交の鳥(こうのとり)

夏目真生夜

文字の大きさ
20 / 36
第十九章 菊の献上

菊の献上

しおりを挟む
秀吉から与えられた淀城の居室で、淀はその献上品と書状を見て、くくっと笑った。献上品は一連の数珠であった。
黄と茶と白が溶け込みまじりあった石の一つ一つに、幾つも幾つもの菊の花が咲いている。菊花石を磨いて珠にして拵えたものである。
その書状には、多田羅の妻女への苦しいほどの愛情が綴られていた。

「我が宝、我が珠の如き、我が奥の妙のこと、淀の方様から太閤様にお頼みして下さり、我が元に戻していただきましたこと、幸甚に存じまする。
この御恩に報いるは、妙との間に男子をなし、その男子でもって、いずれ淀の方様が御生みになられる豊臣家の男子を終生、お支えすることかと存じます。
淀の方様には、その美しさと幸を恒久のものとしていただけますよう、この品を献上奉り候。
この菊花石は長寿を寿(ことほ)ぐものとして、古来より天皇家、宮家で重宝されてお
りまする。某が根尾の山谷を駆け回り、集め、拵えたものでございますれば、淀の方様の御手元で恒久の花とならんことを」

「多田羅、面白い」
声に出して、女主がそう言うのを、側に仕えていた侍女のお夏は目を上げて驚いた。
いつも陰鬱な心の中に沈んでいる淀の方にしては珍しい、何か起こるのではないのかと不安になるような笑い方に、お夏は思えた。
側女に召し上げた妙を、秀吉が多田羅の元に戻した件は、話こそ聞き知っていたが、淀は何もしていなかった。
勝手に勘違いをして、このような書状を送ってきたこともおかしかったが、自分の子作り宣言をのうのうとしてのける多田羅の素直さが、とにかく面白かったのである。
さらにはその子を、あなた様が産む赤ん坊に仕えさせましょうというのも、世辞などではなく、多田羅の本気というものなのだろう。
しかも書状を見ていると、何やら自分が本当に男児を孕むような気がしてくるのも、淀には不思議な高揚だった。
 子作りを祈願、激励する書状や献上品ならば秀吉をはじめ、諸大名からも腐るほど贈られてきている。しかし、手作り品を献上品として寄越してきた者など、初めてである。
この数珠には鶴松の死を悼む、淀の心を慰めたいという思いがこめられているのだと知れた。
「今日(こんにち)より数珠はこれを使う」
そう言って数珠を持った女主の美しさに、お夏は改めて打たれた。
 数珠は何か神がかった力を帯びて、淀の方を包んでいるようであった。女性にしてはひどく背が高い上、目が大きく、鼻が高く、顎が細いため、表情によっては険のたつ淀の顔を、菊花石の数珠は穏やかで笑みを滲ませたものに変え、造作の美を引き立てた。
「お方様は、本当にお美しゅうございます」
そう呟いたお夏に、淀は言った。
「一度も見なかったくせにの」
 それは多田羅の書状の中にあった「お美しい」という世辞に対する、淀の独り言であった。


鶴松の死から三カ月が過ぎた、天正十九年(一五九一年)の十一月――
豊臣秀次は、正式に秀吉の養嗣子となった。
これにともない、秀次の官位は、十一月の末には権大納言、十二月に入ると内大臣を拝命と、瞬く間に関白職のすぐ下にまで昇りつめた。それは弟、秀長の死の時とよく似た性急な人事だった。

そんな風に時代が慌ただしく変遷しようとする十二月の半ば、淀は閨で秀吉に告げた。
「また、やや子ができたようでございまする」
「まことか!」
秀吉は狂喜乱舞した。
「すぐにお匙を! お匙を呼べ!」
 呼ばれてやってきたお匙が、淀の脈を取り、舌を出させて見ると、重々しい口調で秀吉に告げた。
「おめでとうござりまする。淀の方様、ご懐妊でございます」
「男か、女か!」と逸る秀吉に、お匙は言う。
「わかりませぬ。それよりもまだお子が淀の方様のお腹の中で安定しておりませぬゆえ、くれぐれも淀の方様のお体をお大事になさることです」
「おお、もちろんじゃ。淀、でかした! よう体をいとうのじゃぞ」

ところが、それから数日後、秀吉が伏見城の淀の閨を訪れた早朝。
淀は「なんだかお腹が痛いようでございまする」と秀吉に訴えた。
床がのべられ、すぐにお匙が呼ばれた。淀は脂汗を流し、腹の痛みをお匙と秀吉に訴えた。
秀吉はこの日、政治(しごと)がある。淀の体を気にかけつつも支度をして伏見城を出た。
入れ替わりに大野治長が伏見城へ登城した。
「淀様の一大事じゃ!」
と大蔵卿局が呼びつけたのである。大蔵卿局とその子からなる大野一族の権勢は、淀によって成り立っている。淀の一大事は、一族の一大事にも等しい。治長はすぐさまやってきた。
一方の淀は「痛い、痛い、痛い……」と腹を抱いて床を転がりまわり、額に脂汗を浮かべる淀の苦しみようは、周りが見ていられぬほどだった。
もしや淀の方様はこのまま、腹の子ともども身罷ってしまうのではと、そばに控えていた治長が怖くなるほどであった。
「十一郎……」
幼名で呼ばれ、はっと、治長は淀のそばに駆け寄った。
しとどの汗に濡れ、眉根を寄せ、治長の目に艶めかしく淀が、荒い息の中で言った。
「菊花石の数珠を持て。わらわは数珠を手に、子の無事を祈る……」
 これほどの苦しみの中でも、腹の子を思われるのかと、治長は胸を打たれた。
「すぐにお持ちいたしまする!」
 
二の丸にある淀の居室に侍女のお夏とともに向かう治長は、「どうか、どうか、茶々様のお命が助かるように」と、激しい動悸の中、祈るように願っている。
 やがて、奥につき、お夏が淀の居室に入ってゆく。治長は奥の前の廊下で待っている。
「ございました! 多田羅様の菊の数珠です」
 戻ってきたお夏の無邪気な声と手の中の数珠に、治長の胸に、心臓が止まるような痛みが走った。
まさか、淀様の腹の子の種、あの多田羅ではあるまいな……。

 治長が、淀のいる大蔵卿局の居室に戻ると、そこには秀吉がいた。大阪城に行ったはずだが、淀様の危篤の報に戻ってきたらしい。秀吉の着ている金の小袖がそこだけまぶしいほどに輝いていた。
「淀、淀、しっかりせよ。死んではならぬ! お前だけが儂の子を生めるただ一人の女なのじゃ。天下人秀吉の命である! 死んではならぬ」
 秀吉は、淀の布団に身を入れ、痛みでのたうつ、彼女の体を抱いて泣いていた。
「関白殿下、淀様のこと、どうか私どもにお任せください」
いくらお匙や大蔵卿局が、そう言っても秀吉は耳を貸さなかった。

その夕刻。
お匙が沈痛な顔で、秀吉に告げた。
「淀様はご無事。残念ながらお腹のお子は……」 
言いながらお匙は、水盥を秀吉に示した。
中には血に染まった親指ほどの大きさのものが沈んでいる。秀吉が盥をのぞくと、小さな黒い目と目が合った。
お匙が言葉を継いだ。
「流れたお子でございまする」
「おお……。儂の子が……」
 秀吉は口を覆って、溢れる嗚咽をこらえた。
そんな秀吉を遠くから見る治長は、(とにかく、淀様のお命が助かってよかった……)とほっと胸を撫でおろした。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...