花と靱(はなとうつぼ)

夏目真生夜

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第4章 立身

立身

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その後、勝俊はとりたてて武功もないまま、おねの進言によって播磨国 龍野城(はりまのくに たつのじょう)を与えられ、大名になった。
山麓の緑豊かな地にそびえるこの城で、梅は嫁いだ翌年に女児を産んだ。この第一の姫は糸(いと)と名付けられた。
天正十五年(一五八七年)七月になると、秀吉がバテレン追放令を出した。
秀吉とおねから「聚楽第に上がれ」との命を受けたその日、夫婦の居室で幼い糸姫を抱いた梅は、勝俊に向かって尋ねた。
「殿は、どうされるのですか?」
「うむ。棄教し、ロザリオを外す」
あっさりとした口調だった。
「それでよいのですか?」
それまで梅は夫から洗礼せよと勧められたこともなければ、ともに異国の祈りを唱えよと強制されたこともなかった。
けれど何かを考える時、夫が木製のロザリオにそっと唇で触れるのを何度も見ていた。口の中で異教の祈りを呟く夫は、真摯で透き通った目をしていた。
「おね様に頼めばきっと……」
特例を赦してくれるかもしれませぬ、と梅の口から出かかった言葉を「言うな」と勝俊がとどめた。
「心の中の信仰は自由だ。ロザリオがなくとも祈りを唱えずとも、私は変わらぬ」
そう言うと勝俊は自分のロザリオを外して、梅が抱いている糸姫の首にかけた。
「手慰みにでもせよ」
梅は胸が詰まった。しかし、勝俊は穏やかに笑って続けた。
「におう、安心せよ。ロザリオを手離しても、そなた以外の女には馴染まぬ」
どうやら今後もキリスト教の教義である一夫一妻の操は貫くと言いたいらしい。男児が生まれず、気にする梅を気遣っての言葉だ。勝俊は、どこまでも優しすぎる夫だった。
これまでにも秀吉から側室を持てと、何度も言われているだろうにと梅は思い、なぜか怒りにカッと胸が熱くなった。
「私、とても忙しくて、そのような心配をしている暇はございませぬ」
「そうか、ならば忙しいそなたを労うために、二人きりの茶会でもなそう。靱肩衝と今宵の月は、きっと相性がよい」
勝俊は、軽やかに立ち上がると、窓辺に立って
「におう。ほら、こちらへ来よう」
 と手招きした。
月光が温かく勝俊を照らしている。
明日は秀吉の御前に引き出され、異教信仰を責められると決まっているのに、その口ぶりは鷹揚だった。


こうして表面上、勝俊は秀吉の命の前にあっさりと棄教し、その寵を深めた。翌年には秀吉から豊臣姓を下賜されていた。 
この時、まだ勝俊が十九で梅は十七歳、二人は、もう十年を経た夫婦のように馴れていた。
それは勝俊が水ならば梅が炎というような、まるで違う生来の気質が、他の大名家にはない奇妙な分業体制を作り上げていたせいもある。
勝俊は和歌や茶道、好きな古典を読み学ぶことに没頭し、足繁く上洛し、朝廷や有力大名らと政治的な繋がりを深めていった。一方で播磨国では、梅が治政、合戦の兵集め、石高の管理、運営といった本来、勝俊がするべき実務を全て執りしきった。むろん、表立っては前に出ない。生家の森家で培った知恵を勝俊に授け、それを勝俊が文や下知によって配下に与えるという方法をとった。  
やがて二人の間には、二人目の子、綸姫(りんひめ)が産まれた。
勝俊は戦場と京通いで不在がちで、二人の姫の教育に熱心な梅は、多忙を極めた。


その夜、勝俊は龍野城におり、梅の肌に埋もれていた。
薄闇の中、梅は菩薩のような顔で目をつむり、時折、何か呟くようにかすかに口を開く。床の中には甘やかで柔らかい梅の匂いが満ち満ちていた。
(死んでもよいわ……)
 閨の度、勝俊は真剣にそう思う。ところが――。
 ことが終わり、燭台に火を入れると湯文字を身に着けた梅がこう切り出した。
「殿下に戦場への妻妾同道をお許しいただけますよう、願い出てください」
梅は多くの資質に優れた森家の血を受け継ぎ、その才気に囲まれて幼少の戦乱期を生きた経験がある。武芸にも並々ならぬ自信があった。
「戦場に私を連れて行けば、きっと大将の代わりも務めてみせます。兵を差配してみせます」
燭台の火にほのほのと白い肌を浮き上がらせ、まるで源氏物語の姫君のような美しさを湛えた梅が
「私、薙刀も自在剣も使えまする」
と物騒なことを口にして、勝俊の体に取りすがった。
それが、一夜で済まない。
勝俊が京から戻り、居城でほっと息をついた日、昼間は姫らとあ
やとりや歌など詠み、やはり家族とはいいものだと楽しく過ごしていたのが、夜になると
「私が戦に出る、これも子らのためでございます。武でもって豊臣の役に立たねば、この先、我が家の行く末、あまりに不安でございます。勝俊様、よいですか? 今の殿下、すなわち豊臣の世継ぎは……」
 などと政情話を交えた梅の嘆願が必ず始まる。
けれど勝俊は、度重なる梅の懇願をつっぱねた。
「大切なにおうを戦場などに連れて行きたくはない、それ位なら、私が討ち死にした方がよい」
というのが勝俊の言い分である。
しかし、梅は引き下がらない。
「私は殿下がお決めになった御武運の守り神でございましょう? 戦場に連れていかないでは我が家中に武運の御果報が来ぬのでは?」
「愛し子のそばから母親を取りあげる気にはとてもならぬ」
勝俊はこればかりは頑として頷かない。その代りにと靱肩衝の茶入を戦場に連れてゆこうと言い出した。
「城一つに値するのですよ、万が一、戦場で盗まれでもしたらどうするのです。殿下に面目が立ちませんよ」
そう梅が止めるのにも、勝俊は取り合わなかった。
「弓入れの形をし、梅と共に殿下から賜った物だ。戦の守り神にちょうどよいだろう」
笑っている。
ひょっとすると、勝俊にとっては手離したロザリオの代わりかもしれなかった。



やがてこの靱肩衝の茶入は、戦場で尋常ならざる活躍を見せた。
「一目、見たい」
天下一の茶器、靱肩衝の名声が、人を呼んだ。
「本当に戦場に大名物の茶器を持ってきているのか――?」
とにかく多くの将がこの靭に関心を持ち、勝俊の陣中を訪ねるようになった。
「野点でよい、某にぜひ一服」
と所望されるのである。
「どうぞ、構いませぬ」
気のいい勝俊は、請われれば誰にでも茶を点てて喫ませた。
陣中に緋毛氈を敷き、野点で茶をふるまう。
「かの人の茶、気分が良い」とみなが口をそろえて言う。
そのうちに靱肩衝を必ず陣中にまで持ってくるのは、よほどの豪胆者、或いは拝領品を肌身離さず大事にする忠義者だと噂が広まった。
名声がどれだけ高まろうとも、勝俊の茶に宿る心地よく練れた気迫は、どこで誰に茶を点てても変わらなかった。



その茶に魅せられた一人に、生涯を通じて勝俊の和歌の師となった細川幽斉がいた。元来、この靱肩衝は、細川家に縁の深い品である。
ある時、幽斉は勝俊の屋敷へふらりとやってきて茶席を望んだ。
勝俊は、よくぞ来てくれましたと歓迎し、
「急拵えで何もできませぬが」
と庭で摘んだ片栗の花を床の間に一輪あしらった。
勝俊が手びねりで拵えた小さな平たい楕円の花入は無銘。利休好みの漆黒の焼き色をし、凝縮したような小さな造りが、片栗の花弁を凛と支えている。
幽斎は茶室の設えをじっくりと愉しみ、茶を喫したあと
「この茶入にまた再見できるとは思ってもおりませなんだ」
と靱肩衝を眺めて愛おしげに漏らした。
勝俊は花をちらりと見遣って答える。
「世に茶の湯がある限り、道具など何処へでも変遷するものでございましょう。この茶入がいつまでも我が元にあるなど私にはとても思えませぬ」
偽らざる本音である。
幽斉は強い眼光を放つ垂れ目を、怪訝そうに勝俊に向けた。
「しかし茶の湯というのは己の信ずる美への固執とそれを客に感じさせぬ軽やかさから始まるもの。今日のこの設えとて、大名物の靱肩衝があって初めて野の片栗が活きておるのに、そのようなことをおっしゃるとは、貴殿は変わっておられる」
「細川様こそ何か思い違いをしておられるのでは。私は靱を生かすために、片栗を選んだのではありませぬ」
「ほう、では何故、今日は片栗の花を?」
「これは妻の在所、兼山から移してきた片栗でございます。この手で丹精し、好みの風情となるように庭で育てました。今日は、細川様に、かの信長公が治めていた岐阜の風を感じて頂こうと、こうして床の間に活けたのでございます」
「それは眼福。何よりの馳走かもしれぬ」
「もう一服、いかがでございましょう?」
 これよりは作法も難しい話もやめましょうという意味である。
「いただきましょう」
勝俊は二服目めの茶を点てるべく、たおやかに手を使いながら静かに笑んだ。
「本能寺の変、信長公の死から、私達の本当の風流は始まっているのでございますよ」
勝俊のその言葉は確かに的を射ていた。
幽斉は本能寺の変の際、盟友、明智光秀の誘いを拒絶するために隠居し、頭を丸めた。豊臣政権の中でもまだ重要な位置にいられるのも、茶や和歌の道を極められるのも、この出家があってこそだ。
むろん勝俊も、秀吉が天下を手にしたおかげで、大身となり、このように茶室で自分の思い描く通りの美を実現させている。
やがて、二服目を干した幽斉は言った。
「片栗の花、いいものですな。歌の一つでも読みたくなる」
「ええ。自慢の花です」
「それは片栗ではのうて、奥方のことであろう」
生真面目な幽斉が珍しくそんな軽口を叩くと、勝俊は
「その通りでございます」
と頭を下げた。
その後、何度かの茶席、陣中見舞いを通して幽斉から享受した和歌の理(ことわり)は、勝俊の名をさらに高めた。



文禄元年(一五九二年)、四月――
秀吉はかねてからの構想通り遂に明征伐に乗り出した。戦下手な勝俊も将として軍を率い、明攻めの兵に混じっている。
兵は一度京に集まり、そこから肥前名護屋城に行って舟に乗る。勝俊はその肥前に向かう途中で、播磨の自分の屋敷に寄った。
「におう、殿下にお許しを頂いたのだ。しばらく共に過ごせるぞ」
駆け寄ってきた夫の姿に、梅は驚いて口に手をあてた。
なんと軟弱なという言葉が口から出そうになったのだ。 
陣中にお戻りなさいませと、梅はよほど言おうかと思ったが、
「もう、におうに二度と会えぬかと、そなたの匂いをかげぬのだと思っていた……」
と供の者達の目もはばからず、梅をきつく抱き、その黒髪に瞳にぱらぱらと涙を降りこぼす勝俊には、何も言えなくなった。
播磨をいよいよ発つという日、勝俊は満開の庭の桜を指差して歌を詠んだ。

「出でて行くあと慰めよ 桜花 我れこそ旅に思ひたつとも」

(私のなきあと、私の愛する者たちを慰めておくれ桜の花よ 私が旅を思い立ち、遠くへ行ってしまっても)

その歌に思わず梅は勝俊に向かって問うた。
「明の地に、桜は咲いているのでございましょうか」
「どうであろうな。それを確かめに行くと思えば、旅路もよいものぞ」
「ではもし桜が咲いていなかったら、私の郷、兼山の片栗を植えてきて下さいませ」
梅はそう言うなり、勝俊が懐に納めていた靱肩衝を取り出すと、「種をこれに」
とさらさらと流し込んだ。黄色く小さな固い粒は、生な匂いを放って茶入に収まった。
 
 
翌年の夏――
「明にも桜は咲いておった。それどころか片栗の花も可憐に咲き誇っていたぞ」
そんな言葉を土産に、勝俊は日本に帰って来た。
この明への旅路で勝俊が詠んだ和歌と紀行文は「九州道之記」として世に出、稀にみる歌人が誕生したと、一世を風靡した。
語るべき武功は何一つなかった代わりに、この紀行文が勝俊を大身出世へと導いた。秀吉から亡父武田元明が治めていた若狭国 後瀬山城と八万石を与えられたのである。


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