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永安
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成都から白帝城への道を、孔明は馬車で駆けていた。
蜀の首都成都にあった諸葛孔明は、夷陵での蜀帝劉備玄徳の大敗の報告の後、しばらくその対応に多忙を極めていた。国庫の全てを放出しても足らず、あらゆる手段で金を工面して敗戦処理にあたり、国家の破綻を防いでいたのだ。
「永安か……」
そんな最中、急遽劉備に召しだされた孔明は、馬車の中でつかの間の休息をとりながら、劉備が呉との国境にある白帝城を〝永安〟と改名した事を思い出し、深いため息をついた。
劉備の最側近であった孔明にとって、主の心境を推し量ることは容易だった。おそらく劉備は成都には帰らず、かの地で臨終の時を迎えるつもりなのだ。夷陵での大敗はそれほどすさまじいものだった。劉備が誇る歴戦の将兵の大半を喪失しただけでなく、副司令官であった馬良ら多くの人材を失ったのだ。かつての赤壁の大勝でさえ、曹操の名だたる大将の首をとることはかなわなかったことを考えれば、いかに夷陵での犠牲が大きかったかがわかる。
漢王朝の血を引く劉備による漢復興の望みは露と消えた。それどころか、蜀はまさに滅亡の危機に瀕しているといえた。
(やはり、命に代えても今回の呉遠征をお止めすべきだった)
十六年前に孔明を参謀に迎えた劉備玄徳は、荊州から益州に進出して魏呉に続く第三勢力となり、ついには漢王朝の成立の地である漢中を奪うに至っていた。だがその快進撃は、同盟国であった呉の不信を招くこととなった。
曹操危篤との極秘情報を入手した孔明は、劉備に進言して荊州の関羽を北進させた。同時に呉の孫権の側近である実兄諸葛瑾にも、魏を攻めるように要請した。両者の北伐にあわせて劉備率いる本軍が長安方面に進出できれば、魏を北方に追いやり漢の復興を成し遂げることも不可能ではなかった。何しろ曹操の寿命が尽きかかっていたからだ。英主の世代交代には、常に危険が伴うのだ。
だが魏を震撼させた関羽の北伐は、無残な結果に終わった。
大国魏よりも蜀の勢いを恐れた孫権は、あろうことか魏と結んで関羽の背後を強襲。関羽は斬られ、古巣である荊州は奪われてしまった。漢朝再興の最大にして最後の好機は失われた。それどころか義弟の関羽を失った劉備は荊州を奪還するため呉遠征を決意。拙速な呉遠征の末、夷陵にて大惨敗を喫したのだ。
蜀呉の死闘のさなか、魏は曹操から曹丕への権力継承という最大の危機を乗り切ることができた。そしてその危機は、今度は蜀にふりかかろうとしている。
「永安から出迎えの騎兵が到着した模様です」
随行の兵士から改めて聞いた永安という言葉には、やはり死の響きを含んでいた。白帝城を永安と改名したのは劉備だった。精魂尽き果てた六十二歳の主は、かの地で永眠を願っているのだろう。もはやかつてのように判断を仰ぐことはできない。
「諸葛先生、お迎えにあがりました」
「趙雲将軍直々の出迎え、感謝いたします」
蜀の騎馬隊が孔明の馬車を囲んでいた。統制の取れたその騎馬隊を指揮していたひときわ体格の良い武人は、趙雲将軍だった。孔明よりも十歳以上年上のこの武人は、荊州の新野で孔明と出会ってから、孔明の事を〝先生〟と呼び慕ってくれていた。劉備陣営でも最古参格のこの猛将から先生と呼ばれることを、若き頃の孔明は当然のように思っていた。後にその過ちに気づき、「先生はおそれ多く、やめていただきたい」と孔明が何度も頭を下げて頼んでも、趙雲は頑なにその呼び名をやめてくれず、今に至ったのだ。
(〝諸葛先生〟か……)
初めて彼にそう呼ばれた十六年前の事を、孔明は思い出していた。
水鏡先生のもとで学問を修めたのは二十五歳の頃であった。当時の孔明は周りの人間が愚かに見えて仕方なかった。
書籍の本質を理解せず、学問の為に学問をする無意味な輩達。孔子の教えの自分たちに都合のよい部分だけを引用し、しかも迷信に惹かれ、遂には貨幣経済の廃絶すら主張する愚かな儒者達。この国の多数を占める文字すら知らぬ民達については、考慮に入れるまでもなかった。
荊州の名門である水鏡先生の塾を首席で卒業した孔明にとって、彼らは等しく無知蒙昧の輩に思えた。
「君たちは出世してもせいぜい地方の州牧が関の山だろうが、私が仕官すれば、斉の管仲か、燕の楽毅くらいになるだろう」
学友たちにそう言い放った孔明に対して、彼らの対応は冷たく、ほとんど孔明の元を去ってしまった。当時の孔明は〝周囲に理解されない孤高の天才〟と自らを定義し、若隠居を気取りながらも、その実、密かに自身を慰めていたのだ。
中原と華北での戦いは曹操が制覇していた。孔明の故郷である徐州で虐殺を行った憎き相手ではあるが、そうは言ってはいられまい。中央には諸葛一族の有力者が多い。彼らのつてを使えば、仕官は可能だ。いずれ曹操は漢を滅ぼして帝位につき、新たな王朝を開くのだろう。それは誰の目にも明らかな事実だった。
あるいは江南の孫権も悪くない。曹操と比べれば一回り以上若い孫権の側近には、兄である諸葛瑾がいた。兄に紹介してもらえば、孫権の側近になることも可能だろう。遠からぬ未来に孫権は曹操に降伏するだろうが、降伏後も曹操に好待遇で召し抱えられる手はあるはずだ。
だがどちらも孔明の心に響かなかった。そもそも既に有力な参謀がいる曹操や孫権に仕官しても、出世は望むべくもない。それに孔明自身が、より大きな大義に殉じ、その才能をいかんなく発揮したかった。
そんな思いを胸にくすぶっていた孔明に、数少ない友人である徐庶から手紙が届いた。なんでも戦見物に来いという奇妙な誘いだった。
蜀の首都成都にあった諸葛孔明は、夷陵での蜀帝劉備玄徳の大敗の報告の後、しばらくその対応に多忙を極めていた。国庫の全てを放出しても足らず、あらゆる手段で金を工面して敗戦処理にあたり、国家の破綻を防いでいたのだ。
「永安か……」
そんな最中、急遽劉備に召しだされた孔明は、馬車の中でつかの間の休息をとりながら、劉備が呉との国境にある白帝城を〝永安〟と改名した事を思い出し、深いため息をついた。
劉備の最側近であった孔明にとって、主の心境を推し量ることは容易だった。おそらく劉備は成都には帰らず、かの地で臨終の時を迎えるつもりなのだ。夷陵での大敗はそれほどすさまじいものだった。劉備が誇る歴戦の将兵の大半を喪失しただけでなく、副司令官であった馬良ら多くの人材を失ったのだ。かつての赤壁の大勝でさえ、曹操の名だたる大将の首をとることはかなわなかったことを考えれば、いかに夷陵での犠牲が大きかったかがわかる。
漢王朝の血を引く劉備による漢復興の望みは露と消えた。それどころか、蜀はまさに滅亡の危機に瀕しているといえた。
(やはり、命に代えても今回の呉遠征をお止めすべきだった)
十六年前に孔明を参謀に迎えた劉備玄徳は、荊州から益州に進出して魏呉に続く第三勢力となり、ついには漢王朝の成立の地である漢中を奪うに至っていた。だがその快進撃は、同盟国であった呉の不信を招くこととなった。
曹操危篤との極秘情報を入手した孔明は、劉備に進言して荊州の関羽を北進させた。同時に呉の孫権の側近である実兄諸葛瑾にも、魏を攻めるように要請した。両者の北伐にあわせて劉備率いる本軍が長安方面に進出できれば、魏を北方に追いやり漢の復興を成し遂げることも不可能ではなかった。何しろ曹操の寿命が尽きかかっていたからだ。英主の世代交代には、常に危険が伴うのだ。
だが魏を震撼させた関羽の北伐は、無残な結果に終わった。
大国魏よりも蜀の勢いを恐れた孫権は、あろうことか魏と結んで関羽の背後を強襲。関羽は斬られ、古巣である荊州は奪われてしまった。漢朝再興の最大にして最後の好機は失われた。それどころか義弟の関羽を失った劉備は荊州を奪還するため呉遠征を決意。拙速な呉遠征の末、夷陵にて大惨敗を喫したのだ。
蜀呉の死闘のさなか、魏は曹操から曹丕への権力継承という最大の危機を乗り切ることができた。そしてその危機は、今度は蜀にふりかかろうとしている。
「永安から出迎えの騎兵が到着した模様です」
随行の兵士から改めて聞いた永安という言葉には、やはり死の響きを含んでいた。白帝城を永安と改名したのは劉備だった。精魂尽き果てた六十二歳の主は、かの地で永眠を願っているのだろう。もはやかつてのように判断を仰ぐことはできない。
「諸葛先生、お迎えにあがりました」
「趙雲将軍直々の出迎え、感謝いたします」
蜀の騎馬隊が孔明の馬車を囲んでいた。統制の取れたその騎馬隊を指揮していたひときわ体格の良い武人は、趙雲将軍だった。孔明よりも十歳以上年上のこの武人は、荊州の新野で孔明と出会ってから、孔明の事を〝先生〟と呼び慕ってくれていた。劉備陣営でも最古参格のこの猛将から先生と呼ばれることを、若き頃の孔明は当然のように思っていた。後にその過ちに気づき、「先生はおそれ多く、やめていただきたい」と孔明が何度も頭を下げて頼んでも、趙雲は頑なにその呼び名をやめてくれず、今に至ったのだ。
(〝諸葛先生〟か……)
初めて彼にそう呼ばれた十六年前の事を、孔明は思い出していた。
水鏡先生のもとで学問を修めたのは二十五歳の頃であった。当時の孔明は周りの人間が愚かに見えて仕方なかった。
書籍の本質を理解せず、学問の為に学問をする無意味な輩達。孔子の教えの自分たちに都合のよい部分だけを引用し、しかも迷信に惹かれ、遂には貨幣経済の廃絶すら主張する愚かな儒者達。この国の多数を占める文字すら知らぬ民達については、考慮に入れるまでもなかった。
荊州の名門である水鏡先生の塾を首席で卒業した孔明にとって、彼らは等しく無知蒙昧の輩に思えた。
「君たちは出世してもせいぜい地方の州牧が関の山だろうが、私が仕官すれば、斉の管仲か、燕の楽毅くらいになるだろう」
学友たちにそう言い放った孔明に対して、彼らの対応は冷たく、ほとんど孔明の元を去ってしまった。当時の孔明は〝周囲に理解されない孤高の天才〟と自らを定義し、若隠居を気取りながらも、その実、密かに自身を慰めていたのだ。
中原と華北での戦いは曹操が制覇していた。孔明の故郷である徐州で虐殺を行った憎き相手ではあるが、そうは言ってはいられまい。中央には諸葛一族の有力者が多い。彼らのつてを使えば、仕官は可能だ。いずれ曹操は漢を滅ぼして帝位につき、新たな王朝を開くのだろう。それは誰の目にも明らかな事実だった。
あるいは江南の孫権も悪くない。曹操と比べれば一回り以上若い孫権の側近には、兄である諸葛瑾がいた。兄に紹介してもらえば、孫権の側近になることも可能だろう。遠からぬ未来に孫権は曹操に降伏するだろうが、降伏後も曹操に好待遇で召し抱えられる手はあるはずだ。
だがどちらも孔明の心に響かなかった。そもそも既に有力な参謀がいる曹操や孫権に仕官しても、出世は望むべくもない。それに孔明自身が、より大きな大義に殉じ、その才能をいかんなく発揮したかった。
そんな思いを胸にくすぶっていた孔明に、数少ない友人である徐庶から手紙が届いた。なんでも戦見物に来いという奇妙な誘いだった。
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