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1章 落城
落城
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慶長五年(一六〇〇年)七月十七日 京都伏見城
「女どもを八幡に捨ててきもうした」
佐野綱正の晴れ晴れとした顔に、木下勝俊は驚いてその顔を見つめた。
女ども――徳川家康が寵愛する側室の阿茶局、お梶の方、お万の方のことだ。
数時間前に、この京で事変が起きた。
家康が、自分に与した大名諸侯を連れ、上杉征伐に出ているその隙をついて、石田三成が毛利、宇喜多、大谷ら反家康派の諸大名とともに挙兵したのである。この光成率いる西軍は家康に「内府違いの条々」と呼ばれる十三ヵ条の弾劾状を叩きつけ、家康の命で大坂城西の丸の留守居役を務めていた佐野を追放した。
武器を手にした兵に迫られた佐野は、家康の三人の側室を連れ、八幡に落ち延びた。かねてより家康より石田方と戦になった際には側室たちを頼むと仰せつかっている。しかし佐野は八幡に着くやいなや、側室たちを土地の者に預けて、同心与力を率いて京に戻り、伏見城に入城した。
勝俊は、伏見城本丸の守護役である。佐野は出迎えた勝俊の顔を見るなり、吐き捨てた。
「側室のお守役など、労多くして功少なし」
阿茶の局をはじめ家康の側室は知恵が回り、我儘で気の強い女が多い。武辺で鳴らした無骨な佐野はよほど女どもの機嫌取りに消耗したのか、鬢に白髪が増えている。
佐野からことのいきさつを聞き及ぶと、勝俊は目を伏せた。
(八幡まで行き、人に預けてくるなどとは……。万が一、徳川様の寵愛著しいご側室たちが石田方の手に渡ったらどうなさるおつもりなのか……)
苛立たし気に大股で歩く佐野とともに、二人で天守閣に向かう。
「拙者、この伏見城にて、そこもとと枕を並べて死ぬつもりでござる」
後ろから佐野の物騒な科白が響く。あながち大げさでもない。
明日にでも西軍の毛利方よりこの伏見城に、明け渡しの命が出されるだろう。それは城内一八〇〇の兵で、石田光成率いる西軍、四万と戦う戦闘の始まりを意味していた。
「こう見えて、某、大砲には自信がありまする」
佐野は四十七年の人生、その最後の武功を果たせるのはこの伏見城よりない、とすでに思い決めている。
どうして家康は、このような人に大事な側室らを任せたのだろうと、勝俊は首を傾げた。
それは自分ならば、きっとうまくその御役目をやってみせたのにと惜しむような心根だった。
天守閣に入ると、佐野は気が逸るのか、甲冑を身に着けだした。
「側室を守るのは儂の仕事ではないわ」
「さすが佐野殿、よう言うた」
そう言って割り込んできたのは、ガッチャガッチャと鎧の青銅袖を鳴らしてやってきた伏見城留守居役の鳥居元忠である。
この鳥居もすでに家康より「西軍と戦になったらば、この城で捨て石となって死ね」と言い含められている。齢、六十一。家康とは竹馬の友という仲である。
「すでに関東殿(家康)とは末期の酒を交わしておる」が口癖の鳥居は、死出の供が出来たわと嬉しそうに言い、皺びた手で佐野の手を取った。
「おお。まったくだ。この伏見城で死ねるは男の本懐よ」
佐野と鳥居、二人の声が重なる。
聚楽城の一部を移築されたこの伏見城の設えは、ひどく豪奢で絢爛としていた。二人とも、この城を舞台に死ねることを無垢に喜んでいる。
「のう、若狭殿。我らの辞世の和歌は何としよう?」
勝俊に向かって佐野が笑いかける。鳥居も、うむうむと頷く。
「若狭殿は、日本一(ひのもといち)の歌上手ゆえ、ぜひ御指南いただきたいですな」
勝俊は、ああ、と目を閉じた。
(やはり、私には守るべきものがある……)
瞼の裏に、梅の豊かな黒髪が蘇る。
妻の梅は全身から桃源郷の匂いがした――。
この日、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いの火蓋が切って落とされた。
「女どもを八幡に捨ててきもうした」
佐野綱正の晴れ晴れとした顔に、木下勝俊は驚いてその顔を見つめた。
女ども――徳川家康が寵愛する側室の阿茶局、お梶の方、お万の方のことだ。
数時間前に、この京で事変が起きた。
家康が、自分に与した大名諸侯を連れ、上杉征伐に出ているその隙をついて、石田三成が毛利、宇喜多、大谷ら反家康派の諸大名とともに挙兵したのである。この光成率いる西軍は家康に「内府違いの条々」と呼ばれる十三ヵ条の弾劾状を叩きつけ、家康の命で大坂城西の丸の留守居役を務めていた佐野を追放した。
武器を手にした兵に迫られた佐野は、家康の三人の側室を連れ、八幡に落ち延びた。かねてより家康より石田方と戦になった際には側室たちを頼むと仰せつかっている。しかし佐野は八幡に着くやいなや、側室たちを土地の者に預けて、同心与力を率いて京に戻り、伏見城に入城した。
勝俊は、伏見城本丸の守護役である。佐野は出迎えた勝俊の顔を見るなり、吐き捨てた。
「側室のお守役など、労多くして功少なし」
阿茶の局をはじめ家康の側室は知恵が回り、我儘で気の強い女が多い。武辺で鳴らした無骨な佐野はよほど女どもの機嫌取りに消耗したのか、鬢に白髪が増えている。
佐野からことのいきさつを聞き及ぶと、勝俊は目を伏せた。
(八幡まで行き、人に預けてくるなどとは……。万が一、徳川様の寵愛著しいご側室たちが石田方の手に渡ったらどうなさるおつもりなのか……)
苛立たし気に大股で歩く佐野とともに、二人で天守閣に向かう。
「拙者、この伏見城にて、そこもとと枕を並べて死ぬつもりでござる」
後ろから佐野の物騒な科白が響く。あながち大げさでもない。
明日にでも西軍の毛利方よりこの伏見城に、明け渡しの命が出されるだろう。それは城内一八〇〇の兵で、石田光成率いる西軍、四万と戦う戦闘の始まりを意味していた。
「こう見えて、某、大砲には自信がありまする」
佐野は四十七年の人生、その最後の武功を果たせるのはこの伏見城よりない、とすでに思い決めている。
どうして家康は、このような人に大事な側室らを任せたのだろうと、勝俊は首を傾げた。
それは自分ならば、きっとうまくその御役目をやってみせたのにと惜しむような心根だった。
天守閣に入ると、佐野は気が逸るのか、甲冑を身に着けだした。
「側室を守るのは儂の仕事ではないわ」
「さすが佐野殿、よう言うた」
そう言って割り込んできたのは、ガッチャガッチャと鎧の青銅袖を鳴らしてやってきた伏見城留守居役の鳥居元忠である。
この鳥居もすでに家康より「西軍と戦になったらば、この城で捨て石となって死ね」と言い含められている。齢、六十一。家康とは竹馬の友という仲である。
「すでに関東殿(家康)とは末期の酒を交わしておる」が口癖の鳥居は、死出の供が出来たわと嬉しそうに言い、皺びた手で佐野の手を取った。
「おお。まったくだ。この伏見城で死ねるは男の本懐よ」
佐野と鳥居、二人の声が重なる。
聚楽城の一部を移築されたこの伏見城の設えは、ひどく豪奢で絢爛としていた。二人とも、この城を舞台に死ねることを無垢に喜んでいる。
「のう、若狭殿。我らの辞世の和歌は何としよう?」
勝俊に向かって佐野が笑いかける。鳥居も、うむうむと頷く。
「若狭殿は、日本一(ひのもといち)の歌上手ゆえ、ぜひ御指南いただきたいですな」
勝俊は、ああ、と目を閉じた。
(やはり、私には守るべきものがある……)
瞼の裏に、梅の豊かな黒髪が蘇る。
妻の梅は全身から桃源郷の匂いがした――。
この日、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いの火蓋が切って落とされた。
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