臥龍立つ

来里間 充

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劉備玄徳

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 手紙に書かれた日時に、新野の北の荒野に出向いた孔明。そこには近隣の農民たちが同じく戦見物に来ていた。彼らに混じり、劉備玄徳率いる軍と、曹操軍との戦いを見ることになった。それは今思い出しても鮮烈な出来事だった。
(なんだ、この軍は!?)
 劉備軍は、孔明の予想とまるで異なる軍隊だった。数に劣り装備も劣悪な兵士達だったが、いざ戦闘となると、関羽と張飛と思しき二人の将軍に率いられた兵士たちは猛獣のようになり、曹操軍と互角以上の戦いをみせたのだ。
(これが〝万人の敵〟と称された関羽と張飛。古の項羽もこうであったろうか)
 猛将のもとに弱卒なしというが、事実だった。しかも曹操軍が本陣の一部を増援に向けたのを、わずか一瞬の隙を突くように、どこからともなく現れた疾風のような騎馬隊が、曹操軍の本陣に突っ込んだのだった。戦闘が始まるより前に、戦場を大きく迂回していたに違いない。
 騎馬隊を率いていた趙雲の力も、関張に劣らず凄まじいものだった。思わぬ奇襲に曹操軍の本軍は大混乱となり、そのまま崩れるように撤退した。後で知ったが曹操軍の指揮官は夏侯惇将軍だという。夏侯惇は曹操の一族にして、腹心と言ってもよい名に聞こえた名将であった。決して弱将ではない。
 だが孔明が真に驚いたのは、その後であった。それはその日の驚きをすべて覆すような、圧倒的なものだった。
「漢朝万歳!!」
 戦見物をしていた農民たちが、劉備軍の勝利を祝福して一斉に声をあげたのだ。
 学も教養もない彼らから漢朝に対する賛辞の声を聴くなど、予想もしていなかった。彼らにとって、税をとる為政者は敵に近い存在のはずだ。憎みこそすれ、親しみを抱くいわれがない。
 だが四百年の安寧をもたらした漢朝に対する民の忠誠心を、孔明は民衆たちの中から見出すことができた。そして孔明自身も同様であった。それは滅んだと思っていた故郷が突如目の前に蘇ったかのような、底知れない嬉しさを伴った驚きだった。そして孔明は気づいた。自分もまた、漢朝の臣だったのだと。
「劉皇叔様!」「劉備様万歳!」
 続いて農民たちが大歓喜の表情で、劉備をたたえだしたのだ。
 既に天寿を迎えつつあった漢朝、その命脈に対する希望を一心に集めていたのが、皇叔(帝の叔父)と呼ばれ、民衆に圧倒的な人気を誇っていた劉備だった。
(この男が、劉備玄徳……)
 かつては曹操の盟友にして共に呂布を打ち破るも、ついには袂を分かった宿敵。中原の戦いで曹操の敵のほとんどが敗れ去ったが、劉備だけが生き残っていた。今は荊州の劉表の客将にすぎないものであったが、その名声は天下に鳴り響いていた。すでに齢四十六にして、新野でくすぶっている過去の人物、そんなふうに思っていた孔明の劉備への評価は根底から覆っていた。
(高祖劉邦は天に愛されていたと史記にあったが、劉備もそうに違いない)
 孔明はそう確信した。劉備が本当に漢朝の帝室の血統であることを証明する術はない。だがその天性の威風と人徳から、誰も劉備の血統を否定しなかった。宿敵である曹操自身が高官を与え劉備を召し抱えようとしたほどだ。
(この男に仕え、漢朝を再興する。それは管仲や楽毅を上回る大功績たりうる)
 天命を告げられたかのような熱い思いが全身を駆け巡る。人一倍強い野心を持っていた孔明の心に、火がともった瞬間だった。
(しかしこれほどの人物が、なぜ五千の兵しか有しない小勢力に甘んじているのか)
 曹操の兵力は五十万、孫権も十万は動員できた。それらに比べて、劉備の勢力はあまりに小さい。地元の名士達や豪族の支援を受けられれば、もっと大きな勢力になれるはずだ。そもそもなぜ劉備は、中原での戦いで敗れたのだろうか。
 帰宅後に孔明は劉備の陣営について調べ上げ、すぐにその致命的な欠点に気づいた。
(そうか。彼らは〝儒家〟とも敵対しているのか)
 劉備達の組織の源流は、〝侠〟と呼ばれる義によって集まった団体であった。弱きを助け強きをくじく彼らは、民衆に圧倒的人気を誇る一方で、儒家達とは極めて相性が悪い。かつての本拠地であった徐州や他の地域で地盤を築けなかったのは、それが原因であろう。
 この国では儒家は名士であり豪族であり、そして官吏でもある。それらと敵対していた彼らが地盤を築けなかったのは、孔明にとっては自明の理だった。
(そういえば徐庶は侠の出身だったな)
 ならば徐庶が劉備に仕えた理由は理解できる。同じ侠どうし、気が合ったのだろう。劉備と会うには徐庶の伝手を使えばよいと思ったが、聞くところによると徐庶は母親を曹操に人質に取られ、曹操のもとに向かったという。
(それでも徐庶が私に手紙を送ったということは、劉備に仕えよということか)
 だが孔明は名門の出身であり、荊州の豪族の娘を妻に持つ名士であるとはいえ、今は一書生にすぎない。とても劉備らと面会できるとは思えない。特に関羽と張飛の二人は、蛇蝎のごとく名士を嫌っているという噂だった。
 思案したうえで孔明は、騎馬隊を率いていた趙雲に狙いを定めた。聞くところによると趙雲は元々は俠ではなく、漢朝の役人の家系であるという。恐るべき馬術と槍術の使い手に見えたが、元は文官らしかった。
 学があるならば、孔明の才覚も理解できるはずだ。そう思った孔明は、妻の人脈を活用してついには趙雲との会見を設定することに成功した。
「高名な諸葛先生の教えを乞う機会をいただき、光栄です」
 こちらから面会を希望したにもかかわらず、初対面の趙雲はそう言って頭を下げた。その礼儀正しいしぐさは、とても騎馬隊を率いていたあの猛将と同一人物とは思えなかった。
 この国において、知識人、とりわけ漢朝の国教である儒学を学ぶ儒者は尊敬されていた。儒学も修めていた孔明は当然のように上座に座り、趙雲に自説を説く。
「素晴らしい教えです。ぜひ、我が君にも聞いていただきたい」
 必死の思いが通じたのか、趙雲は劉備との会談も用意してくれるという。孔明は冷静を装っていたが内心では、とびあがらんほどの気持ちを抑えきれずにいた。だが劉備との会談は、孔明が予想していたよりもはるかに困難なものだった。
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