個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 陽のあるうちから橘と動き出したため、由宇は勝手にデート気分だった。

 外を歩くと隣の輩のせいで大注目を浴びてしまうが、構わない。

 夕食にと連れて行ってくれたイタリアンのお店でも同様、橘が入店するなり背筋がピンとなったウエイターが、頼んでもいないのにVIPルームへと二人を案内した。

 内から滲み出る金持ちオーラと、失礼があるとその瞬間にぶっ飛ばされそうな副総長オーラと、逆らうと一思いに魂を抜かれてしまいそうな悪魔オーラで、橘は一言も喋らずともお得意様扱いされている。

 何故かウエイターが個室を出て行くまでサングラスを外さなかった橘は、イタリア語と日本語が入り混じったメニュー表を由宇に託し、注文を一任した。


「先生、バジルソースで良かった?  フィットチーネ食べれる?」
「あぁ。  食えりゃなんでもいい」
「なんでもよくないじゃん。  意外とグルメだろ」
「グルメじゃねーし」
「メニュー見れば良かったのに。  色々あったよ?  俺もイタリア語はあんまり自信ないけど」


 美しく磨かれたグラスに、よく冷えたミネラルウォーターが注がれている。

 口寂しくてそれを飲んでいると、やっと橘はサングラスを外した。


「読めねーんだよ」
「え?  何が?」
「それ。  イタリア語っつーの?」
「あ、あぁ……!  でも下に和訳あるよ?」
「小せぇじゃん。  ぼやけて見えねー。  見る気にもならねー」
「プフっ……!」
「……何がおかしいんだよ」
「おっ、おかしくないよ!  ププッ……!」


 本当に、橘は橘だ。

 最初から由宇に任せていたのはそういう訳だったのかと、橘らしい理由に可笑しくなると同時に、「やっぱ好きだなぁ」と朗らかな気持ちになった。

 たとえテーブルの向かい側で恐ろしい三白眼が由宇を捉えていても、かつてのように震えは走らない。

 食事中の会話はほとんどなく、すべての料理を食べ終えたらダラダラ居座らずにすぐに席を立つ。

 それも、グラスに注がれたミネラルウォーターの最後の一滴が由宇の胃袋に収まったのを見計らって、だ。

 自分のペースを乱される事を極端に嫌う橘が、由宇を気遣っている。

 橘は、由宇が遠慮しないように、「大丈夫」と言わせないように、なけなしの優しさを掻き集めて接してくれる。

 それが感じられるだけで幸せだ。

 自動で開いた門をくぐり、車庫に車を停めて、降り立った由宇に桃ゼリーの入った紙袋を「ん」とぎこちなく手渡した橘の表情が、……好きだ。


「それパッと食ってサクッとヤるぞ」


 錦鯉に挨拶して、橘に手を握られて家の中へ入るとすぐにマイペース発言が飛び出し、せっかくの「感慨」の二文字がサッと消え失せた。


「なっ!?  な、なんで先生はそんな……っ」


 電子タバコの電源を入れて、それを吸いながらキッチンに向かった橘は、文句の付けようもないお茶を準備するらしくIHコンロのスイッチを押している。

 ダイニングではなくソファの方に由宇を腰掛けさせて、デザート用の小洒落たスプーンを手渡す橘が「どう?」と聞いてきた。

 ───紙袋から取り出してもいないのに。


「美味い?」
「まだ食べてないよ!」
「早く食え」
「分かってる!」


 そんなに急かさなくても、これを一番楽しみにしていたのは由宇だ。

 ぷいと橘から視線を外し、プラスチック製のクリアケースを紙袋からそっと取り出す。

 帰宅が夜になる事を見込んで、由宇の分には保冷剤が多めに入っていた。

 桃の半身丸ごとと、ドーム型に盛られた半透明の桃ゼリーはキラキラとしていて綺麗だが、やはりずしっと重たい。

 湯気立ち上る湯呑みと皿を持って、由宇の隣にドカッと腰掛けて足を組む橘が、不器用な由宇の代わりに桃ゼリーを皿に移し替えてくれた。


「あっ、上手!」


 ごろん、と皿に乗った、保冷剤のおかげで冷えたままの桃ゼリーから目が離せない。

 スプーンを差し込んでしまうとゼリーが溢れてしまうのではと余計な心配をしながら、ゆっくり掬って口に運ぶ。

 運んだ瞬間に桃の甘い香りが鼻に抜けて、まるで桃そのものを食べているかのような贅沢な味が口内いっぱいに広がった。


「……ん、んまぁぁぁっ」
「美味い?」
「うん!  うん!  何だこれぇ……っ!  桃ゼリーなのにほんとに桃食べてるみたい!」


 しとやかに食すべきだと分かっていても、手が止まらない。

 特に甘党というわけではないが、由宇はフルーツをあまり食べさせてもらえなかったので、このとろけるような甘さと、新鮮で瑞々しい味わいは初体験だった。

 橘御用達なだけの事はある。

 見るからにはそう見えないけれど、隣で微笑ましくその様子を眺めている恋人の姿さえ目に入らなかった。


「今口に入れてたのはほんとの桃」
「えっ」
「天然か」
「へへへへ……っ」


 想像もつかないほど美味しいものを食べ、隣には大好きな大好きな悪魔が居る。

 だらしなくヘラヘラと笑っていると頬をぶにっとつねられたが、今の由宇は何を言われても、何をされても、幸せに満ちていて怒る気になどならない。

 今日も絶妙なまろやかさの煎茶を一口頂くと、橘も自身の湯呑みで喉を潤していた。


「てかあいつらマジで付き合ってねぇの?」
「んー?  誰?」
「ひょろ長と不気味な林田」
「あだ名に悪意あるよっ?  ……うーん、知らないけど、怜が「うん」って言わないんだよ。  やる事やってるなら好きだと思うんだけどなぁ」
「年末年始の外泊は意味深」
「そうなんだよ!  週末にちょっと泊まりに~っていうのとは訳が違うじゃん。  年越しは好きな人と過ごしたいって思うもんじゃない?」
「まぁそうだな。  俺がお前と過ごしたかったみたいにな」
「うぷっ……!」



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