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天下三分の計
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「儒家が、兄者に何を説く!?」
劉備との会談の場に同席した虎髭の大男、張飛は開口一番にそう怒鳴りつけてきた。近くに雷が落ちたような怒声は、戦場で見たのと同じく恐ろしいものだった。さらに奥に控える長い髭を蓄えた大男、関羽もまた険しい視線でこちらを見つめていた。そして肝心の劉備は奥に腰掛け、暗闇のため姿はよく見えない。
(震えるな、我慢しろ)
孔明は内心で恐怖を噛み殺しながらも、口を開いた。
「説くのは儒家の教えではありません。天下のとり方です」
「若造が何をぬかす!」
張飛が獣のような瞳でにらみつけるが、関羽は鋭い視線のまま無言でこちらを見つめ、孔明の策を聞く意思を見せていた。
そして孔明の言葉に、暗闇の奥の劉備の瞳がわずかに光った気がした。
「すでに中原と華北は曹操が抑え、この国の半分以上は曹操の手にあります。また江南の孫権の勢力も侮れません。劉皇叔が天下を制し漢朝を立て直すならば、残る荊州と益州を抑え、彼らに対抗するしかありません。これを〝天下三分の計〟と称します」
「口で言うなら簡単だ若造、そんなの誰でも思いつくわ!」
「はい。実際、劉皇叔は徐州を失い、いまだに地盤と呼べる地域を確保できていません」
「兄者を愚弄するとは、たたっ斬るぞ!」
怒りに身を乗り出した張飛、その恐ろしさは巨大な虎のようだった。
「問題はなぜ、劉備陣営が地盤を築けなかったかです。それは儒者達の力を借りることができなかったからです。彼らは名士であり、豪族であり、官吏でもあります。官吏無き国は、いかに民衆の支持を得ても治まりません」
「兄貴に腐れ儒者に頭を下げろっていうのか!? 儒者がいかに国を腐らせたか、いかに民を苦しめたか? 無益な教義と迷信ばかり語る儒学者などクズだ!」
「今の儒者はクズではありません。〝糞〟です」
「く、クソだと!?」
「孔子の教えは素晴らしいものでした。しかし漢朝が儒学を国教として以来、儒者は腐りはててしまいました。今ではおっしゃる通り、無益な教義と迷信ばかり語る糞、漢朝を衰退させた一因です」
「お、お前だって儒学者だろう?」
「私は古今のあらゆる学問を修めました。儒学はその一つにすぎません。儒者に頼らず、あくまで儒者を利用するのです。私ならそれが可能です。あらゆる儒学者も味方につけ、必要とあらば論破して御覧にいれましょう」
予想外の展開に、張飛は驚いたのか口を閉じ、無言になってしまった。
「だが曹操の力は強大だ。どうやってそれをしのぎつつ、益州を抑えるのだ?」
代わって関羽が口を開く。張飛ほど大きくはないが、低く響く恐ろしい声だった。
「私の兄は孫権の側近です。私が使者にたって彼らと対等の同盟を結び、曹操を迎え撃ちます。荊州は大河が多く、孫権の水軍と連携すれば、食い止めることはできます」
「お前の兄貴が孫権の側近だと!? でまかせをいうな」
「いや張飛、それは本当だ」
再び怒声を発した張飛を、関羽がとりなす。さすが知勇兼備とされる関羽、やはり孔明のことも調べあげていたか。
「だが益州平定は容易ではないぞ? 劉章は十万の兵は動かせる。こちらは五千だ」
「益州はかつての漢の高祖が本拠地とした地。さらに漢中は漢の聖地。それに劉章は暗愚で知られています。彼の地の民と名士たちに、皇叔を高祖の再来だと認識させるのです。そうすれば、内部から切り崩すことは可能です」
孔明のこの回答に、関羽も喉を鳴らして唸る。その姿もまた巨獣の様だった。
「漢の聖地である漢中を奪還すれば、中原からも協力者がでるはずです。我らはみな、元は漢の臣なのですから。その時、彼らと協力して曹操に決戦を挑むのです」
「──よいな。その案に、俺は乗った」
よく通る声が響く。見ると奥から劉備が立ち上がって、孔明の顔を覗き込んでいたのだ。孔明より二十近く年上のはずの劉備は、童の様に瞳を輝かせながら孔明の姿を見つめていた。
「さすがは徐庶が推挙した人物だ。俺はお前の助言に従おう、よろしく頼む孔明」
そしてまるで長年の友人に対するかのように、孔明の肩に手をやり親しそうに微笑んだ。
「我が君……」
今思うと不思議だったが、たったそれだけのことで孔明は劉備に生涯の忠誠を誓ったのだ。おそらくこの方に仕えるのが、自分の天命だったのだろう。
それが今から十六年前の、孔明と劉備との出会いだった。
(今となって思えば、教えていただいていたのは、私のほうだったな)
仕官したころの孔明は学には自信があり、劉備を教え指導する立場であると思いあがっていた。だが実のところ、孔明は劉備から学ぶ事のほうが多かった。二十歳も年上の劉備は、まるで我が子を諭すかのように、忍耐強く、時に厳しく指導してくれた。特に人心掌握と組織運営の手腕については、孔明は一から指導してもらったに等しい。
新参の謀臣であり改革者でもある自分は、組織内では嫌われる立場であると、当初孔明はある種、開き直っていた。だが劉備はそんな孔明の甘えを許さなかった。謀臣でありながら信頼され、改革者でありながら人望がある、そんな稀有な人物に、劉備は孔明を育成するつもりのようだった。
劉備の教えを実践するにつれ、次第に孔明の他者に対する態度は変わり、それに応じるかのように他者の孔明に対する態度も変わっていった。謀臣であり、改革者でもある孔明は、本来なら最も危険な立場にあった。
君主の代替わりに伴い、次なる君主に粛清される謀臣は多く、むしろ生き残った方が少ないくらいだ。少なくとも、今の孔明にはそのような心配は不要だった。孔明はかつてと異なり、今は孤立していない。
劉備と孔明の関係、それは親子関係をも凌駕するほどの、得難く特別な君臣関係であったと今では思う。
劉備との会談の場に同席した虎髭の大男、張飛は開口一番にそう怒鳴りつけてきた。近くに雷が落ちたような怒声は、戦場で見たのと同じく恐ろしいものだった。さらに奥に控える長い髭を蓄えた大男、関羽もまた険しい視線でこちらを見つめていた。そして肝心の劉備は奥に腰掛け、暗闇のため姿はよく見えない。
(震えるな、我慢しろ)
孔明は内心で恐怖を噛み殺しながらも、口を開いた。
「説くのは儒家の教えではありません。天下のとり方です」
「若造が何をぬかす!」
張飛が獣のような瞳でにらみつけるが、関羽は鋭い視線のまま無言でこちらを見つめ、孔明の策を聞く意思を見せていた。
そして孔明の言葉に、暗闇の奥の劉備の瞳がわずかに光った気がした。
「すでに中原と華北は曹操が抑え、この国の半分以上は曹操の手にあります。また江南の孫権の勢力も侮れません。劉皇叔が天下を制し漢朝を立て直すならば、残る荊州と益州を抑え、彼らに対抗するしかありません。これを〝天下三分の計〟と称します」
「口で言うなら簡単だ若造、そんなの誰でも思いつくわ!」
「はい。実際、劉皇叔は徐州を失い、いまだに地盤と呼べる地域を確保できていません」
「兄者を愚弄するとは、たたっ斬るぞ!」
怒りに身を乗り出した張飛、その恐ろしさは巨大な虎のようだった。
「問題はなぜ、劉備陣営が地盤を築けなかったかです。それは儒者達の力を借りることができなかったからです。彼らは名士であり、豪族であり、官吏でもあります。官吏無き国は、いかに民衆の支持を得ても治まりません」
「兄貴に腐れ儒者に頭を下げろっていうのか!? 儒者がいかに国を腐らせたか、いかに民を苦しめたか? 無益な教義と迷信ばかり語る儒学者などクズだ!」
「今の儒者はクズではありません。〝糞〟です」
「く、クソだと!?」
「孔子の教えは素晴らしいものでした。しかし漢朝が儒学を国教として以来、儒者は腐りはててしまいました。今ではおっしゃる通り、無益な教義と迷信ばかり語る糞、漢朝を衰退させた一因です」
「お、お前だって儒学者だろう?」
「私は古今のあらゆる学問を修めました。儒学はその一つにすぎません。儒者に頼らず、あくまで儒者を利用するのです。私ならそれが可能です。あらゆる儒学者も味方につけ、必要とあらば論破して御覧にいれましょう」
予想外の展開に、張飛は驚いたのか口を閉じ、無言になってしまった。
「だが曹操の力は強大だ。どうやってそれをしのぎつつ、益州を抑えるのだ?」
代わって関羽が口を開く。張飛ほど大きくはないが、低く響く恐ろしい声だった。
「私の兄は孫権の側近です。私が使者にたって彼らと対等の同盟を結び、曹操を迎え撃ちます。荊州は大河が多く、孫権の水軍と連携すれば、食い止めることはできます」
「お前の兄貴が孫権の側近だと!? でまかせをいうな」
「いや張飛、それは本当だ」
再び怒声を発した張飛を、関羽がとりなす。さすが知勇兼備とされる関羽、やはり孔明のことも調べあげていたか。
「だが益州平定は容易ではないぞ? 劉章は十万の兵は動かせる。こちらは五千だ」
「益州はかつての漢の高祖が本拠地とした地。さらに漢中は漢の聖地。それに劉章は暗愚で知られています。彼の地の民と名士たちに、皇叔を高祖の再来だと認識させるのです。そうすれば、内部から切り崩すことは可能です」
孔明のこの回答に、関羽も喉を鳴らして唸る。その姿もまた巨獣の様だった。
「漢の聖地である漢中を奪還すれば、中原からも協力者がでるはずです。我らはみな、元は漢の臣なのですから。その時、彼らと協力して曹操に決戦を挑むのです」
「──よいな。その案に、俺は乗った」
よく通る声が響く。見ると奥から劉備が立ち上がって、孔明の顔を覗き込んでいたのだ。孔明より二十近く年上のはずの劉備は、童の様に瞳を輝かせながら孔明の姿を見つめていた。
「さすがは徐庶が推挙した人物だ。俺はお前の助言に従おう、よろしく頼む孔明」
そしてまるで長年の友人に対するかのように、孔明の肩に手をやり親しそうに微笑んだ。
「我が君……」
今思うと不思議だったが、たったそれだけのことで孔明は劉備に生涯の忠誠を誓ったのだ。おそらくこの方に仕えるのが、自分の天命だったのだろう。
それが今から十六年前の、孔明と劉備との出会いだった。
(今となって思えば、教えていただいていたのは、私のほうだったな)
仕官したころの孔明は学には自信があり、劉備を教え指導する立場であると思いあがっていた。だが実のところ、孔明は劉備から学ぶ事のほうが多かった。二十歳も年上の劉備は、まるで我が子を諭すかのように、忍耐強く、時に厳しく指導してくれた。特に人心掌握と組織運営の手腕については、孔明は一から指導してもらったに等しい。
新参の謀臣であり改革者でもある自分は、組織内では嫌われる立場であると、当初孔明はある種、開き直っていた。だが劉備はそんな孔明の甘えを許さなかった。謀臣でありながら信頼され、改革者でありながら人望がある、そんな稀有な人物に、劉備は孔明を育成するつもりのようだった。
劉備の教えを実践するにつれ、次第に孔明の他者に対する態度は変わり、それに応じるかのように他者の孔明に対する態度も変わっていった。謀臣であり、改革者でもある孔明は、本来なら最も危険な立場にあった。
君主の代替わりに伴い、次なる君主に粛清される謀臣は多く、むしろ生き残った方が少ないくらいだ。少なくとも、今の孔明にはそのような心配は不要だった。孔明はかつてと異なり、今は孤立していない。
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