臥龍立つ

来里間 充

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三顧の礼

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 白帝城につくと、孔明は趙雲とともに城の奥の、劉備の寝室へと駆けるように向かった。
 部屋の扉の前の廊下には、蜀の主だった群臣たちの姿が見えた。彼らの表情はみな暗く、今後の蜀の将来を暗示しているかの様だった。
 呉懿と李厳。やはり彼らも呼ばれていたか。
 呉懿は益州の名士の武官であり、妹が劉備の后にあたる外戚でもあった。李厳は孔明とともにかつて蜀の法整備を担った文官であり、こちらも益州の有力な名士だった。
 彼らに趙雲と私を加えた集団体制が落としどころか。
 有力な武官としては他に魏延がいるが、彼は遠く漢中の守備についている。衰えた劉備は孔明ら四名に後事を託すつもりなのだろう。他の群臣は、その見届けのために呼ばれたに過ぎない。
 孔明は内心で嘆息した。かつての頼もしい同胞も、これからは政敵となりうる。せめて荊州名士の馬良が生き残っていれば、李厳を抑える役を果たしてくれたはずだったが、彼も夷陵で死んだ。一族の馬謖はまだ若く、頼みにはならない。
 蜀は滅ぶ。成都での政務を放り出しても、我が君の元へはせ参じるべきだった。
 孔明は内心いたく後悔したが、時すでに遅かった。歴史的に集団指導体制が機能した例はほぼない。
(せめて趙雲を軍の最高位に据えておくように進言すべきだった)
 集団指導体制の場合、武官である趙雲と呉懿、文官である孔明と李厳が、それぞれ政敵となりえた。
 劉備は人材の運用に優れた人物で、若手の出世頭である魏延を漢中太守に抜擢し、また益州の豪族である呉懿の妹を后に迎え、高官を与えていた。そして古参の趙雲らは手元に置いて自らの手足として使う方針をとっていた。孔明自身も録尚書事であり、現代日本でいうところの官房長官にあたるが、実質的には劉備の秘書官長にすぎない。みな孔明の命令ではなく、劉備の命令に従っていたのだ。
 劉備が存命中であれば問題はない。劉備は官職の高低にかかわらず孔明の助言に従って行動し、実際に部隊を率いるのは趙雲らだ。だがこの体制は、劉備がいなくなれば一気に崩壊する危険性をはらんでいた。劉備と共に人事案を練っていた時は、このような事態になるとは想像もしていなかった。

「──皆の者、大儀である」
 寝室の寝台に腰掛け群臣たちに語りかけた蜀帝劉備の姿は、驚くほどやつれていた。最後に成都で会った時から一年程度しか経っていないはずだが、十年もの歳月が一度に襲ってきたかのように思える。それでも群臣達はみな、劉備の言葉の一字一句を逃さまいと、その声に全神経を傾けている。みな臨終を悟っているのだろう。
 この時になって初めて、孔明は劉備の死という差し迫った未来を、現実のものとして痛感することになった。それは氷の刃を首元につきつけられて崖の前に立たされるような、冷たく絶望的な感覚だった。
 そもそも蜀は劉備という稀代の英雄の元に成り立つ国家なのだ。曹操という万能の梟雄さえいなければ乱れた天下を治め、漢室の復興を成し遂げていただろう。改めて劉備は漢の高祖劉邦にも匹敵する人物であったと思う。
 蜀はそんな劉備と彼が率いる荊州の名士達を、益州の豪族たちが英主として迎え入れた、ある種の漢朝の亡命政権だった。劉備を失った蜀は、糸が抜けた織物のように霧散してしまうだろう。わずか十七歳の太子劉禅には、劉備の代わりは望むべくもない。そして故郷である荊州を失った孔明達荊州派には、益州派の豪族を抑える力はない。いずれ益州の豪族たちは先を争うように魏に帰順し、蜀は滅亡するのだろう。それは火を見るよりも明らかな現実だった。
 劉備と孔明達が人生をかけて、多くの将兵の命を犠牲にしてまで作り上げた蜀は、劉備の死とともに終焉を迎えるだろう。そのことを考えると、孔明は全身が震えるのを止めることができなかった。
「趙雲、おぬしとは長いな。よく今まで尽くしてくれた」
「もったいないお言葉です」
 そんな孔明の姿をしり目に、劉備は趙雲と過去の話を始めた。
「十六年前、義兄弟(おとうと)達と孔明の屋敷を訪ねたことを、覚えているか?」
「はい。私も関羽、張飛殿と共に陛下を護衛しながら、諸葛先生の屋敷を訪ねました」
「おおっ」「そんな事が」と群臣達が声をあげる。皇族であり、二十歳も年上でもある劉備が、書生にすぎなかった頃の孔明を訪問するなど、ありえない事だったからだ。
(いったい、どういうことだ?)
 何より、当の孔明自身が一番驚いていた。劉備と趙雲が語る話の内容は、まるで事実と異なっていたからだ。
「儂は三度孔明の家を訪ね、その教えを乞い、仕えるように懇願したのだ。そして孔明から蜀の地を平定し、曹操に対抗するという策を得た。今の我々があるのは、孔明のおかげだ」
「おっしゃるとおりです」
 劉備と合図を打つ趙雲。二人の視線は孔明に向けられ、群臣達の視線も、孔明に注がれる。
「孔明、君の才は曹丕の十倍す。君ならば、儂の遺志を継ぎ、漢室の再興をも成し遂げることができよう」
 劉備は孔明の才を大々的に認め、自らの遺志を継ぐ後継者に指名したのだ。  
「そしてもし我が子劉禅に器がなくば、孔明、君が取って代われ」
「おおっ!」「なんと!」
 さらにとんでもないことを劉備が告げる。それは君臣の関係をも超える一言だった。
 この瞬間、孔明は群臣の列から引きあげられ、劉備に準じる地位を得ることになった。一歩間違えれば太子劉禅の将来さえ危険にさらす行為。だが孔明には理解できた。それは劉備の彼に対する絶対の信頼の証だということを。
「どんなことがあっても、臣は劉禅様に忠義を尽くし、陛下の悲願を達成いたします」
 孔明は床に頭をつけんばかりに深く礼し、劉備に答える。こみあげてきた熱いもので、瞳がにじみ視界が揺らいでいた。その孔明の姿に、劉備は満足そうにうなずく。
「李厳、そなたはここ永安にあって、呉に備えてくれ。趙雲と呉懿は孔明に従い我が悲願である北伐を完遂せよ」
「はっ」
「承知いたしました、陛下」
「御意のままに」
 最後に劉備は最大の政敵になりうる同じ文官の李厳を中央から外し、武官の趙雲と呉懿には孔明に従うように命じた。
 劉備の指示は最後まで的確だった。孔明は主君の意図をようやく理解する。集団指導体制などではない、劉備は〝三顧の礼〟をでっちあげてまでも、孔明を自身の唯一の後継者に指名したのだ。懸念など杞憂に過ぎなかった。こと組織運営と人心掌握においては、劉備は孔明の師であったからだ。
 群臣達の視線の大半は、孔明に向けられたままだった。先ほどと違い、視線には期待の熱がこもっている。すでに体の震えは止まっていた。
「ふふ」
 そんな孔明の姿に、力弱くとも、嬉しそうに笑みをうかべる劉備。
「どうされました、陛下?」
 側の趙雲が笑みの理由を尋ねる。
「曹操、わしはお前に領土の大きさでは劣ったが、こと臣下においては、ついに勝った。一矢報いてやったぞ、と思ってな」
「ならば一勝一敗で、勝負はまだ引き分けということですな、陛下」
 一矢報いると引き分けとは、大きく意味は異なる。意図的な齟齬はこの忠臣がみせた、最後の奉公なのだろう。
「──引き分けか。悪くない、そう思えるとはな……」
 劉備は虚空を睨みながら、すでにこの世にない宿敵に対しそうつぶやいた。その瞳は穏やかなもので、天から与えられた使命をすべてやり遂げたような、穏やかなものだった。
 ──「後は頼んだ、孔明」──
 最後に孔明のほうを見た劉備の瞳から、そんな声が響いた気がした。
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