交の鳥(こうのとり)

夏目真生夜

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第二十六章 疑惑の子

疑惑の子

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拾いの誕生からしばらくたった文禄二年(一五九三年)十月中旬。

大坂城内にいた大勢の女房や仏僧が秀吉の命令で処刑され、追放された。
その罪状は「「妄ニ男女ト之義二ヨリ御成敗」。
ようは、淀の側近侍女らが、秀吉の許可を得ず、勝手に僧に金銀を与え、「子授けの祈祷」を行ったという理由であった。
 
淀は、この話を聞いて大蔵卿局を前にして、笑った。
「そんなもの、鶴松が生まれる前からやっていたことではないか。今更何を言うておるのか。のう、大蔵卿局、そなたが僧に費やした金銀は相当なものであろう」
「左様でございます」
「一番、大枚をはたいたそなたがお咎めなし。祈祷が効いて子を生んだ私もお咎めなし。面白い」
 大蔵卿局は白髪を撫でつけながら、声を潜めた。
「命拾いしておいてなんでございますが、これは何者かの陰謀に違いございません。淀の方様が祈祷の僧侶と密通して子を成したと、太閤様はそう、お疑いなのです。
なんと愚かなお考え。計算してみればすぐわかることです。淀の方様がお拾い様を宿したのは、太閤様に連れられて名護屋城へ行かれた三月から五月半ば」 
ひのふの……と大蔵卿局は指を折って、八まで数える。
「肥前の名護屋城でございますよ。どのお家もどの大将もみな、明国に渡り、太閤様以外にお父君になられるような方はいないというのに、何を思い違いされておられるのやら」
 大仰に首を振る大蔵卿局を無視して、淀は腕の中の赤子を愛おし気に見つめた。
「拾いは体も大きい。月足らずなのに元気に生まれすぎた」
大蔵卿局は淀の乳母らしい感慨を込めて、嬉しそうに答える。
「お健やかなのは何よりなこと。それに体が大きいのは淀の方様の血でございます」
 淀は当時の女性としては相当な長身である。
「それよりも」と大蔵卿局は、眦(まなじり)をつり上げた。これが一大事というような気迫のこもった声音だ。
「治長がこのような書状を見つけてまいりました。これは、名護屋城にいた太閤様が北政所様に宛てて、お方様の懐妊を知らせるものでございます」
書状の写しを袂から出そうとする大蔵卿局を、淀はよい、と止めた。
「お聞き下さい!」
大蔵卿局は金切り声を上げ、この書状にはこう書かれてございますと続けた。

「にのまる殿は かりのこにてよく候はんや」

 それが書状の秀吉の言葉であった。
「生まれる子は二の丸殿(淀)が、一人で産んだ子ということにしよう」。
それは、赤ん坊は儂の子種ではない、と秀吉がはっきりと北政所(おね)に告げた文言であった。
 大蔵卿局が耐えかねたように声を上げる。

「いくら北政所様が御大事といえども、あまりにひどいお言葉。さらには、太閤様は、お拾いには乳母をつけず、お方様の乳で育てよ、とまで仰って。あまりにひどいなさりようではございませんか」
 当時、身分のある家に生まれた嫡男には乳母がつくのが慣習である。乳母をつけないのは、跡を継がせない庶子などの場合に限られる。
淀は言った。
「太閤は、拾いは自分の種ではないと天下に向けて言いたいのであろう」
構わぬ、こちらもそれを望んでおる、と淀は肚の中で続ける。
そのお陰で、ふくふくと温かく柔らかな拾いをこの手に抱いていられるのだ。
「しかしこれでは、お拾い様が太閤殿下のお跡を継がせていただけないかもしれないのですよ? お拾い様はゆくゆく関白になれましょうか?」
 不安げに大蔵卿局の目が見開かれる。
「さあな」
淀は、それは本当にわからないと思う。
 大蔵卿局は身を乗り出して続ける。
「それにまだ奇妙なことがあるのです。治長にひそかに書庫を調べさせたところ、書状や日記では、太閤様とともに名護屋城に同行した側室の名は、淀の方様ではなく、京極殿(龍子)になっていたそうなのです」
「ほう」
「いったい、太閤様がどんなわけで、もうとうにお褥すべりして、子の産めぬ京極殿をわざわざ名護屋城に連れて行ったことにしたのか、私にはわけがわかりませぬ。京極殿とお方様をお間違えになるなんて、果たして太閤様は頭がおかしくなってしまわれたのか」
 大蔵卿局の大げさな嘆きに、ふあああっと赤ん坊が声を上げる。
淀は腕の中の赤ん坊の顔を見つめる。
 生まれて間がないのに端正で整った顔をしている。そして、秀吉にはまるで似ていない。
 ふふふっと淀は笑う。
「じき、わかるであろう」
淀は大蔵卿局に向かってそう言い、拾いを抱く手を揺すった。打掛の袂の中で、ちりんと鈴が鳴った。

 
 大阪城の女房と僧侶の追放・粛清が落ち着いた十月の末、聚楽第の関白秀次の元に弟の秀保が訪れた。
秀次の側室、於佐子(おさこ)の方が男児を生んだその祝いである。
北の丸の蝉の間で、秀保は男児誕生を寿ぐ和歌と懐剣を贈り物として、兄の秀次に捧げた。部屋には布団に寝かされ眠る赤ん坊がおり、そばに乳母が控えている。 
「兄上、ご三男、十丸君(とまるぎみ)のお誕生、まことにおめでとうござりまする。
お拾い様のご誕生に続き、めでたきよし。これで豊臣の天下も安泰でございますね。
兄上にはすでに仙千代丸君に、百丸君と天下を支えるお子がおり、私からすれば、何とお羨ましいこと」
そう言った秀保に、秀次は渋面を作っている。(どうやら、近頃、また兄上は太閤殿下に絞られたようだ)と秀保は察した。
「めでたくなどないわ。仙千代丸、百丸、この十丸は、すぐに出家じゃ出家じゃ。あの太閤猿にしてみれば、拾いに関白を継がせるには、拾いより先に生まれている儂の男子らが邪魔であろう? わが手元に置いておくわけにはいかぬ。高野山にでも預けるわ」
「左様でございますか」
「ふん。三人男児を出家させれば、太閤は俺への信を深めるだろう。出家など形だけ、あの老い猿が死ぬまでのことだ、太閤が死んでから還俗でもさせればよいのだ」
「兄上は、よくお考えでございますな」
 秀安は心から感心したような声が出た。
「お前は子がないお陰で、太閤の機嫌を伺う必要もない、羨ましいの」
 これには温厚な秀保もさすがに顔をしかめた。
「家を継ぐ者がおらぬでは困りまする。秀長叔父から、私が引き受けた所領はまことに大きなものでございますゆえ。とはいえ妻のお菊はまだ六歳、子を生むどころか……」
言葉を濁した秀保に、秀次は励ますように言った。
「なに、女など幾つでも、こちらにその気があればなんとかなるものよ。秀保、子どもとするのはなかなかよいものだぞ」
話題が下卑たものになる前に秀保は首を振った。
「私は遠慮しておきまする」
「そうか。そうだな、子が生めぬ子どもとしても意味がないか。まあ、側室と励め」
「はあ」
答える秀保の声に精彩がない。
「なんだ、まさか、お前も死んだ叔父上と同じで側室はいないのか?」
「おりませぬ」 
死んだ義父、秀長は正室、藤の方(ふじのかた)への愛情が強く、いくら兄の秀吉が勧めても側室を持とうとしなかった。
秀保は、その秀長の娘、お菊を四歳の時に正室にしており、年齢からいえば側室を持ってもいいはずであった。
とはいえ、生来から秀保は男女のことにあまり興味がない。
この線が細く頭の鈍い少年は、自分が日々、豊臣政権の一翼を背負う重圧の中で、生きおおせるだけでやっとであった。
 秀保は話題を変えようと、乳母が抱いている赤ん坊のそばに行き、その顔を見た。頬が豊かに膨れ、ぷくりとした瞼が健康そうな、しっかりとした顔立ちの男児である。
「兄上によく似ておられますな」
「そうか」
その時、秀次の小姓がすっと近寄ってきて、秀保の贈った懐剣を赤ん坊の布団のそばに置いた。贈り物をありがたく受け取り、赤ん坊の守り刀として使うという秀次の意志表示である。
その懐剣に、翡翠色をした蛇の根付があしらわれているのを見て、秀保は目をとめた。
蛇の体の中に小さな菊の花が三つ咲いている。
「面白い根付でございますね」
「ふむ。岐阜の豪族からの献上品だ。その者のことはよう知らぬのだが、細工がよく出来ており、気に入っておる」
 刀剣や和歌だけはなく、茶道具や書画にも凝る秀勝は、こういう意匠をこらしたものに目がない。秀次が新たに作ったこの聚楽第の北の丸も、豪奢な調度品や茶の湯道具と書画で溢れている。
「ところで赤ん坊といえば、俺は六歳になる娘のつやを、拾いの許嫁にするぞ」
「まことでございますか? 生まれたばかりのお拾い君と六歳のつや姫をですか」
「すでに太閤には話を通してある。じき、婚儀の儀もこの聚楽第で行われるわ。太閤は諸大名を呼んで盛大にやると仰せだ」
 秀保はつや姫と同じ六歳になる妻、お菊の顔を思い出してちょっと笑った。
「兄上は本当に知恵者でございますな。しかし、これで太閤様も豊臣の行く末は安泰とご安心されましょう」 
 秀保の世辞に、秀次は奇妙な叱咤で返した。
「そうよ。だからお前も早く子を作れ。これから先、お前が秀勝のように早死にしたらば、俺も困るわ」
しかし秀保は、この二年後の文禄四年(一五九五年)五月二十四日、十七歳で病死する。
その時に八歳の妻、お菊との間に子はなかった。













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