個人授業は放課後に

須藤慎弥

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   放課後の生徒指導室。

   約一年ぶりにこの場所で橘と対面するとあって、由宇は湧き上がる緊張に何度も深呼吸を繰り返していた。


『放課後いつもの場所で』


   と、朝一で久しぶりの懐かしいメッセージを寄越してきた橘は、昼休み後に悠々と登校してきた。

   肘まであった包帯は左の手のひらだけになり、打撲部分は湿布を貼って、髪はぶった斬られた後ろに合わせて短く切っていた。

   その姿を見掛けた由宇は、橘の短髪が新鮮で思わず見惚れてしまった。

   当然ながら、包帯を見た生徒達から心配気な声を掛けられていたが、それをいつもの調子で素っ気なく交わしていて、密かに優越感に浸る。

   態度はおおよそ変わらないが、由宇と他の者とは向けられる視線がまるで違う。

   何かを訴えかけてくるかのように熱いその視線は、口下手で笑顔が下手くそな橘らしく、それだけで言いたいことを伝えてこようとする。

   その事に気付かなくて由宇は何度もパニックを起こして奇声を上げてきたが、もう彼の天邪鬼ぶりは把握した。

   想いが乗っているからさらに分かる。

   橘は正義。  だが少し抜けている。

   信じた道を突き進む実直な所が裏目に出ていると言ってもいい。

   その証拠に、「由宇には橘とは別に好きな人がいる」と、とてつもない勘違いをしていた。

   その勘違いを鵜呑みにしたまま、橘は由宇と距離を取ったという事になる。

   それは多分に、己の結婚話の件もあっただろうが、由宇の恋路を邪魔したくないという思いが如実にあったに違いない。

   真っ直ぐな橘が考えそうな事である。


(……ん?  先生遅いな)


   生徒指導室の窓から帰宅する生徒達を眺めていた由宇は、ふと壁掛けの時計を見た。


「何かあったのかな……」


   メッセージの待ち合わせ時間を三十分近く過ぎている。

   由宇が少しでも遅れたら「遅せーよ」と不満タラタラな顔で文句を言う橘が、由宇に揚げ足を取られるような事をするだろうか。

   この場から動いて入れ違いになってもいけないし、と思いながら、時間前行動を好む橘がこんなに遅くなるとは変だ。

   急遽職員会議でも開かれているのかもしれないと、由宇は荷物を持って職員室へと降りてみた。


(……っ?  あ、あれ、先生……怒られてる、?)


   ソーッと扉の小窓から中を覗いてみると、橘は幾多の教師から囲まれ、校長のデスク前で立たされていた。

   橘が誰かに説教をされている様は、レア中のレアかもしれない。

   だからと言ってスマホを掲げたりしない。

   取り囲む教師達がしきりに橘の左手の包帯を指差している事から、怪我の原因を追及されているのだと悟る。


(怪我した、って言っても通用しないんだろうな……)


   どんな状況で、どのようにして怪我をしたのか詳しく説明しろ、という尋問なのだろう。

   橘の横顔には「めんどくさい」といつもの不服がしっかり表れているが、昨日の状況を説明するのは少しばかり心配だ。

   歌音の自宅は門構えからして見るからにヤバそうで、家の中も完全にその筋の家そのもののように見えた。

   そしてあの親玉。

   完全にカタギではない面構えであった。

   教師たるもの、そんな危なっかしい家と繋がりがあるとバレたら相当マズイのではないだろうか。

   由宇は辺りを見回し、扉をほんの少しだけ開けて中の声を拾う。


「~~ですよ、橘先生。  この事が公になれば、教育委員会が黙っていません」
「そうですそうです。  ただでさえ橘先生は縁故採用だとお聞きしましたよ、その方がヤクザと通じているなどと……」
「かつて暴走族だったというのは本当ですか、橘先生」
「あぁ、副総長してた」
「なんですと!?  それは本当ですか!」
「それは由々しき問題です!」


(先生……!  正直過ぎるって!)


   校長や教頭の前だというのに、包帯が巻かれていない右手はポケットに突っ込まれていて、飄々と受け答えする橘はとても追及されている側には見えない。

   やはり昨日の件を白状させられて、学校側は「ヤクザと繋がった教師がいるなんてヤバイ」状態なのだ。

   橘は何も悪い事をしていないのに。

   これだから正義を貫く橘はかっこよ過ぎるのだ。

   周囲には一切自身の苦悩は漏らさず、橘一人で解決しようとする──。


「橘先生、このような良からぬ噂が広まる前に、自主的に責任を取っていただいてもいいんですよ」
「なんだそれ。  ハッキリ言えよ」
「それは……ですね、あの……」
「新入生持ってくれっつったり辞めろっつったり、訳分かんねーな」
「黒い交際がある者は指導者として相応しくないと言っているんです!」
「そんな交際した覚えねーし」
「しかしだな、あの会社は黒だという噂が……」
「黒じゃない。  限りなく黒に近いグレーだ」
「ほとんど黒ではないか!」


(ぶふっ……!  ダメだ、笑っていいとこじゃないのに……っ!)


   生真面目に答える橘と、ギョッとした校長の大袈裟な動揺が面白過ぎて、由宇は手で口元を押さえて肩を揺らした。

   笑いを必死で堪えながらも、橘の返答に意外なものを見た。

   てっきり、あんな風に取り囲まれて面倒な追及を受けたら、橘の事なので「いつ辞めてもいいけど」とあっさり返すかと思った。


(ふーすけ先生……先生を辞めたくないって事なのかな……?)


   橘の物怖じしない態度にザワつく教師達を、再び小窓からそろりと覗く。

   その時だった。


「あなた、こんな所で何しているの?」
「…………っっ?」



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