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第九章 大阪城の友
大阪城の友
しおりを挟む天正十九年(一九五一年)二月十四日。
多田羅と妙は大阪城を発ち、岐阜本巣の根尾村に帰っていった。
二人を見送る九能は、なぜか一抹の寂しさを覚えていた。
城を発つ前夜、多田羅は九能の元を訪れ、こう言った。
「九能殿と交わした古今集の話は実に面白いものでございました。日本(ひのもと)古来からの言葉というのはいいものですな」
「いや、私なぞはほんの手習い程度ゆえ」
頭を掻く九能に多田羅は、白い歯を見せて笑う。
「貴殿の作られた里歌、あれも妙が金金、朝日と喜びましてな。『朝日さす、夕日輝く、鍬崎に、七つ結び、七結び、黄金いっぱい、光り輝く』もう諳んじてしまいましたわ。よき歌よき歌」
言いながら、多田羅は、がっしと九能の手を握った。
「根尾に帰ったのちも妙とともに和歌の手習いをしようと思いましてな。もしよければ、九能殿、書状で某に和歌の指南を願えませぬか?」
なんの邪気もなく、きらきらと輝く瞳に気おされ、九能は頷いた。
「むろん、構いませぬが……」
こうして、多田羅との書状の遣り取りが始まった。
寛大で誰からも好かれる人格者の九能であったが、多田羅とのことはどうしてこれほど親身になるのか、自分でもわからなかった。
あの里歌を多田羅に教えたことも、大したことではないと思っていた。歌だけでは何の意味もなさぬ。早百合のことも、佐々の隠し金のことも、自分の胸の中だけにあるのだからと。
しかし、多田羅はあの里歌を覚えていた。そのことに九能は内心、ひどく感動していた。
この里歌はさらさら越えの際に、成政から「百万両の隠し処を考えよ。そして、その在処を示す歌を作れ」と命じられ、差し出したものだ。
もちろん、その際、早百合姫のために自分が作ったものだとは言わなかった。
早百合を思い出すと、ヒュオオオオオォォォと地鳴りする冷たい吹雪が、九能の体の中を駆け巡る。
さらさら越えは豪雪に弄(なぶ)られ、死を思わせる絶世界だ。重量のある金を詰まった壺と鍬を背負い歩き、何度も何度も死を身近に感じた。その度に何度も何度も、早百合姫の姿を想った。
生きて再び富山城に戻り、早百合殿の笑顔に触れ、声を聞けたらばそれでよい――。
そればかりを考えていた。
生きて再び富山城には戻れた。早百合にも会えた。しかし、早百合は姦通を疑われ、成政に惨殺された。まるで自分の手で早百合と腹の子を殺したような慙愧の念で、真っ赤に染まる川が、今も九能の網膜に焼きついている。
忘れたいわ……。
無意識に九能は懐に手をつっこみ、短刀の柄を指で撫でた。すると、すっと心が穏やかになっていくのを九能は感じた。
多田羅は去ったが、代わりに班目がたびたび、大阪城にやってくるようになった。主君の秀次が大阪城にやってくるため、それに随行するのである。
「この岐阜の山猿に、和歌や茶の湯のことなど、いろいろ仕込んでやってくれ」というような意味のことが書かれた秀次の書付を持って、班目は九能の居室にやってきた。
「九能殿。かたじけないが、御指南いただけぬだろうか」
そう言って頭を下げる班目は、立ち居振る舞いに隙のない、秀麗な男である。
元主の多田羅とともに班目も教えることになろうとは――。
何やらおかしみさえ感じる。
「某でよければ」
九能はおおらかに頷いた。
そうして、二月(ふたつき)ほど過ぎたある日、大阪城の九能のところに、茶を習いに来た班目が妙齢の女を連れてきた。
「九能殿、よければこの女、側女(そばめ)にいかがでしょう。出自も悪くはございませぬ。正室にされても構いませんが」
女の売り込み口上を述べようとする班目を制して
「お心遣い、ありがたく頂戴いたす。しかし、某は屋敷を持たぬ城住まいゆえ、奥は持たぬと決めておる」
「側女でも下女でも構いませぬが」
班目のすぐ隣で、女が目を伏せている。
色が浅黒いが、顔立ちには品がある。ぱんと腰が張った体つきも、見るものが見ればそそられるだろう。
「何が気に入りませぬか?」
班目に尋ねられ、九能は黙った。
おそらくこの女は、女狂いと名高い豊臣秀次のお手付き侍女なのだろう。気に入るも気に入らぬもない。
――この女には価値が足らぬ。周りの男たち、誰もがひれ伏し、その声を聞きたいと願う、そんな圧倒的な美が足りぬ。
どう断るべきか困り果てた九能は、腕を組み、懐の短刀に触れると口を開いた。
「そなた、どうかこの歌を朗じてみてはくれぬか。『朝日さす、夕日輝く、鍬崎に、七つ結び、七結び、黄金いっぱい、光り輝く』」
女は戸惑うように班目を見たが、班目に促され、口を開いた。
「朝日さす、夕日輝く、鍬崎に、七つ結び、七結び、黄金いっぱい、光り輝く」
違う!
九能は、心の中で激しく頭(かぶり)を振った。
彼は、三年前、天正十六年(一九八八年)十八歳の淀が秀吉の側室となったその日に、心の中で決めたのだ。
佐々の隠し金百万両を捧げてもいい、その価値があるのは、金属を打ち鳴らしたような声を持つ、淀殿、この御方ただ一人だと――。
早百合姫の無残な死の後、九能が恋慕の情を抱いたのは天下人の寵姫、淀君だった。
「申し訳ござらぬ。どうも声が好みに合いませぬ」
九能は礼を尽くして、班目と女に断りを入れた。
それから二週間ほどたって、城下町で再び例の女を見かけた。身なりが整い、健やかな色気に満ちている。家臣屋敷に住む誰かの室になったと察せられた。
翌日、班目と顔を合わせる機会があった。
「あの女(おなご)は、その後、どうされましたか?」
何気なく尋ねてみると
「我が正室としました」
とあっさり返ってきた。
九能があっけにとられていると、
「男の立身出世には、奥を取り仕切る女がいた方がよいですからな」
と何でもないことのように平然としている。
なるほど。この合理主義が班目という男の本質かと、ようやく九能は腑に落ちた。
班目は他にも利点が多い。物の覚えが良く、場の空気を読むことに長け、人の心のなだめように熟知している。粗暴で小心な秀次には、ぴったりの側近になるだろうと、茶や和歌を教えながら日々、実感している。
また一方で、そんな班目の才気を見抜いて、豊臣に仕官させてくれと秀吉に嘆願した多田羅の人目利きにも九能は驚かされていた。
そういう意味でいえば、班目を秀次の側近に差配した秀吉もまた、大変な人目利きということになる。
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