個人授業は放課後に

須藤慎弥

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   誰だと聞かれても、名乗ったところで「だから誰なんだ」とさらなる追及が待っているだろう。

   橘の三白眼より遥かに年季の入った眼力は、由宇をとてつもない緊張に陥れ、縮み上がらせていた。

   こんなつもりじゃなかったのに……と項垂れると、隣の怖いもの知らずなマイペース教師が由宇を絶句させるような事を言い放った。

   いや、由宇だけではなく、間違いなくその場にいた全員の目が点になったはずだ。


「俺こいつと付き合ってるから。  歌音とは結婚出来ないって言った理由、これ」
「な、……っ?」


  驚いて、由宇は橘を見上げた。

  その横顔は、焦りや恐れなど微塵も感じさせない、いつも通りの橘風助だった。


(何──!?  つ、つ、付き合ってないよ……!?  何言ってんの先生っ?)


「嘘は吐かなくていい。  風助、お前の女の趣味は俺も分かっている」


   親玉は、信じられないとばかりに鼻で笑って橘を見ている。

   当事者である由宇ですら初耳だったのだ。

   信じてもらえるはずがない。
   

「嘘じゃねーよ。  俺はこいつが好きなんだ。  もし歌音と結婚してもこいつとの付き合いはやめねーよ?  それでも結婚させよーっての?」


(───え!?  せ、先生……今なんて……!)


   まさか由宇が告白する前に橘の口から「こいつが好きだ」という台詞を聞くとは思わなかった。

   ──嬉しい、どんな言葉よりも、嬉しい。  嬉しいけれど……。

   きちんとした告白を、由宇ではなくまず親玉に向かって言った事は百歩譲っていいとして、この状況でそれはマズイのではないかと、由宇は喜ぶよりも先に狼狽した。

   時と場所を選べよと思ってしまうのは致し方ない。

   由宇の浮ついた心が一瞬で凍り付くほど、目前の親玉の表情は険し過ぎる。


「……何を言っている。  冗談はよせ」
「俺が冗談言うキャラかよ。  歌音も俺との婚約を考え直したいっつって園田さんとここに来てんだろ。  なぁ親父さん……そろそろ子離れしたら?」
「そういう問題ではない!」


   親玉の一喝に、由宇は小さな体をもっと縮ませて俯いた。


(ヒィィっっ……!  親玉さん怖いよ~っ!)


   橘の言葉で、頭の回転が早い由宇は縮み上がりながらもこの状況を瞬時に把握した。

   歌音と怜の父親が揃ってここに居る事、橘が由宇の事を好きだと告げて歌音との婚約を解消しようとしている事、それに伴い親玉の機嫌がすこぶる悪い事……。

   結婚に向けての話し合いで、皆が笑顔で和気あいあいという和やかな場を想像していた由宇としては、再度項垂れるしかなかった。

   ──本当に、ヤバイ時に来てしまった。


「歌音はバツイチ子持ちで一回り以上歳上の男と結婚したいと言うし、風助はこんなガキと付き合っていると言う。  一体何がどうなってるんだ……」
「ガ、ガキって……むっ!」


   溜め息を吐く親玉の言い回しにカチンときた由宇が噛み付こうとしたのだが、即座に橘から口を塞がれた。


「今は抑えろ。  相手が悪い」


   耳元でそう宥められて、由宇はひとまず口を噤む。


(じゃあこんなとこに連れ込むなよ……!)


   絶対に由宇が居ていい現場ではないのに、「ちょうどいい」と謎の一言しか告げられないまま棒立ち状態なのだ。

   親玉の機嫌は悪くなる一方で、もはや誰が何を言おうと事態の悪化は免れない気がする。

   せっかく橘が告白してくれたのに、甘い雰囲気や照れくさい気持ちを抱く暇がない。

   どうしたらこの場から逃げ出せるか、そればかり考えてしまう。


「お父様、……あの……私、勘当されてもいいの。  覚悟はしてる。  今まで何不自由なく大切に育ててくれて、感謝、しています……」
「……歌音さん……」


   口火を切った橘の左隣に居る歌音は、カタカタと震えていた。

   その肩を優しく抱く怜の父親を、親玉はギロリと睨む。


「何を勝手な事を。  歌音も風助も、自分達が置かれた立場を何も分かっていないらしいな。  家を出ても解決になどならない。  姓は一生付きまとう。  お前達は人生を好きに生きられない家に生まれたんだ。  勝手は許されん」


   歌音の決意の言葉など一蹴した親玉が、強面三人衆に向かって「茶を淹れ直せ」と命じた。

   バタバタと動き始めた彼らを、由宇は唖然と見やる。


(家柄とかよく分かんないけど……先生ほんとにお坊ちゃまなんだな……)


   橘の自宅の大豪邸を見て分かっていた事だが、「人生を好きに生きられない家」とは穏やかではない。

   歌音も同じで、実家が名家だからと人生を縛られて可哀想だと思った。

   こんな事を言えば「これだからガキは」とまたカチンとくるような事を言われかねないので、心の中だけで収めておく。

   重苦しい空気の中、お茶を淹れ直した一人が親玉の元へお茶を運んだ。


「どうぞ。  ……社長、自分がこのオヤジを説得してみましょうか」


   その者が親玉にお茶を手渡しながら耳打ちする。

   丸聞こえだった。

   男の声音と表情から、話し合いのような生温いやり方で怜の父親を「説得」するわけではないのだと、由宇でも分かった。


「流血沙汰だけ避けてくれれば何をしても構わん」



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