花と靱(はなとうつぼ)

夏目真生夜

文字の大きさ
上 下
2 / 13
第2章 出生

出生

しおりを挟む
関ケ原の戦いから遡ること三十一年。永禄十二年(一五六九年)、勝俊は若狭国 後瀬山城(わかさのくに のちせやまじょう)で誕生した。
父は後瀬山城を居城にする武田元明。室町幕府で守護を務めた若狭武田氏の嫡流にあたる。母は名門京極氏の血を継ぐ龍子。勝俊は幼少からこの龍子の薫陶を受け、茶の湯や万葉集などの古典に親しんだ。自然、幼いうちから身ごなしや精神が洗練された。
十歳になった時、転機が来た。
中国攻め、毛利攻略と戦上手と策でもって織田家でめきめきと頭角を現していた羽柴秀吉から、勝俊を妻おねの実家、木下家の養子にしたいという申し入れがあったのである。
 このとき、海を臨む後瀬山城の一室で、秀吉は元明父子に仰々しく頭を下げ
「この秀吉。女(おなご)は大好物なれど、わが家には跡継ぎとなる男(おのこ)がおりませぬゆえ、何卒何卒よろしくお頼み申す」
 などとおどけて口にしたが、秀吉、元明ともに胸中にはさまざまな思惑がある。
 体裁上は織田政権に屈してその支配下にいた元明だが、いずれは守護大名の座に返り咲き、若狭武田として大身にと野心をくすぶらせている。嫡子の勝俊を秀吉の元にというのは織田からすれば、人質の意味が多分にある。
 一方、百姓上がりの秀吉にしてみれば、母が京極氏、父が名門武田氏という勝俊の出自は涎が出るほどに眩い。
 線の細い色白な元明は、海風の満ちる天守閣でゆっくりと思考を巡らせた。その隣で勝俊は、身じろぎもせず、座っている。ここは子どもの出る幕ではないとわきまえている。
(勝俊は佳い。人質にするには惜しい。だが――)
 元明は目の前の秀吉を見た。猿に似たその顔に光が差している。そのさまに、勝俊がかすかにほほ笑んだ。
(よし!)
元明は口を開いた。
「いいでしょう。養子の話、謹んで承りまする」
 幸いにも元明には勝俊の下にもう一人、男児がいる。
(勝俊のこと、若狭武田の血を残す一手になろう)
と元明は自分に言い聞かせるように胸で呟いた。勝俊はそんな父の横でさっと平伏し、口上を述べる。
「羽柴様。これよりはよろしくお願い申し上げまする」
「おお。おお、儂に任せい。賢こい顔をしたお子じゃ。きっとわが嬶、おねも気に入るわ」
 元明も頭を下げる。
「羽柴様、わが子勝俊の行く末、よろしくお頼み申しあげる」
そう言ったものの、内心はひどく気分が悪い。
さきほど薄茶を運んできた妻の龍子を見る秀吉の目の粘っこさを思い出し、元明はかすかに眉根を寄せた。


このときの元明の判断はある意味、正しかったといえる。
その後、秀吉の正室おねに勝俊が拝謁すると、一目で好かれた。
おねはもともと武勇に優れた若者を好む癖があったが、勝俊だけは別だった。
「北政所さま。これよりは終生変わらず、母様と思ってもよろしいでしょうか?」
と勝俊がそう言った瞬間に、すべての運命は決定づけられた。
「もちろんです、遠慮は要りませんよ」
おねは答えながら、(まあ、なんとこの子は愛らしい……)とそっと胸をおさえた。
勝俊は思慮深い目で周りのすべての空間をひと撫でし、染み入るように笑っている。それでいて、頭の中で和歌を思案しているような、世のすべての事象に愛(かな)しみを抱いている様子がたまらない。
(この子は私が引き上げてやらねば。武芸ではおそらく立つ瀬がないであろう)
という圧倒的な庇護愛がおねの中に溢れていた。おねだけではない。よくも悪くも人に放ってはおけないという気にさせるものを、勝俊は生まれながらに備えていた。
おねの引き立てを受けて、無事、勝俊は十歳でおねの兄、木下家定の養子になった。よほど気に入ったものか、おねは何度も勝俊に書状を書き、何度も家定の屋敷を訪れて、会いに来た。
「もちろんです、遠慮は要りませんよ」そう最初に引き受けた通り、出会った時から始まった、おねの勝俊への愛情は終世、変わらなかった。

天正十年(一五八七年)六月――
勝俊が十三歳の時、本能寺の変が起きた。父の元明は明智光秀につき、敗走自害。ここで若狭武田氏は絶えた。
さらに変の後、母の龍子は弟、京極高次の助命と引き換えに側室に召し出された。
「喜べ、そちの母、龍子が儂の側室になるぞ」
 秀吉からいきなりそう言われても、勝俊は静かに笑っている。父の死を悲しむ素振りさえ見せない。
(不憫な……)
と秀吉の隣ににいたおねが、手でとんと自分の胸を打つ。
「城内であなたが龍子殿に会えるよう、私がはかってあげますね」
「かたじけのうございます。なれど、私の母様はおね様、父は家定様と羽柴様より他にはいらっしゃらないと思っておりまする」
 これには秀吉夫婦、手を打って喜んだ。わが家中に対する比類なき忠誠心ぞと。
「ようし、ようし、そちにはこれをやろう」 
上機嫌の秀吉は、朱塗の高坏に盛られた南蛮菓子のビスカウトをがさりと手づかみして、勝俊にふるまう。
「儂の好物じゃあて」
「はっ、ありがたく頂戴いたします」
 秀吉、おね、勝俊と三人で顔を突き合わせ、ぽりぽりとビスカウトをかじっていると、じんわりと家族のような温かみが座を包む。
口の中の菓子を飲み込むと、秀吉は宣言した。
「そちは若狭生まれのよき若者である。よってこれより『若狭少将』と呼ぶことにしよう」
「海のように清しいあなたに、似合いの名だこと」
おねも嬉しそうに頷いている。
「雄大な海にちなんだ若狭の名をいただけること恐悦至極に存じます。まことにありがとうございまする。このお礼にもし、よろしければ私めにどうか茶を点てさせてください」
勝俊は平伏してじっと返事を待つ。
「おお、若狭の茶を一服か、いいのう」
勝俊はにこりと笑った。
「この若狭、一命を賭して、茶を点てまする」
それもこれもすべて母譲りで眉目のよい聡明なこの若者の処世術なのだった。
一片たりとも父を亡くした悲しみを見せず、母の龍子への恋しさを出さない。誰にも真似のできないうまい茶を点てて喫ませる。そうやって、秀吉夫妻の心に清涼な風を吹かせる。
 このとき、すでに勝俊は心の中で決めていた。
和歌を求道し、茶の湯を極めたい。花鳥風月を妻にして、一生を生き暮らしたい。
 それには、今、もっとも天下に近いこの夫婦の庇護が必要だ――氷のような冷やかさでそう信じ込んでいる。

 

本能寺の変の後、すぐに天下統一とはならず、まだ戦が続いている。明智、柴田、北条、徳川、毛利と戦相手には事欠かない中、ふと秀吉が刺すような目で勝俊を見るようになった。
 賤ケ岳の戦いの際、十四歳で初陣を飾ったものの、ただ兜甲冑をつけてそこにいたという有様だった。一人の兵も殺せず、武功と呼べるようなものは何一つとしてない。戦以降、秀吉に拝謁すると
「せっかくわが一門として目をかけてやっても、兵の差配ができぬ男(おのこ)ではな……」
 と言う心の声がありありと聞こえてくるようになった。
 勝俊の背中に、ひやりとした汗が伝う。
木下家定の養子になって四年。養子になった当時は嫡子がいなかった家定には二年前に男児が生まれた。当年二歳になるこの弟、木下秀俊(後の小早川秀秋)に家督を譲れと秀吉に命じられればひとたまりもない。
とはいえ、体力のない勝俊には戦場で重い甲冑をつけているだけでいっぱいいっぱいである。
 そんな中、おねはさりげなく、勝俊を立ててやるために手を回してやった。
 福島正則や加藤清正など普段から目をかけている武辺者の将や細川幽斎、古田織部といった茶の湯武将を大阪城の山里郭に招いて、ごくうちうちで茶会を行った。
このとき勝俊は、おねにかわって茶を点てる茶坊主役を務めた。点てた茶は、当世一代の文化人として名の通った細川幽斉に「弟子に欲しい」と言わしめ、その清々しい気に満ちていると評判になった。
この件、決しておねによる仕込みではない。
 その座において、亭主はあくまでもおね、その人であった。勝俊は茶坊主として、そのように茶を点てたにすぎない。
茶席の設えはその日、おねが着ていた藍の小袖、銀の打掛が映えるように簡素にし、千利休のわびさびを踏襲した。古田織部や幽斎といったこの席につく正客、茶の湯の先人への礼を欠かさない、細やかさである。
その一方で、建築から間がない山里郭、その新鮮な檜の香に合うような黄瀬戸焼の茶碗を主役とした。
茶碗はざらりと素朴な黄土色の磁肌に翡翠色で草文様が彫られている。草葉は鉄顔料のこげ茶色に彩られ、野の景色を再現したようだ。親しみのある茶碗の形(なり)。誰もかれもをくつろがせる、おねに似た雰囲気の器である。
この席で幽斎はひそかに驚いていた。
(木下勝俊というこの少年、いや、この御仁、まるで透明人間のようではないか)
 茶を点てる間、勝俊からは一切の音も気配もしない。
 それは客たちに笑顔であれこれと話しかけ、ころころとよく笑うおねの声、その呼吸に合わせて、茶を点てているからだ。
 おねが人を惹きつけるそのときに柔らかく手首を使い、所作の音を逃がして茶筅を操る。おねの言葉が途切れた瞬間は、動かない、音を立てない。そうやって自身の存在を消して点てた茶の茶碗をおねに渡す。
 客たちは茶が喉に落ちた瞬間、その鮮やかな存在感にハと息をのんだ。
 それでも勝俊は奢らず、誇らず清廉な心のままである。
後にこの茶会の評判を聞いた秀吉は、ほうと目をしばたたいた。
茶筅さばき一つでも、この男には使いようがある――そう断じた瞬間だった。
 
しおりを挟む

処理中です...