交の鳥(こうのとり)

夏目真生夜

文字の大きさ
35 / 36
第三十四章 大阪城落城

大阪城落城

しおりを挟む
慶長二十年(一六一五年)四月の終わり
多田羅は、その年の大阪城の桜のほころびから散り際までをつぶさに見た。
今、多田羅は大阪城のお堀を埋める徳川方の人足に扮して、汗をかき、作業していた。
二十年、ひたすらこの時を待ち続けていた。
豊臣から天下を奪えないのなら、大阪城落城の時を狙って、妙を奪取する、それしか方法がなかった。
もろ肌脱ぎで土を掘に投げ込む、人足としてのその仕事の最中、多田羅は南の丸の窓から、下を見下ろす人の気配を感じた。
妙か? 
動揺を抑えて、多田羅はゆっくりと南の丸を見上げた。
そこには、初めて見る淀の白い顔があった。
一度も顔を見たことがなかったのに、どうしてその女が淀だとわかったのか、多田羅は自分でもわからなかった。
淀は表情もなく、多田羅の体をじっと見つめていた。その目の中に死の諦観が映っている。
「この人は、どうなるのだろう」
まるで死体を埋めるように、土を掘に絶え間なく投げ込みながら、多田羅はそんなことを思った。


それから数日が過ぎた五月五日の夜、明で蓄えた金銀を賄賂にして、ついに多田羅は大阪城内に忍び入った、
金を握らせた案内役の少年に通されたのは、治長の部屋であった。
妙がいる奥の間にすぐに通されるとは思っていなかったが、治長とはどうも因縁があると、奇妙な感慨が身を包んだ。
 逼迫した事態を象徴するかのように、治長は甲冑を身に着けていた。
 治長も老けた。
歳は四十六になっている。さまざまな苦労があったらしい。端正な顔には皺が深く刻まれ、多田羅よりもずっと老けて見えた。
よく見ると横にたたずむ案内役の少年は、治長に似ていた。多田羅が親子かと問うと、「大野治長が嫡男、治徳(はるのり)と申します」とはきとした声が返ってきた。
治長は、治徳に「儂がよいと言うまで、誰も取り次がぬように」と言い含め、人払いさせた。
治徳が頷いて部屋を去ると、治長は多田羅に向き直った。
「大変な折に、お時間をいただき、感謝至極でございます」
多田羅の言葉に、治長は、「なに、構わぬ」と目を細めた。
「さきほど、秀頼公の正室、千姫を使者に、淀の方様と秀頼公の助命嘆願の書状を書いたところだ。某と子の治徳、治安(はるやす)の切腹、それに母の大蔵卿局の命を引き換えに差し出すつもりだが、まだ足りぬと思うか? 多田羅殿」
「わかりませぬ」
「弟の治房や治胤にも、ともに切腹しようと頼んだのだが『生きたい、最後まで戦う』と突っぱねられてな。儂はどうも交渉事があまり得意でないようだ」
 そう言いながらも、すでに死を覚悟しているらしく、自嘲の響きはなかった。
 さて、と治長は呟き「妙殿に会いに来られたのですな」と続けた。
 救いに来た、と言おうとしたが、淀と秀頼のために自分の母子ともども人身御供になって死のうとする治長にそう言うのは憚れ、「頼む、妙に会わせてほしい」と手を合わせた。
「会わせてもよいが、条件がある」
治長は笑みを消して、真摯な目で多田羅を見つめた。
「条件とは、金銀でござるか?」
 落ちる城に金銀など不要のもの、と治長は首を振った。
「もし儂の助命嘆願が聞き届けられなかった時には、どうか淀の方様のお命をなんとか助けてほしい。頼む。これが条件だ」
 治長は頭を下げた。
「何を言っている? 私はここに妙を救いに来たのだ」
多田羅は動揺して、背に汗をかいていた。しかし、治長は言った。
「答えは要らぬ。儂の独り言をただ聞いてくれればよい」
 治長は、何か大切なものを思い返すように、目を閉じた。
「儂は幼少の幼い頃より、淀の方を、あの方をずっとお慕い申し上げていた。体は知らぬ。触れたこともない。だが、死んだ鶴松様が、儂の種かもしれぬという希望が常にあった。
ただそれだけで、儂は今日まで生きてこられたのだ。儂は一生をかけたのに、あの方には何もして差し上げられなかった。恋い慕うあまり、ともにこの豊臣の籠に捕らわれていただけだ。あの方を連れて逃げることはできなかった。あの方の闇も苦しみも、何も癒して差し上げられることができなかった。なぜなら、あの方は儂を、ひとひらの羽ほども見てはいなかったのだからな!」
 これ以上、治長の話を聞いてはならない。そう多田羅は思った。
「治長様。もう、おやめ下さい。私には何もできませぬ」
「できる!」
治長は、身を乗り出し多田羅の手を「逃がさぬ」というように強く握った。ガチャリと、甲冑が鳴る。
「お前は、あの方の胸に舞い降りた鶴なのだ。あの方は、お前をずっとずっと心の中に飼っておられた。あの方が片時も離さぬ菊花石の数珠、一片の鶴の羽、蛇の根付、手製の玩具、すべてお前が淀の方様に差し上げたものだ。淀の方様は、いつもいつもお前とともにいた。
儂は、あれに自分がなれたらと、何度、願ったことか! わかるか? お前にはきっとわからぬだろう」
「しかし…」
私には、妙が……、そう続けようとした多田羅の言葉を、治長は押しとどめた。
「儂にはわかるのだ。あの方のお気持ちが。愛しい人のことは、悲しいくらいにすべてわかるのだ」
 治長は、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、まっすぐ多田羅を見た。
「多田羅よ。今、儂の話したこと、昔、九能善治殿から頼まれたことだ」
「九能殿が?」
「もし、淀様の身に何かあった時には、多田羅に報せよ。多田羅に頼めと、九能殿から託を受けている」
 九能の死。そして、九能が切腹に使った短刀、淀の打掛を仕込んだ赤い柄拵えが、多田羅の頭に鮮やかに蘇る。
百万両の在処を示す歌と地図を俺に託した、九能の真意はこれだったのか!
 治長は言った。
「妙殿に会われよ。会えばきっと、儂の言葉の意味がわかる。蝉の間に行かれよ。そこで妙殿が待っておる」


 
多田羅が蝉の間を訪れると、女が一人いた。
 なぜかその丸い背中に、淀の方か、と多田羅は一瞬思い、「礼様」と言う女の声に、確かに妙だと夢中で抱きしめた。
 振り向いた、その目の二重瞼の切込みが深くなっていた。
妙は三十四歳になっていた。
抱きしめる着物の下に確かな充実がある。成長途上だった十五の体とは、まるで違っていた。
帯を解くと、乳房がこぼれるような存在感で、多田羅を貫いた。
白い肌は、しっとりと脂をのせ、柔く多田羅の手の中で溶けた。体を開かせ、弄ると苦もなく指が沈み、はっと声が弾けた。
妙は変わった。
体を合わせると、それは確信に変わった。
妙が声を上げている。
自然にまとわりつく腰の動きが、多田羅を翻弄した。その手練手管。
何より、温かく包み込む妙の内部のひそやかな筋肉の具合、それはひどく滑らかであった。
日常的に男に馴れている体なのだと、多田羅は思い知らされた。
 
ひと時、いや無限とも思われる快楽の苦痛の中で、多田羅は泣いた。
「中に出してもいいのか」
悲しみの絶頂で多田羅は問うた。
(今、お前は誰のものなのだ!)嗚咽が今にも絶叫に化けそうだった。
「構いませぬ。どうぞご存分に」
そう言って、多田羅の背に手を回している妙が、目を閉じた。
 すべてが済んだ後、多田羅は言った。
「共に逃げよう」
 それが妙の心には、何一つ響かないのを承知で言うよりほかなかった。
身づくろいをしながら、妙は頭を振った。
「豊臣の血とともに、ここで命を終えとうございます」
「俺を一人にするのか? もう俺のことは嫌いになったのか?」
 妙は少し困ったような顔で答えた。
「愛しているからわかるのです。愛されているからわかるのです。礼様のそのお心の奥深くにどなたがいらっしゃるのかが」
「何を言っているのだ、お前は」
妙は、黙って髪を直していた。その手に銀の簪がある。ああ、それは昔、淀の方から賜ったものだと多田羅は、簪を挿しなおす妙の手を見つめた。
右親指の横に赤黒い古傷がある。
そこにいるのは確かに妙だった。
けれど……。
その時、廊下を歩く、若い男の声がした。
「妙、妙、どこにいる?」
 それは金属の音色のような明るい素直な声だった。
 妙が答える。
「秀頼公、お待ち下さいませ。ただいま、そちらに参ります」その声が上気し、うわずっている。
 そうか、妙には秀頼公のお手がついたのか――。
多田羅はすべてを理解した。


 翌々日、五月七日の夕刻、多田羅は、あらかじめ城内に持ち込み、ひそかに隠しておいた秋元長朝の甲冑をつけた。闇に溶けるような黒甲冑。秋元家の木瓜紋が甲冑の鳩尾板に金漆で描かれている。
その姿で多田羅は、淀と初めて邂逅した大阪城本丸の厨の廊下、そこから厨の奥まで念入りに油を撒き、火を放った。

城が燃える匂いがすると妙は思った。
妙は火に包まれる天守閣の中にいた。
(生まれ落ちた時から、こうなる運命だったような気がする)
妙が胸の中でそう呟くと、声がした。
「妙、私とともに行こう!」
声の主は二人いた。
一人は妙の右手を取る秀頼で、もう一人は左手を取る多田羅だった。男二人は、炎の中でしばらくの間、睨み合っていた。秀頼の小袖にあしらわれた五七の桐紋と多田羅の黒甲冑の木瓜紋に挟まれるようにして、小柄な妙がいた。
だが、しばらくして、妙の左手を握る多田羅の力が抜けた。次の瞬間、多田羅は妙を抱きしめて秀頼の手からもぎとった
「妙ッ。俺は二十年待ったのだ。必ずお前を救いだす。こんなところで死なせはせぬ!!」 
多田羅の胸の中で、妙はいやいやをする幼い子のように泣いた。
「もうお許しください。昔、大好きだった助信様を死なせたのは、私。あのとき、私が死んでいれば、助信様はきっと死なずに……。私は助信を失った日から、ずっと悔いておりました。こんな日がいつか来るのを私はずっと待っておりました。」
「そんなことを言うな! お前はこれから、俺と生きるのだ。お前は生きるのだ!」
 妙は簪を引き抜くと、自分をきつく抱いていた多田羅の腕を刺した。
 うっと痛みに多田羅がうめく。淀から拝領した銀の簪が刺さった腕から、血が溢れる
「私との暮らしの間、この簪に、多田羅様は何を見ていらしたのですか……」
「知らぬ!言えぬ! だが、お前を失いたくない。頼む。俺とともに逃げてくれ」
「妙はもう、十分に生きました。もう礼様とのことは終わったのです。どうか今、ここで豊臣最後の主として冥途に向かう秀頼様に同道させてください」
もつれるように言い争う声が、燃え盛る炎の煙にかすんでいく。
多田羅は腕から簪を引き抜くと、妙に渡し、
「どうしても地獄に行くというなら、妙、俺を殺せ。俺も地獄までついていく」
 妙は首を振って、手の簪を多田羅の懐に押し込んだ。
「どうか淀の方様を救いに行ってください」
多田羅から離れた妙を、秀頼が、もう決して離さぬというように抱きかかえた。二十一歳のその顔は、その昔、雪峠で、十二歳で死んだ斑目助信によく似ていた。
秀頼は明るい声で言った。
「多田羅殿。この大阪城まで妙を救いに来てくれたのに申し訳ない。妙と私は夫婦にはなれずとも、共に生き、共に死ぬと誓いあった運命なのだ。許してくれ」
 ゴオオオオオと炎が逆巻く。
「なぜ、お前が死なねばならぬのだ!」
多田羅の最後の絶叫に、妙が答えた。
「私は淀の方の様として、ここで死にたいのです」
 そう笑った妙は、淀の打掛を着ていた。
「多田羅殿。母上様のお命、よろしくお頼み申し上げる」
という声を残して、秀頼は妙の体を抱いて、燃え盛る天守閣から出て行った。
 
 
 同時刻――
天守閣の炎上する匂いを、淀は懐かしいと思った。
それは彼女にとって、幼い日、浅井、柴田の落城の時にも嗅いだ、慣れ親しんだ匂いだった。
 去年、慶長十九年(一五九七年)の十二月十六日にも、これと同じ匂いを淀は嗅いだ。
 家康によるガルバリング砲での天守閣への砲撃。
 この時、淀のいる三の丸の天守閣が破壊され、落ちてきた天井材や瓦で、何人もの侍女が圧死した。
血に染まる侍女の死体を見た時、淀の頭に「人柱」という言葉が浮かんだ。
 このとき、侍女のお夏が死んだ。同じように侍女だった妙は死ななかった。
なんと惜しいこと、と淀は思った。
 
秀頼が十歳になったある日、妙が言った。
「秀頼様は誰のお種なのです?」
淀は笑った。
「わからぬ」
それは事実であった。鶴松を孕んだ時と同じように、誰が父親かはわからない。
妙は言った。
「秀頼様の父君は、斑目盛信様ではございませんか?」
「なぜ、そう思う?」
「斑目盛信様の子、助信様の幼い頃に面差しがよく似ております」
「では、そうなのだろう。それで?」
 淀は妙の言葉の続きを待ったが、妙はそれ以上何も言わなかった。
 淀が斑目盛信と不義密通をして秀頼を作った、とは妙には思えなかったのである。
 

子作り、それは淀にとって、男たちと体で渡り合う知恵比べだった。
 そのきっかけは鶴松の死だった。
鶴松の死の直後、秀吉は豊臣一族の中で、唯一、生殖能力を証明している甥の秀次に淀の体を与え、その血脈を保つ策を思いついた。
弟の秀長は正室以外の女を拒絶し、秀次の弟の秀勝は片目がなく、秀保はまだ若く子もいない。秀吉の血族において正常な子種を持った男は、秀次ただ一人しかいなかった。
 そして子孕み祈願のための参籠という名目で、淀を大融寺に籠らせ、この種つけの場と
した。
秀吉の命令は絶対で、淀は、蛇蝎のごとく嫌う秀次に犯されるというその苦渋に耐えた。
幸いにもこの時、秀次の種は宿ることはなかった。
 そして、淀が見事に秀吉を欺いた流産騒動によって、秀吉と秀次の仲は悪化した。これを受けて、城下町での辻斬りという凶行に走った秀次は、愚かとしか言いようがない。
 では、淀は秀頼をどうやって宿したのか。
淀が秀吉に連れられ、名護屋城に入った文禄元年(一五九二年)四月二十五日、この日。
明入りを激しく拒んだ秀次はひそかに朝廷に働きかけ、明に上陸する寸前で秀保とともに名護屋城に戻ってきていたのである。秀次はそのまま「朝廷の儀に参列する」という言い訳をつけて、名護屋城から直ちに聚楽第に戻ってしまう心づもりでいた。
 そして、この名護屋城で、偶然、淀を見た秀次は、自分の種を彼女につければ、自分の未来は安泰だと思い込んだ。この日、秀次は斑目に淀の体を押さえさせ、力でもって再び淀を犯した。
淀を犯した翌日には秀次は早馬を使って、わずか十日で大阪に戻り、五月の七日には素知らぬ顔で関白として朝廷の儀式に参加した。(それは太閤秀吉が、秀頼誕生の際に名護屋城から大阪に十日で戻った時と、まったく同じ道程と手段であった)
 
秀次に再び犯されるという汚辱に対して、淀には悲しんでいる暇はなかった。
もしこれで子が出来れば、秀次の子となる。そんなことは耐えられぬと、淀は一計を案じた。
 とはいえ、斑目盛信を誘惑して男女のことを遂げたわけではない。
 当時、名護屋城内にいた豊臣秀保、斑目盛信、九能善次らのところに、侍女のお夏をやり、その体を与えたのである。侍女の中に放たれた直後のものを、竹鉄砲の玩具でもって淀は自身の体に注いだ。
 秀保も斑目も、誰も自分たちがお夏を抱いた部屋と、襖一枚隔てた次の間に淀が控えていることなど知る由もなかった。彼らはただ、目の前に倒れこんできた美しい女体を、男の性で抱いたに過ぎない。
 お夏の体を拒否した九能も、その後を尾け、班目とお夏が交接したことまでは知ったが、その裏に淀の意思があったとは見抜くことができなかった。
 とにかく、こうして淀は懐妊した。
 その一方で秀吉は、秀次の朝廷への工作、名護屋城での淀への狼藉を知ると、烈火のごとく怒り狂った。
自分の許可なく、愛妾の淀を犯し、種をつけるなどあっていいことではないと断じた。
 秀頼は、名護屋城で種つけされた子として生まれてきてはならなかった。激しい怒りの中で、秀吉は巧妙な隠蔽工作を進めた。
 淀が名護屋城に伴われた記録を消し、京極殿(龍子)を伴った偽の記録を作り、あたかも淀の勝手な参籠で子が出来たように、世間には見せかけた。
参籠に怒っているということを周囲に信じ込ませるために僧侶を殺すことも、侍女や女房を裸にむいて鞭で打ちすえ、城外に追い払うことも秀吉は厭わなかった。 
そしてその年の八月に生まれた秀次の子を取り上げ、淀の産んだお拾いとして、世に公表した。
その後、十月になって淀は八カ月の早産で秀頼を生んだ。
秀次にとって最大の誤算は、痴呆が進行した秀吉が、秀頼の種が秀次だという可能性をけろりと忘れてしまったことにあった。秀次というどうしようもない血縁への怒りだけが、秀吉の中で増大し、子の父親が誰かなどはどうでもよくなり、秀頼への執着という強力な父性の情になった。
やがてそれは秀頼の座をおびやかす秀次、その一族を全て滅しなければならんという知恵と意志に化けた。
 天下一の鬼畜、秀次が作った子も、愛した女たちも、秀次と共にすべてこの地上から消えた。
淀は、自らの手で屈辱をすすいだといえる。

そして、彼女に強い意志を与え、それをさせたのは、昔、ただ一度、厨の廊下で見た、多田羅の存在であった。
多田羅を見た瞬間、身の内から胸に温かな灯がともるという感覚を、初めて淀は知った。
自分の頭上に襲い掛かる無数の白刃の下で、眩しいほど、多田羅は笑っていた。
「我らは夫婦。死出の道、極楽浄土の果てまで俺がそばについている」 
妙に向かって放たれた多田羅の心からの言葉に、全身で光り輝くようなその存在に、淀は生まれて初めて救われたのだ。
この男なら、病の床に瀕する鶴松も、不幸多い我が身も、どこまでも守り照らしてくれるのではと、淀は思った。
巨体で笑顔の涼やかな多田羅が放つ空気は、幼い頃、淀が愛してやまなかった父の浅井長政に似ていた。
 

「淀様っ、淀様っ。淀様っ。どちらにいらっしゃるのですか」
 遠くで大蔵卿局の声がする。
今、秀吉の築いた天下一の城、大阪城が燃え落ちようとしている。

前夜、淀は天守閣で、一子秀頼に向かって、こう言った。
「秀頼。わけは話せぬが、そなたは太閤秀吉のお種ではない。豊臣に忠義を果たして死なずともよい。そなたは城から落ちよ」
 しかし、彼女の血を濃く受け継ぎ、浅井長政に似た長身の秀頼は笑って首を振った。
「母上は、籠城が長引いてお心が疲れているのでございましょう。今の話は聞かなかったことにいたします。母上、私の父は太閤殿下に間違いございません」
 そこで、秀頼は天守閣の華頭窓の方を見た。
 「お父上が桜の下で私を抱き、語ったこの国の行く末を私は今でも覚えております。『儂は日輪(太陽)の子なのよ』と、日の光を見上げて。お父上は楽しそうに笑っておりました」
「秀頼。生きよ、と母は言うておる」
 秀頼は首を振った。
「母上。私は父が作り上げた豊臣の金蔵、その力で今日まで生かされてまいりました。さきほど、大野修理(治長)が私のところに来てこう言ったのです。もう豊臣の蔵に金はないのだと。母上、これで仕舞いでございます」
(秀頼っ……)
 立ち上がり、秀頼の裃をとらえ、何度でも「生きよ」と秀頼に叫びたい衝動を淀はおさえた。最後の最後で、私はあの天下の猿めに負けたのか……。悲しみが喉にこみ上げる。
 秀頼は立ち上がった。
去っていく、その大柄な背中が豊臣秀頼として死ぬ、そのことを喜んでいた。その秀頼の背中から独り言が漏れた。
「私の代わりに、母上には、生きて落ち延びていただきたい……」



「淀様っ、淀様っ。淀様っ。どちらにいらっしゃるのですか」
 聞きなれた乳母、大蔵卿局の声がする。
 さあ、最期の宴の時間じゃ。
「最期は山里丸で、みなで自害となりましょう」
最期の軍議で治長が決めた言葉に導かれて、淀は山里丸に向かって打掛の裾を引きずって歩き出した。
「お待ちくださいっ」
 背後からその体を強く抱く者があった。声、匂い、その筋肉の厚みが、誰なのかを淀に悟らせた。
(多田羅……)
 淀はどうして自分が泣いているのか、わからなかった。どうしてこれほど、心が安心して溶けているのかわからなかった。
(淀の方様……)
腕を怪我をした多田羅がきつく淀を抱き、その黒髪に顔を埋めた。その全身が震えている。多田羅もまた泣いていた。淀が短く言った。
「離しなさい」
(しかし……)多田羅が躊躇する。
「離しなさい」
 もう一度言われ、多田羅は腕の力を緩めた。腕から流れた血が淀の打掛に落ちた。
次の瞬間、淀はくるりと振り向いて、多田羅の胸の中に飛び込んだ。二人の体と魂が、交錯するようにその場でしばらく絡み合った。



五月七日の深夜、大阪城は落城した。
厨の内部から広がった火の手は天守を包み込み、激しく散る火の粉は火の鳥のように空に昇った。その火を見た者はみな、恐ろしいほどの美しさだったと口にした。
その翌日八日、城を脱出した徳川家康の孫で、秀頼の正室、千姫による助命嘆願も黙殺され、城にいた者は山里丸の櫓に上がり、秀頼以下、淀、大蔵卿局、大野治長、治長の嫡子、侍女ことごとく自害した。
八歳になる秀頼の庶子、国松も、徳川方の捜索に捕まり、市中車引き回しの後、六条河原で斬首された。
国松だけではない。城からの脱出者や豊臣残党に対する徳川方の追撃は、苛烈を極めた。
落城直前に城を脱した大野治長の弟、治房は捕えられて石を投げられ、三条河原で斬首された。同じように弟、治胤も町民に捕えられ、火あぶりの刑で弄(なぶ)り殺された。
大阪の城下町は、徳川方の兵が溢れ、豊臣方の首として献上しようと、偽首として数多くの民衆が殺された。生き残った者も含めて、奴隷狩りに遭った者の数は大人から幼い子どもまで数千人に達した。
ある町人が残した記録には

男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ 
子を捕られ 
夫婦の中も離ればなれになりゆくことの哀れさ
その数を知らず

 とその悲惨な地獄絵図の有様が克明に描かれている。


 その日、多田羅は、徳川方である秋元家の甲冑に身を包み、徳川の兵になりすまし、刀を振るい民衆を次々に切り払い、血路を奔(はし)った。その隣には、同じように甲冑をつけ、細い腕で刀を振るう者が、影のように寄り添っていた。
と、「あっ」、と影が声を上げた。
その指に刀がかすり、血が飛んだ。影に向かって短刀で切りつけた子どもを、多田羅は一刀で切り伏せた。
 二人の往く、その後ろに首が幾つも幾つも飛び、転がった。










しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...