個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 凄む橘の眼力に圧されて、気持ちの悪い男は気の毒なほどブルブルと震えて腰が引けていた。


「……か、可愛いなと、思って…」
「当然だろ、俺のもんなんだから。  で?  こいつビビってたけど何か言う事は?」
「ご、ご、ごめんなさい……!」
「あぁ!?  声が小せぇ!!」
「ごめんなさいぃ!!!」


 「ま、謝っても無駄だけど」と、謝らせておいて橘は鼻で笑い、男の襟首から首元へと左手を移動させた。

 橘の背後に隠れていた由宇もまた、怒り狂った魔王の勢いに圧倒されてぷるぷる震えている。

 ブチギレにも程があると思うのだが、先刻からの「俺のもん」発言も気になるし、怜を置き去りにしてきたのかという疑問もよぎるしで、軽いパニック状態だ。

 だがパニックになどなっていられない。

 男の首を掴むという恐ろしい現場を目の当たりにしている由宇は、橘のカッターシャツの袖を引っ張って「もうやめてよっ」と再度懇願した。


「せ、先生、もうそのくらいに……!」


 すると橘は血走った目でチラと由宇を見たかと思うと、すぐにビビり上がった男へ視線を戻す。


「選択肢与えてやる。  俺がお前の首握ったまんまヒネ待つのと、自分で自首すんの、どっちがい?  あーちなみにさぁ、手のひらの感覚無くなるまで何かを握り潰すのって最高にテンション上がんだよなー。  ヒネ来るまでに頸動脈絞め過ぎちまうかもなー」
「っっ!?  じ、自首します!!!!」
「言ったな?  一時間後にヒネに確認すっから自首してなかったら覚えとけよ。  お前の気持ち悪りぃ面、俺のここにもう入ってっから逃げられると思うな」


 自身のこめかみを指先で指し示しながら男の首を解放すると、顎をしゃくって「行け」と促した。

 男は躓きながらも全速力で病院を出て行って、由宇は少しばかりあのキモい男に同情してしまう。

 握っていた首元は橘の指圧の跡がくっきり残っていたし、胸ぐらを掴まれていた際は気を失ったかのように時折膝が折れていたからだ。

 由宇にほんの少し触れただけなのに、この魔王の怒りを全身で浴びる事になった可哀想な奴である。

 とりあえずは、橘の回し蹴りが炸裂しなくて済んで良かったと思っておこう。


「来い」
「えっ、え!?  ちょっ、待って、痛いっ」


 男が逃げて行った二重の自動ドアをぼんやりと眺めていたら、橘に腕を取られた。

 とても強い力で引っ張られ、痛みに顔を歪めた由宇の抵抗も無視して無機質な個室が並ぶ院内の廊下をぐんぐん進む。

 元凶が居なくなった事で不穏な空気は消え去ったと思っていたが、未だ継続中だったらしい。

 怒りに任せて進む橘とは歩幅が違うためか、由宇は小走りで付いていかなくてはならず何度も立ち止まりたくなった。


(なんなんだよ!  何をこんな怒ってんだっ?)


 由宇の腕を握ってくる力強さで、橘がまだキレている真っ最中だと分かる。

 完全なる被害者は由宇の方なのに、なぜこんな扱いをされなくてはならないのか。

 角の個室前にやって来るとようやく歩を止めた橘は、スラックスのポケットをゴソゴソし始める。

 どこから拝借してきたのか「田中  太郎」と書かれたネームプレートを入り口に差し込み、堂々と中へ入室した。


「ふーすけ先生!  ここ空室なの!?  勝手に入っちゃマズイんじゃない!?  さっきのプレートの田中太郎って誰!?」
「てめぇ、キモい男に触らせやがったな」


 いつもと雰囲気が違うどころの騒ぎではない。

 由宇の質問はすべて無視で、血走った目でじわじわと壁際に追いやられた。

 怖くて後退っていると背中と壁がぶつかり、追い込んだ橘は両腕を壁に付いて由宇を包囲したまま頭上から不機嫌に見下ろしてくる。


「何やってんだよ。  触らせる前に逃げろよ」
「は!?  そんなの分かってたけど動けなかったんだも……!」
「あー腹立つ。  こんなキレたの久々なんだけど。  息の根止めてやるーって思ったの超久々」
「い、息の根って…!  てか先生、ち、ちちち近いよ!」


 由宇を尋問し、恐ろしい言葉を口からポロポロ垂れ流す橘は血走った目を細めて唇の端を上げた。

 今日の微笑は一段と凄みが増している。


「ペナルティが5になりましたんで。  おめでとう」
「何の話!?  待ってよ、まだペナルティ1じゃ……!」


(いつの間にかめちゃくちゃ増えてんじゃん!  てかペナルティって何だよ!)


 鼻先が当たりそうなほど顔を寄せてくる橘の視線が痛い。

 しかし、先程の男に寄られたら気持ち悪いとしか思わなかったはずなのに、橘だと何故かそう思わなかった。

 ペナルティとは何だと憤りたくても、見詰めてくる瞳に吸い込まれそうになって、知らず視線を泳がせてしまう。


「お前ひょろ長ともキスしたらしいじゃん。  それで1追加。  今のは3追加。  計5。  すげぇじゃん、二日で5も貯めるなんてお前俺を相当キレさせてんなぁ?」
「だから何の話だよ!!  さっぱり分かんな…んっっ」


 そんな事知らない、キレさせたつもりなどない、そう言おうと顔を上げたと同時に、突然キスをされた。


(ななななっなんで──!?  また先生と俺がーーー!!)


 押し当ててきた唇は、二度のキスで感じたタバコの香りがしない。
 
数秒で離れていった橘は、パニックですでに目が回りそうな由宇の理解の範疇を越える台詞を吐いた。


「ガキでもな、お前は俺の事だけ考えてりゃいいんだよ」
「……んんっ!?」


 離れたと思ったらまた口付けられて、顔を背けて逃れようとしても橘に顎を取られてしまう。

 力の差は歴然だった。

 逃げられない。  そう分かっていても、このキスは絶対に意味深いものだと悟ると怖くなって、橘の包囲から逃げ出そうともがく。

 なんの抵抗にもならなかったが。


「守ってやるから。  俺の事だけ考えてろ。  いいな」
「…っ……」
「な、由宇」
「………ッッッ!」


 顔の向きを変える毎に囁かれ続けて、しまいには耳元で意味深に名前を呼ばれて腰が砕けた。

 床にへたり込んだ由宇の前に、橘がしゃがむ。

 力無く橘を窺うと視線を合わせてきて、ふわりと微笑まれた。


「幸せにしてやる」


 片手で足りるほどしか見た事のない優しい笑顔に目を見開くと、たちまちそれは消えてフッといつもの悪魔の微笑に変わってしまった。

 長いキスの余韻から目覚めないままの由宇に、微笑みと共にそんな意味深な台詞をも投げ掛けてくる。

 ──訳が分からない。



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