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第一部 空の城
翼のはえた使者(4)
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――不幸な少女にせめて一度の奇跡を……。
崖を駆け上がるように突風が吹きました。サディの身体は強くあおられましたが、さすがにそれで浮かび上がるようなことはありません。彼女は少し流され、木の枝にふれました。それは切っ先鋭い梢ではなく、まるで、彼女の身体を受け止めんとするかのように伸びた細くしなやかな枝でした。かさなり合って伸びるそれらに次々と打ちつけられ、切り傷、すり傷、打撲傷を増やしながらも少しずつ落下速度を落とし、ついにやわらかい草の生えた地面に叩きつけられました。
背中を強く打ち、サディは息が詰まりました。全身がばらばらになったようで、のけぞったまま指一本動かすことができませんでした。しかし、生きていたことは奇跡と言えるでしょう。
「不幸な少女にせめて一度の奇跡を」
あおむけに倒れているサディの頭の方向から声がしました。その言葉は耳から入ってくるというより、使い魔たちや以前会ったエレンの声のように直接頭に響いてきました。
「わたしの願いが通じたのかしらね」
サディが呼吸を整えながら、なんとか上半身を起こして見ると、ひとりの女が立っていました。いえ、よく見ると立ってはいませんでした。白いゆったりとした服を着た身体は、温かみのあるやわらかな光に包まれて地面より少し浮いていたのです。彼女は長い金髪を輝かせ、これまで見たこともないようなやさしいまなざしをサディに向けていました。
その背中には白い翼がはえていました。
(て、天使?)
サディが持てる知識の中で考え、思いついた言葉がそれでした。そして、目の前に天使がいるのなら、自分は死んでしまったのだろうかと思いました。
「死んではいませんよ」
サディの考えを読んだように女が答えました。
「今回はなんとか生きのびました」
女はやさしく諭すような話し方で続けました。
「でも、人生のうちで奇跡なんてそう何度も起きないでしょうから、これからはもっと用心して生きなければなりません。この先あなたの人生が良くなるのも悪くなるのも、すべてはあなたしだいですよ」
「は、はい……ありがとうございます」
サディは、この人が――どうやってかはわかりませんが――奇跡を起こして助けてくれたようなのでお礼を言いました。
「あなたは……?」
助けてもらったのなら名前を聞いておかないと、と思いましたが、女はサディが聞きたいことはわかっているはずなのに、やさしく微笑むだけで教えてはくれませんでした。その代わりに「本当は、わたしたちは、あなたたちと会ってはいけないのです」と言いました。
その言葉の意味するところはサディにはわかりませんでした。天使であるのなら、天使なりの規則があるのかもしれません。
サディはせめてこの人の顔を忘れないようにとしっかり見ました。そして、ふとその顔に見おぼえがあるような気がしました。しかし、誰であるのかはどうしても思い出すことができません。
「魔女になるのね、サディ。頑張ってね」
サディは、その言葉の中に自分の名前があったことに驚きました。
「どうして、わたしのなまえを……」
「なんでも知っていますよ。『サディ(悲哀)』という名前は、『これ以上ないくらい深い悲しみの中で生まれた子』という意味です。これには『いま、どん底にいるのだから、あとはどちらを向いて進んでも幸せになってくれるだろう』という願いが込められているんですよ」
サディは自分の名前の由来を初めて知りました。
それにしても、なぜこの人はこんなことを知っているのでしょう。天使だからなんでも知っているのでしょうか。
「人生はそんなにうまくいかないかもしれないけど、どの道を歩いてもそれなりに波瀾万丈、くじけないでくださいね」
どこかで聞いたことのあるような言葉でした。サディは思いました。やはり自分はこの人を知っているのではないか、と。
そして、サディの考えはひとりの人物に行きあたりました。
「あなたは……!」
サディの大きな瞳が、さらに大きく見開かれました。頭の中では、「もしかして」と「そんなことあるわけない」というふたつの言葉が入り乱れてごちゃごちゃになっていました。
しかし、女はもう背を向けて立ち去ろうとしていました。
「ま、待って、ひとつだけ……!」
サディには「もしこの人に会えたらどうしても聞きたいこと」がひとつだけありました。この人に起きた不幸について、いつも心の中で問いかけていました。彼女はごくりとつばを飲み、おそるおそるたずねました。
「こ、後悔は……していないのですか?」
女はそのわかりづらい質問の意味をきちんと理解したようで、ふり返ると、長い金髪の先を指でいじりながら少し考えたあと、さっきよりもさらにやさしい笑みを見せて言いました。
「あなたにどうしても見せたかったのよ、世界がどんなに素晴らしいか……それができて幸せだわ」
サディはその答えを聞いて、自分の中からいろんな想いがいっせいに込み上げてくるのを感じ、身体が震え出しました。
「あなたが愛すべきものをたくさん見つけられるように、そして、たくさんのものから愛されるように、祈ってますよ」
そう言うと、女の姿はゆっくりと森の中へ溶け込んで、身体を包んでいた光とともに消えてしまいました。
(待って!)
サディは手を伸ばしましたが、胸がつまって声を出すことができませんでした。女が去っていった方向をしばらく見ていたあと、肩を震わせながら下ろした手は、なにもつかむことなく握られました。胸の内から込み上げてきたものは、透明な液体にかたちを変え、瞳からあふれ出し、その手の甲を濡らしました。
そして、やっと彼女は声をしぼり出しました。
「ありがとう……おかあさん」
サディの隣にヨルが舞い降りてきました。
「サディ、無事か?」
「うん……いまの人に助けてもらったの」
サディはまだ震える声でなんとか答えました。
「いまの人……?」
ヨルはすぐあとを追いかけてきたので、サディが落ちた瞬間は見ていなくとも、起き上がるところは見ていました。誰とも会話しているようすなどなかったと言うのです。
サディは幻でも見ていたのでしょうか。
しかし、ヨルはサディの頬についた汚れを流したような跡を見て思いました。もしその跡が彼の思うものであるなら、この短い時間にそういうことがあるだろうか、と。
ヨルはサディの横顔をまじまじと見ながらたずねました。
「サディ……泣いていたのかい?」
サディは手の甲で顔をぬぐうと黙って首を振りました。
それは「泣いていない」とも「わからない」ともとれました。
ヨルは、「この一瞬のあいだにそんなにぼろぼろと涙をこぼせるだろうか、それとも本人が言うようにべつの次元だか空間だかで誰かと会っていたのだろうか」と考えましたが、理論的でない思考は苦手なタイプなのでそれ以上そのことにはふれず、話題を変えました。
「この高さから落ちて無事だなんて奇跡だ。もう一回やれと言われてもできないだろうな」
サディが、さすがにそれは御免こうむると崖を見上げたとき、ちょうどフレイヤとツキとシンラが崖の上から心配そうな顔をのぞかせるのが見えました。
大陸暦一三〇年――。
サディは魔女フレイヤに弟子入りしました。後世では誰もが知っているような事柄でも、この時点で知っているのはほんの数人だけです。その他大勢の人々にとって、この年はとくに変わったこともなく、昨年と同じように過ぎていっただけでした。後に起こる事件を思えば、すでにこのときなにか予兆らしきものはあったのかもしれませんが、残念ながら人は未来の出来事を予知することはできません。
多くの人が平穏な日々がつづくと信じているなか、歴史の流れはうねりを高めながら、大きく動き出そうとしています。サディもまた動乱の渦の中に、ゆっくりと引き込まれようとしていました。
しかし、いまの彼女がその流れを知ることはないでしょう。渦中にいるものには、なかなかそれは見えないのです。
第6章
翼のはえた使者
終
崖を駆け上がるように突風が吹きました。サディの身体は強くあおられましたが、さすがにそれで浮かび上がるようなことはありません。彼女は少し流され、木の枝にふれました。それは切っ先鋭い梢ではなく、まるで、彼女の身体を受け止めんとするかのように伸びた細くしなやかな枝でした。かさなり合って伸びるそれらに次々と打ちつけられ、切り傷、すり傷、打撲傷を増やしながらも少しずつ落下速度を落とし、ついにやわらかい草の生えた地面に叩きつけられました。
背中を強く打ち、サディは息が詰まりました。全身がばらばらになったようで、のけぞったまま指一本動かすことができませんでした。しかし、生きていたことは奇跡と言えるでしょう。
「不幸な少女にせめて一度の奇跡を」
あおむけに倒れているサディの頭の方向から声がしました。その言葉は耳から入ってくるというより、使い魔たちや以前会ったエレンの声のように直接頭に響いてきました。
「わたしの願いが通じたのかしらね」
サディが呼吸を整えながら、なんとか上半身を起こして見ると、ひとりの女が立っていました。いえ、よく見ると立ってはいませんでした。白いゆったりとした服を着た身体は、温かみのあるやわらかな光に包まれて地面より少し浮いていたのです。彼女は長い金髪を輝かせ、これまで見たこともないようなやさしいまなざしをサディに向けていました。
その背中には白い翼がはえていました。
(て、天使?)
サディが持てる知識の中で考え、思いついた言葉がそれでした。そして、目の前に天使がいるのなら、自分は死んでしまったのだろうかと思いました。
「死んではいませんよ」
サディの考えを読んだように女が答えました。
「今回はなんとか生きのびました」
女はやさしく諭すような話し方で続けました。
「でも、人生のうちで奇跡なんてそう何度も起きないでしょうから、これからはもっと用心して生きなければなりません。この先あなたの人生が良くなるのも悪くなるのも、すべてはあなたしだいですよ」
「は、はい……ありがとうございます」
サディは、この人が――どうやってかはわかりませんが――奇跡を起こして助けてくれたようなのでお礼を言いました。
「あなたは……?」
助けてもらったのなら名前を聞いておかないと、と思いましたが、女はサディが聞きたいことはわかっているはずなのに、やさしく微笑むだけで教えてはくれませんでした。その代わりに「本当は、わたしたちは、あなたたちと会ってはいけないのです」と言いました。
その言葉の意味するところはサディにはわかりませんでした。天使であるのなら、天使なりの規則があるのかもしれません。
サディはせめてこの人の顔を忘れないようにとしっかり見ました。そして、ふとその顔に見おぼえがあるような気がしました。しかし、誰であるのかはどうしても思い出すことができません。
「魔女になるのね、サディ。頑張ってね」
サディは、その言葉の中に自分の名前があったことに驚きました。
「どうして、わたしのなまえを……」
「なんでも知っていますよ。『サディ(悲哀)』という名前は、『これ以上ないくらい深い悲しみの中で生まれた子』という意味です。これには『いま、どん底にいるのだから、あとはどちらを向いて進んでも幸せになってくれるだろう』という願いが込められているんですよ」
サディは自分の名前の由来を初めて知りました。
それにしても、なぜこの人はこんなことを知っているのでしょう。天使だからなんでも知っているのでしょうか。
「人生はそんなにうまくいかないかもしれないけど、どの道を歩いてもそれなりに波瀾万丈、くじけないでくださいね」
どこかで聞いたことのあるような言葉でした。サディは思いました。やはり自分はこの人を知っているのではないか、と。
そして、サディの考えはひとりの人物に行きあたりました。
「あなたは……!」
サディの大きな瞳が、さらに大きく見開かれました。頭の中では、「もしかして」と「そんなことあるわけない」というふたつの言葉が入り乱れてごちゃごちゃになっていました。
しかし、女はもう背を向けて立ち去ろうとしていました。
「ま、待って、ひとつだけ……!」
サディには「もしこの人に会えたらどうしても聞きたいこと」がひとつだけありました。この人に起きた不幸について、いつも心の中で問いかけていました。彼女はごくりとつばを飲み、おそるおそるたずねました。
「こ、後悔は……していないのですか?」
女はそのわかりづらい質問の意味をきちんと理解したようで、ふり返ると、長い金髪の先を指でいじりながら少し考えたあと、さっきよりもさらにやさしい笑みを見せて言いました。
「あなたにどうしても見せたかったのよ、世界がどんなに素晴らしいか……それができて幸せだわ」
サディはその答えを聞いて、自分の中からいろんな想いがいっせいに込み上げてくるのを感じ、身体が震え出しました。
「あなたが愛すべきものをたくさん見つけられるように、そして、たくさんのものから愛されるように、祈ってますよ」
そう言うと、女の姿はゆっくりと森の中へ溶け込んで、身体を包んでいた光とともに消えてしまいました。
(待って!)
サディは手を伸ばしましたが、胸がつまって声を出すことができませんでした。女が去っていった方向をしばらく見ていたあと、肩を震わせながら下ろした手は、なにもつかむことなく握られました。胸の内から込み上げてきたものは、透明な液体にかたちを変え、瞳からあふれ出し、その手の甲を濡らしました。
そして、やっと彼女は声をしぼり出しました。
「ありがとう……おかあさん」
サディの隣にヨルが舞い降りてきました。
「サディ、無事か?」
「うん……いまの人に助けてもらったの」
サディはまだ震える声でなんとか答えました。
「いまの人……?」
ヨルはすぐあとを追いかけてきたので、サディが落ちた瞬間は見ていなくとも、起き上がるところは見ていました。誰とも会話しているようすなどなかったと言うのです。
サディは幻でも見ていたのでしょうか。
しかし、ヨルはサディの頬についた汚れを流したような跡を見て思いました。もしその跡が彼の思うものであるなら、この短い時間にそういうことがあるだろうか、と。
ヨルはサディの横顔をまじまじと見ながらたずねました。
「サディ……泣いていたのかい?」
サディは手の甲で顔をぬぐうと黙って首を振りました。
それは「泣いていない」とも「わからない」ともとれました。
ヨルは、「この一瞬のあいだにそんなにぼろぼろと涙をこぼせるだろうか、それとも本人が言うようにべつの次元だか空間だかで誰かと会っていたのだろうか」と考えましたが、理論的でない思考は苦手なタイプなのでそれ以上そのことにはふれず、話題を変えました。
「この高さから落ちて無事だなんて奇跡だ。もう一回やれと言われてもできないだろうな」
サディが、さすがにそれは御免こうむると崖を見上げたとき、ちょうどフレイヤとツキとシンラが崖の上から心配そうな顔をのぞかせるのが見えました。
大陸暦一三〇年――。
サディは魔女フレイヤに弟子入りしました。後世では誰もが知っているような事柄でも、この時点で知っているのはほんの数人だけです。その他大勢の人々にとって、この年はとくに変わったこともなく、昨年と同じように過ぎていっただけでした。後に起こる事件を思えば、すでにこのときなにか予兆らしきものはあったのかもしれませんが、残念ながら人は未来の出来事を予知することはできません。
多くの人が平穏な日々がつづくと信じているなか、歴史の流れはうねりを高めながら、大きく動き出そうとしています。サディもまた動乱の渦の中に、ゆっくりと引き込まれようとしていました。
しかし、いまの彼女がその流れを知ることはないでしょう。渦中にいるものには、なかなかそれは見えないのです。
第6章
翼のはえた使者
終
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