。
恐ろしい。
けれど、それ以上に、確かめたいという衝動が香蓮を突き動かしていた。


氷妃の様子、倒れた女官、誰も口に出さない違和感――
すべての源が、この後宮のどこかに潜んでいる。
そのことを、香蓮は確信していた。


歩くうちに、見覚えのない回廊へと迷い込んだ。


そこは、他のどの場所よりも静かで、空気が重い。
明かりは途切れ途切れにしか灯っておらず、闇が深く溜まっている。

進んだ先に、ひとつの扉があった。

古びた木の扉。
白木に施された彫刻はどこか歪んで見えた。

香蓮は近づく。
扉に手を触れたとたん、指先が微かに震えた。

冷たい。
まるでこの扉だけが、別の時の流れに取り残されているかのようだった。


扉の隙間から、うっすらと香の匂いが漏れ出している。
それは、帝の御座所で感じた、あの甘くて苦い香りだった。


――ここだ。


香蓮の胸が高鳴る。

ここに、“何か”がある。


けれど、手をかけようとした瞬間、強い恐怖が香蓮を引き止めた。


この扉を開いたら、もう、元には戻れない。
その確信が、理屈ではなく、肌で分かった。


香蓮は扉に手を添えたまま、必死に呼吸を整えた。
足が震える。
けれど、目を逸らすこともできなかった。



そのとき。


背後で、微かな鈴の音が鳴った。

チリ――チリリ……。


香蓮ははっと振り返る。
けれど、そこには誰もいなかった。

ただ、月明かりの中、小さな鈴がひとつ、床に転がっている。


どうして?
誰が?
香蓮は混乱しながらも、ゆっくりと鈴に近づいた。


鈴は、何の細工もない、ごく普通のものだった。
ただひとつ違っていたのは――
紐の結び目が、妙に歪んでいたことだ。

それは、花の形を模しているようにも、
あるいは、首を絞める縄の形にも見えた。


香蓮は息を飲んだ。


誰かが、導こうとしている。
この先へと。



香蓮は、震える指で胸元の香木を握った。

父が遺してくれた最後の香り。
自分が自分であることを、わずかに繋ぎ止めるもの。


心の奥で、何かが囁く。



――来い。


香蓮はそっと、目を閉じた。
そして、今はまだ、扉に触れずに、静かにその場を離れた。


背後に、鈴の音がひとつだけ、哀しげに鳴った。



香蓮は分かっていた。
いずれ、あの扉を開けなければならない。
それが、自分の運命であることを。


たとえ、その先に待つのが、戻れない運命だとしても。
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