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第一部 空の城
月光の森(5/5)
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かかとの高い靴をまだ履いていられたのは地面に石が少なく柔らかかったおかげにほかなりません。ユイカーナは足を引きずるようにして、狼のうしろを歩いていました。犬が役に立たないせいか、どうやら追っ手を引き離すことができたようです。狼の背中の向こうに家の明かりが見えたときは、正直どれほどほっとしたことでしょう。
しかし、その安堵もすぐに解決していないたくさんの心配事によってかき消されました。
小さな家。
本当に「人食い」魔女ではないのか?
追っ手を蹴散らすような力があるのか?
彼女は最初、フレイヤが味方をしてくれることに疑いを持っていませんでした。国民の誰もが彼女の命令には逆らえないのです。そのはずですが、実際にはたったいま殺されようとしていたことと、魔女が「国民」のうちに入っているのかどうかが不確かなので、だんだんと心配になってきました。
クラウスはエルリッツォの助言の中でひとつユイカーナに言わなかったことがありました。
「フレイヤに頼るしかないが、そうなったときは絶望的だ」
そうなる前になんとか手を打つべきで、フレイヤという魔女に関しても、「信頼できる人物だが、必ずしも味方をしてくれるとはかぎらないし、能力は未知数だ」と評していました。
先行していた狼が家の中に入りました。
少しして顔を出すと「来い」と言うように鼻づらを振りました。
扉に近づくと向こう側に人の気配がします。
ユイカーナは汚れた格好はどうしようもないにしても、情けない姿は見せられないと、呼吸を整え、かろうじて髪に引っかかっているティアラを直し、泥だらけの靴でしっかりと地面を踏みしめて背筋を伸ばしました。
「フレイヤ様」
サディはフレイヤの部屋のドアをノックして開きました。
足もとには猫のツキが一緒です。
「森の中が騒がしいようです」
書き物をしていたフレイヤは顔を上げ、耳をすますようにわずかな時間じっとしていたあと、サディのほうを向きました。
「シンラは?」
「森へ出たままです」
「ふむ……あたしの杖を持ってきておくれ。しまってあるほうのだよ」
「はい」
その言葉を聞いてサディの中の不安は高まりました。フレイヤは最近足腰が弱くなって、歩くとき杖に頼ることが多くなったのですが、いま持ってこいと言われた杖はそのためのものではないからです。
なにか良くないものが近づいているような、めったに感じることがない危険な予感に緊張しながら、サディは居間の高いところにある戸棚に手を伸ばしました。
かつて、この扉を開けるのに、サディはソファの上にさらに踏み台を乗せなければなりませんでしたが、いまでは踏み台なしでも届くようになっていました。
彼女がフレイヤの家を訪れて二年が経っていました。本人の記憶がたしかなら、十一歳になっているはずです。
ツキの所有物であったソファも、いまではすっかりサディのベッド兼椅子となり、乗っていてもツキは嫌な顔をしなくなりました。
杖のある戸棚の下の段にはフレイヤの部屋からあふれ出した本が並べてあります。この家に初めてきたとき、サディは文字を知らなくて、これらの本をまったく読むことができませんでした。それで、フレイヤはひまなとき、彼女に文字の読み書きを教えました。サディはフレイヤから習うことをよくおぼえていくので、フレイヤにとっても教えがいのある生徒でした。サディもまた、なんでも知っていて教えてくれるフレイヤをとても尊敬していました。
サディは文字をおぼえるとすぐに本を読みはじめました。本棚にはフレイヤが書いた本もたくさんありました。魔女の歴史や能力について書いたものと、薬草などの種類や効能について書いたものが主ですが、なかには「古代文明の謎」といったちょっと怪しげな本も混ざっていました。
本は読むだけで行ったことも見たこともない場所の話を知ったり、たくさんの知識を得ることができるので、サディは読書が大好きになりました。それこそ一度読んでしまった本でも、何度もくり返し一字一句おぼえるほどに読みました。
フレイヤの本もサディが理解できるかどうかを基準に、少し詳しく書かれるようになりました。自分が生きているうちはいいが、居なくなってからわからないところがあってはいけないので、注釈本も書くほど念を入れていました。
「もどってきたようだ」
サディが杖を取ってソファから降りたとき、テーブルの上にいたカラスのヨルが入口のドアのほうにくちばしを向けました。
すぐにドアが開き、狼のシンラが顔をのぞかせました。
「じつは……」
シンラはなんだか申しわけなさそうにサディを見て、そのあと奥にいたフレイヤを見ました。
「やれやれ、しかたのない子だねえ……」
シンラが手短に状況を説明すると、フレイヤはため息をついて、「連れておいで」というふうに手を小さく縦に振りました。
どうにか了解を得たようだと、シンラがドアの隙間から外に向かって合図をしました。
その姿を見て、サディは自分がこの家に来たときのことを思い出しながらドアに近づきました。
ドアを開けると、そこにはサディとおなじ年齢くらいの少女が立っていました。着ているものは汚れてぼろぼろになっていましたが、もともとは高級なものだろうとサディにも想像がつきました。そして、どんなに立派な衣装でもこの輝きを上まわることはできないと思えるほど豪華な金髪が――かなり髪型は乱れてはいましたが――月の明かりにきらめいていました。
ありさまを見ればここへたどり着くまでによほど大変な目にあってきたのは容易に想像できましたが、少女はまったくそんなそぶりを見せず背筋を伸ばして立っていました。
「夜分遅くに失礼する」
サディはその凛とした声を聞いて、その少女が見た目に違わぬ強い意思の持ち主であることを理解しました。
「コーネリア王国王女、ユイカーナである」
そこまで言うと少女はがくりと膝を折り、前のめりに倒れかかりました。
あわててそれを正面から支えようとしたサディもとっさのことに耐え切れず、少女を抱えたまま尻もちをついて、ちょうど下にいたシンラを押しつぶしました。
第七章
月光の森
終
しかし、その安堵もすぐに解決していないたくさんの心配事によってかき消されました。
小さな家。
本当に「人食い」魔女ではないのか?
追っ手を蹴散らすような力があるのか?
彼女は最初、フレイヤが味方をしてくれることに疑いを持っていませんでした。国民の誰もが彼女の命令には逆らえないのです。そのはずですが、実際にはたったいま殺されようとしていたことと、魔女が「国民」のうちに入っているのかどうかが不確かなので、だんだんと心配になってきました。
クラウスはエルリッツォの助言の中でひとつユイカーナに言わなかったことがありました。
「フレイヤに頼るしかないが、そうなったときは絶望的だ」
そうなる前になんとか手を打つべきで、フレイヤという魔女に関しても、「信頼できる人物だが、必ずしも味方をしてくれるとはかぎらないし、能力は未知数だ」と評していました。
先行していた狼が家の中に入りました。
少しして顔を出すと「来い」と言うように鼻づらを振りました。
扉に近づくと向こう側に人の気配がします。
ユイカーナは汚れた格好はどうしようもないにしても、情けない姿は見せられないと、呼吸を整え、かろうじて髪に引っかかっているティアラを直し、泥だらけの靴でしっかりと地面を踏みしめて背筋を伸ばしました。
「フレイヤ様」
サディはフレイヤの部屋のドアをノックして開きました。
足もとには猫のツキが一緒です。
「森の中が騒がしいようです」
書き物をしていたフレイヤは顔を上げ、耳をすますようにわずかな時間じっとしていたあと、サディのほうを向きました。
「シンラは?」
「森へ出たままです」
「ふむ……あたしの杖を持ってきておくれ。しまってあるほうのだよ」
「はい」
その言葉を聞いてサディの中の不安は高まりました。フレイヤは最近足腰が弱くなって、歩くとき杖に頼ることが多くなったのですが、いま持ってこいと言われた杖はそのためのものではないからです。
なにか良くないものが近づいているような、めったに感じることがない危険な予感に緊張しながら、サディは居間の高いところにある戸棚に手を伸ばしました。
かつて、この扉を開けるのに、サディはソファの上にさらに踏み台を乗せなければなりませんでしたが、いまでは踏み台なしでも届くようになっていました。
彼女がフレイヤの家を訪れて二年が経っていました。本人の記憶がたしかなら、十一歳になっているはずです。
ツキの所有物であったソファも、いまではすっかりサディのベッド兼椅子となり、乗っていてもツキは嫌な顔をしなくなりました。
杖のある戸棚の下の段にはフレイヤの部屋からあふれ出した本が並べてあります。この家に初めてきたとき、サディは文字を知らなくて、これらの本をまったく読むことができませんでした。それで、フレイヤはひまなとき、彼女に文字の読み書きを教えました。サディはフレイヤから習うことをよくおぼえていくので、フレイヤにとっても教えがいのある生徒でした。サディもまた、なんでも知っていて教えてくれるフレイヤをとても尊敬していました。
サディは文字をおぼえるとすぐに本を読みはじめました。本棚にはフレイヤが書いた本もたくさんありました。魔女の歴史や能力について書いたものと、薬草などの種類や効能について書いたものが主ですが、なかには「古代文明の謎」といったちょっと怪しげな本も混ざっていました。
本は読むだけで行ったことも見たこともない場所の話を知ったり、たくさんの知識を得ることができるので、サディは読書が大好きになりました。それこそ一度読んでしまった本でも、何度もくり返し一字一句おぼえるほどに読みました。
フレイヤの本もサディが理解できるかどうかを基準に、少し詳しく書かれるようになりました。自分が生きているうちはいいが、居なくなってからわからないところがあってはいけないので、注釈本も書くほど念を入れていました。
「もどってきたようだ」
サディが杖を取ってソファから降りたとき、テーブルの上にいたカラスのヨルが入口のドアのほうにくちばしを向けました。
すぐにドアが開き、狼のシンラが顔をのぞかせました。
「じつは……」
シンラはなんだか申しわけなさそうにサディを見て、そのあと奥にいたフレイヤを見ました。
「やれやれ、しかたのない子だねえ……」
シンラが手短に状況を説明すると、フレイヤはため息をついて、「連れておいで」というふうに手を小さく縦に振りました。
どうにか了解を得たようだと、シンラがドアの隙間から外に向かって合図をしました。
その姿を見て、サディは自分がこの家に来たときのことを思い出しながらドアに近づきました。
ドアを開けると、そこにはサディとおなじ年齢くらいの少女が立っていました。着ているものは汚れてぼろぼろになっていましたが、もともとは高級なものだろうとサディにも想像がつきました。そして、どんなに立派な衣装でもこの輝きを上まわることはできないと思えるほど豪華な金髪が――かなり髪型は乱れてはいましたが――月の明かりにきらめいていました。
ありさまを見ればここへたどり着くまでによほど大変な目にあってきたのは容易に想像できましたが、少女はまったくそんなそぶりを見せず背筋を伸ばして立っていました。
「夜分遅くに失礼する」
サディはその凛とした声を聞いて、その少女が見た目に違わぬ強い意思の持ち主であることを理解しました。
「コーネリア王国王女、ユイカーナである」
そこまで言うと少女はがくりと膝を折り、前のめりに倒れかかりました。
あわててそれを正面から支えようとしたサディもとっさのことに耐え切れず、少女を抱えたまま尻もちをついて、ちょうど下にいたシンラを押しつぶしました。
第七章
月光の森
終
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