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第5章 出世
出世
しおりを挟む文禄三年(一五九三年)六月 若狭国 後瀬山城――
「万葉の山」と呼ばれる後瀬山の山頂にそびえる山城である。その北山麓には水堀を廻らせた大掛かりな守護館と城下町があり、その先には小浜湾が広がっている。
ふいに海風が吹き、陽光を反射した桜の緑葉がさあっと揺れた。
勝俊は桜樹の下、二の丸(曲輪)に立ち、一人、海を眺めていた。
古来から港町として栄える土地の活気と溶かし込んだように海は眩ゆく碧い。
この時、勝俊二十四歳。
眼下で寄せ引く波を
(戦場で踊る白刃に似ている……)
と思い、一波寄せるごとに怯えに体を浸し、それでもなお海を見つめている。
その手には陶器の茶入、靭肩衝を抱いている。
波光が白く煌めく。
美しいなと勝俊は目を眇める。
そこへ梅がやって来た。
「また海を見ていたのですか。大事な茶器をこんな所にまで持ち出して」
「靱に海を見せてやっていた。さすれば、この鉄紺にも海の青が深く染みゆき、いっそう冥加を増すであろう」
「この靱がこれ以上、よき物になられては、我が家中では手に余ります」
梅は半ば本気であきれたような顔をした。しかし、勝俊の頭は、別の世界にいるようだ。
「この海、世の花鳥風月は面白いだろう?」
まるで子にでも言い聞かすように陶器の茶入れに話しかけている。稀有な逸品として世に知られ、その価値は城一つ、あるい国一つ
に値すると言われる茶入れ。これまでの勝俊の武功ではとても釣りあわない代物である。
「茶器に目(まなこ)はついておりませぬ」
そう言って自分の感傷を解さない妻に、勝俊は静かに笑んだ。
「におう、こちらへ来て、そなたも海を見てみよ」
「そのように猫でも呼びつけるように私を呼ぶのは、おやめなさいませ」
梅が言う通り、声質が穏やかで声の小さい勝俊がそう呼ぶと「にゃおう」と聞こえ、なんだか猫を呼びよせているような塩梅になる。
たしなめ口調で言いながら、それでも梅は素直に夫の隣に行き、並んでともに海を見た。その腹が子を孕んで丸く膨れている。
桜葉と海風が入り混じる香りの中、城下町と海の織りなす悠久の景色が広がっている。勝俊は手を伸ばし、猫の頭を撫でるように,そっと、妻の丸い腹に触れた。
すでに二人の間には、糸(いと)と綸(りん)という名の二人の姫がいる。どちらも梅の血を濃く受け継ぎ、賢く愛らしく育っている。
(次の子も姫がいい……)
きっとまた、梅によく似た佳き子になると勝俊は目を細める。八万石の大名で嫡子となる男児がいないことを、まるで気にしていない。
梅は双眸に青々と海を映して、身じろぎもせず立っていた。何者にも手折れぬ気高さに、その人型が縁どられている。
やはりにおうは聖母マリアに似ていると勝俊は心の中で感動して
「早く生まれてこい」
と梅の腹に呼びかけた。
お前の母御は、きっとお前をよき処に導いてくれる――。
「早く生まれては困ります」
梅が真顔で抗議の声を上げた。それから腹に手をやり、温かい声で続けた。
「月満ちて元気に生まれておいで。父も母もお前を待っておりますよ」
「そうだろうか。この乱世、私が生まれてくる赤子の顔を見られるか、先はわからぬものぞ」
笑ったが本音である武辺に乏しい自分と、それを助ける優れた家臣が家中にいないことを勝俊は知りぬいている。
「そんな気弱なことをおっしゃる父御(ててご)は、私もこの子も要りませぬ」
梅の体は、猫のようにするりと勝俊の掌から逃げ、あとには例の桃源郷じみた梅の香りが海風と混じって香った。
転封からほどなくして三女の結(ゆう)姫が生まれた。
海を臨むこの城で勝俊は八年、城主を務めた。
京と若狭を足しげく行き来し、野点や茶会を行い、様々に季節の和歌を詠んだ。家族五人で過ごす幸せな時代があった。靱肩衝を抱いて、梅を隣に、海を眺める日々が、穏やかな暮らしの象徴だった。
特に結姫は勝俊に懐いた。
「父様。京のお話をしてたもう」
「お歌を詠んで」
「聚楽第にあるという虎の絵の話を聞かせてたもれ」
つたない口で公家言葉を真似し、勝俊にまとわりついた。
「おお、聚楽第には関白秀次様がいらっしゃってな、日々、帝の皇子様たちと歌を詠んだり、茶の湯を楽しんでおるぞ」
秀次は歌を詠み、刀や茶道具に凝る性質(たち)だった。勝俊はそんな秀次と同じ豊臣姓という身内の縁以外にも、和歌や茶の湯を通して親しく親交を結んでいた。
「帝の皇子様も関白様も太閤様も、父様とともに歌を詠むのですか?」
「おお、そうだ。みな、鳥や季節、美しい月、愛しい人を想って歌をお読みになられるぞ」
勝俊は幼い姫に問わず語りに京の話を語った。
結姫と勝俊が睦まじく過ごした書院の床の間には、長可の遺書を勝俊が書き写したものが掛けられている。
「母よ、弟よ、京へ往け。武門などもう返上じゃ――」
そう願った長可の絶筆が、勝俊を見下ろしている。
いずれ和歌や茶の湯で認められ、家中みなで京へ行く日が来ようと信じていた。帝、あるいは関白秀次のお伽衆や同朋衆となり、武門、戦と縁を切る。
美しく教養豊かなにおうをいつか京に呼ぶ日がくると思っていた。それが勝俊ののぞむ出世というものだった。
けれどもうこの時すでに豊臣家の歯車は、音をたててきしみ始めていた。
梅と勝俊の間に結が生まれたのと同じ頃、秀吉の側室、茶々が「お拾い」という名の赤ん坊――のちの秀頼を出産したのである。
この世継ぎ誕生をきっかけに、秀吉の精神は老耄への怯えと、それに悪あがきをするような殺戮政治の振り子の中へと投じられた。
やがて、豊臣と名のついた身内こそ、お拾いの立場を危うくする者じゃ、信用ならぬという妄執にかられ、秀吉は身内切りに走った。
手始めに自分の養子にしていた木下家定の実子、秀俊を小早川隆景に押し付けるがごとく小早川家の養子にした。このとき、秀俊は改名して小早川秀秋となった。
勝俊にとっては、血のつながりこそないが、弟である。秀秋が生まれた時から五歳になるまで家定の屋敷でともに過ごした仲。どこか危うげで病弱な秀俊が、あっさりと秀吉から見限られ、豊臣から放り出された。
それを聞き及んだ梅が、心配顔で呟いた。
「豊臣の天下の行く末、そして、我が家は大丈夫でございましょうか?」
「関白秀次様と親しいこと、いずれ禍の種になるかもしれぬ」
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