それでも日は昇る

阿部梅吉

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有栖川優理愛の登場 1

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 あっという間に文化祭当日になった。
 部誌の制作も何とか急ピッチで終わらせ、おすすめの本を紹介する紹介コーナーを設けた。伊月と梶はポスターをパソコンで制作し、若狭は自分の小説を何とか形にし、高橋は編集作業と同時並行で自分の短歌を作り、印刷して黒板に貼った。
 鈴木は編集を手伝うのと同時にレイアウトにも力を入れた。レイアウトをほとんど考えてくれたのは佐伯で、休憩スペースや受付などを設けることを提案してくれた。俺は学際の実行委員会との調整を行い、当日に向けての全体作業を管理する役割を担った。使用する机やら椅子やらペンの数まで申請しなければならず、結構面倒な手続きがあった。細かいところは若狭にも手伝ってもらった。

 文化祭は土曜日と日曜日に行われた。金曜日には前夜祭があったが、そこでは活動は行わなかった。

「みんなお疲れ。明日からはシフトの時間にとりあえず来ること。来れなかったら即連絡。シフト以外にも空いている時間があれば来て手伝ってくれると嬉しい。以上、お疲れ様でした」

金曜日の後夜祭の前ぎりぎりまでレイアウトをどうするか拘ったため、準備は直前にまで及んだ。

「おつかれさまです!!!」

若狭が元気よく言う。

「「お疲れ様です」」

つられて皆も心なしか大きな声言う。伊月が拍手した。

「じゃあ、解散」

なんとなくだが、俺は文化祭が成功することを予感していた。去年、俺らは三人だけで出店できなかったから楽しめなかったが、今年はなんだかわくわくする。文化祭が楽しいと思ったことは生まれて初めてのことだった。
 

 当日、午前中は伊月や一年生たちの知り合いがちらほらと来てくれて、部誌を買ってくれた。十二時前にいったん人は落ち着き、一時ごろからまた人が来始めた。

 「一丁前に『カラマーゾフの兄弟』なんか紹介しているんですね」

俺はいきなり話しかけられた。鳥のような、甲高い声。振り返ると、茶髪で髪は長く、すらっとした体系の女がいた。可愛い系というよりは、美人の部類だ。少しきつい目、細い指、他校の制服。

「これ、誰の紹介なんですか?」

その女は言う。物おじしない性格らしい。

「あ、俺、です」

「えっ」

相手の目が丸くなる。明らかに驚いている。

「すいません」

思わず女は俺から目をそらした。

「……桜木ヒカルじゃないのね……」

女は小声で言う。聞こえているぞ。

「いえ」

俺は少しむかついたが、そんなことよりも好奇心が勝った。

「『戦争と平和』、好きなんですか?」

「ええ」

相手はさらっと答える。

「読破したんですか?」

「……飛び飛びでね」

「すごいですね」

俺は率直な感想を述べた。俺以外に高校生で『戦争と平和』を読んでいる人間には初めて出会った。

「そんな人いるんですね」

「あたりまえでしょう!」

相手は語気を強めた。が、一瞬で仕舞った、という顔をした。

「すみません、」

女の顔が赤くなる、良くも悪くも嘘が付けない性格みたいだ。俺と同じだ。見ていてすごく歯がゆくなる。俺もハタから見るとかこんな感じなんだろうか。

「私、すごく、この本が好きで、つい……」

俺はこの女に対する怒りが消えていることに気付いた。こいつは只まっすぐで、本が好きすぎるだけなのだ。

「俺もですよ」

俺は頑張って苦手な笑顔を見せる。

「こんなすごい作品なのに、みんな知らないんですよね」

「ですよねえ!!!私もそう思います!!!登場人物のが五百人以上いるのにそれぞれにキャラが立っているのもすごいし、今まで何も歴史に語られてこなかった普通の人々に焦点を当てたのもすごいし、かといってちゃんと戦争のことも書かれていえるし、何より人物が本当に生きていると錯覚するほど描写されていて……、」女はいきなり早口で語り出した。それから一秒後、また例の「しまった」という顔をした。
「すいません」

また顔が赤くなる。

「好きなので、興奮してしまいました」

「いえいえ」

この女、相当キている。俺よりも重症だ。

「あなたは、全部読みました?」

「いや、俺も飛び飛びで……ところどころ抜けていると思います。俺、一番印象に残っているシーン、ピエールがクマを担ぐところですし」

女はくすくす笑った。その笑い方が上品でかつその仕草がとても似合っていた。

「確かにびっくりした」

含んだような笑い方をされた。私もわかるわよ、という表情。

「ほかに何か読むんですか?」

「俺が好きなのはロシア文学とアメリカ文学で……今は『(アンドロイドは)電気羊(の夢を見るか)』、読んでます」

「SFも読むのね」

「いえ、本当は得意じゃないんですけど、挑戦しようと思って。今読書領域、広げているところなんです」

「なるほどねえ」

彼女はうんうんと三回うなずいて腕汲みをした。二秒後ににっこりと笑って

「私、貴方みたいな人初めて」
と言った。

「俺もです」

「ねえ、良かったら連絡先を教えてくれません?」

女は携帯を出した。

「もっと話したいんです。だってこんな話できる友達は、誰もいないから……」

「え、ええっと」

断る理由がなかった。ヘンな女ではあるが、俺もこんなに話の合う人間に出会ったことは初めてだった。俺は携帯を差し出す。連絡先を交換している間、

「海外文学読者人口は何人か知っています?」
と彼女は言った。

「いや、見当も」

「三千人ほど。高校が三つ分」

彼女はさらりと言った。

「少ないっすね、日本全部でですか?」

「そうみたい。まあ、マニアは同じ本を何冊も買うし、気まぐれに一冊買う人もいるから概算だとは思うけれど」

「とても少ないですね」

「そうなの」

彼女はため息をついた。芝居がかったような大げさな仕草だったが、彼女みたいな美人と言えなくもない人物が行うとそれなりに絵になった。

「だから、高校生でこんなに話の合う人と会うのは奇跡なの」

「そう言われればそうですね」

連絡先の交換が終わった。

「ありがとう」

彼女は微笑んだ。とても自然に。それがまた上品で、彼女に似合っていた。

「俺、なにもしてないすけどね」

「貴方みたいな人がいるだけでうれしいの」

彼女は下を向いて微笑む。

「知れてよかった。また連絡します」

彼女はそう言って立ち去ろうとした。

「あ、そういえばあなたの作品って、この部誌の中のどれ?」

「二番目です」

「わかった」

そう言うと、長いさらさらの髪をなびかせてどこかに消えてしまった。
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