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しおりを挟む由宇は指定された三時前には怜の自宅を出た。
悪魔顔の教師は早めに迎えに来ている可能性大で、もし由宇が来なかったらと疑われると、怜の自宅に居ると分かっていながら無神経にも連絡をしてきそうだったからだ。
お昼まで食べさせてもらい、勉強しているとあっという間に別れの時間となったからか、怜は寂しそうな様子を隠そうともせず由宇を困らせた。
玄関先で抱き締められて激しく戸惑ったけれど、怜の中で由宇の戸惑い顔は「手が出せない顔」らしいのでひとまずはホッとしている。
不安しかなかった入学式当日に出会い、怜は本当の意味で心を許せる友人となったから、出来ればこんなに切なくなりたくはない。
怜は告白してくれる前からとても優しかったが、お付き合いが始まったとなるとそれが一層強く感じられてしまって身の置き場がなかった。
両親から受けられなかった愛情というものを怜が与えてくれるのなら、由宇も同じ気持ちになれれば幸せでいられるのに……。
どうにも胸を締め付けられながら、由宇はエレベーターを降りた。
まだ三十分も前だからさすがに居ないだろうと思っていると、マンションの前に黒光りした厳つい車が停まっているのが目に入る。
やはり橘は早々と来ていたようだ。
由宇を見付けると助手席側の窓を開けて、悪魔の微笑を覗かせる。
「早えじゃん。 俺に会うの待ちきれなかったとか?」
「そんなわけないだろ! 先生が早めに来てたら絶対電話してくると思っ……」
「乗れ」
「まだ話してましたが!」
「うるせーから早く乗れ。 近所迷惑」
「~~ッキィィィっ…!!」
「それ久々聞いたな」
橘のこの、人を小バカにしているかのような薄ら笑いはいつ見ても腹が立つ。
一瞬でも橘の事を「イケメン」だなんて思ってしまった自分を叱咤して、奥歯を噛んだ。
あのキスの時は、夕暮れのロマンチックなムードにやられていたとしか考えられない。
助手席に乗り込んでイライラ時お決まりの奇声を上げて橘を睨んだが、さらなる嘲笑を誘っただけで何も効果は無かった。
「さっき歌音の様子見てきた」
低いマフラー音を響かせながら車を出した橘が、器用に右手だけでハンドルを操作しながら唐突にそんな事を言った。
いつものように、車内でもあまり無駄話はしないのだろうと決め込んで、どこに行くのか分からないままシートに深く座り込んだ矢先である。
「え!? ……ど、どうだった?」
「痩せてた。 んで、結婚促された」
「結婚をね~……って、ふーすけ先生との!? 誰にっ? 歌音さんにっ?」
「いや、歌音の親に」
「……そう、なんだ……。 でもそれって当然の流れなんじゃない? ほんとはいつ結婚の予定だったの?」
痩せてたという事は、怜の父親と引き離されたショックで食事も喉を通らないのだろうか。
歌音が現れたせいで怜の家族の歯車が狂ったのだから、自分の事だけを考えずにもう少し広く事態を把握してほしい。
橘との結婚を促したのが、歌音自身ではなく歌音の親である事に疑問が残った。
愛とは得てしてそうなるものなのか、由宇にはさっぱり理解出来ない。
加熱式タバコのスイッチを押した橘が、運転席側の窓だけを半分開けた。
「知らねー。 その辺は俺の親とあいつの親で話してはいたんだろうけど、俺は関与してない」
「関与しなよ……当事者だろ……」
「お、今日お前頭の回転早そうじゃん」
「うるさいな! なんでそう悪口しか言えないんだよ!」
「悪口じゃねーよ。 マジだし」
結婚話は橘本人のものなのだから、そんなに他人事のようでいいのだろうかと思ってしまった。
突っ込んだら突っ込んだで由宇をイライラさせるため、いつも話が逸れる。
赤信号に差しかかったので、ややシートベルトに阻まれながら橘の顔を覗き込んでギッと睨んだ。
「余計に悪いだろ! ……はぁ、ほんともう……ふーすけ先生と居ると何もかも忘れられるよ……」
睨み返してくるかと覚悟していたが、橘はチラと由宇を見ただけで怒りのバロメーターである眉間は通常であった。
その無表情を見ると、何故だか急に肩の力が抜けて怒りも和らぐ。
シートに大人しくもたれて、溜め息を吐きながら窓の外を眺めた。
怜と一緒に居たこの四日のうち、お付き合いが始まってからの二日間は戸惑いと後悔と混乱で常に体全体が緊張していた。
こうして橘が呼び出してくれなければ、週末中 甘やかしてくる怜に心を痛め続けていたかもしれない。
怜の事が好き、でも意味が違う。
たったこれだけの事を言うためにどれほど悩めばいいのか。
(でも傷付けちゃうの分かってて言えないよ……)
何度も同じ結論に達する悩みに胸を痛めていると、窓の外の流れる景色が木々だらけになってきた。
由宇の情緒に沿うからか、また切なくなってくる。
しばらく車内の二人は沈黙していて、やけに長いこと山道を走っているなと思っていると、見た事のあるペンションがお目見えした。
「あ、ここ……」
「悪い事忘れるのは良いことじゃん? あんま悩んだらハゲるからな」
「……っ朝もそれ言ってたけどさ、ハゲるって言うなよ! 男としてはそれ恐れしかないから! てかすごいタイムラグ!」
運転中の橘は今の今まで黙りこくっていたので、ぐるぐると怜との事を考えていた由宇は一瞬何の話だか分からなかった。
「ハゲたら潔くスキンヘッドだろ。 まぁそれが嫌なら俺が金に物言わしてフサフサに戻してやっけどな」
「そんなジジイになるまで一緒に居ないから大丈夫。 その頃には先生にも孫が居たりして」
「俺子ども嫌いだから作らねーよ。 子ども作る行為は好きだけどな?」
「うわっ最低!! デリカシーの欠片もない!」
「うるせー。 中入んぞ」
最低発言に目を丸くしていた由宇を置いて橘は車から降り、さっさとペンション内へと入って行ってしまった。
「調子狂うなぁ……もう……」
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