優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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 車が走り始めて数分、行くあてを告げられないままだった後藤さんが困った様子で和彦を呼んだ。


「どうされますか。帰宅場所が分からなければ、七海様をお送りする事が出来ません」
「……そうだね」
「一旦、和彦様のご自宅に連れ帰りますか?」
「いや……それは無理かな。こうしてる今も己の理性と闘ってるんだ。……と言っても、九条さんの自宅に送るのは癪に障るなぁ……」
「和彦様はこれより十九時までは本社勤務もあります事ですし、よく眠っておられる七海様を揺り起こすのも気の毒でございますね」
「うん……」


 頷く和彦は、さっきから俺の頭を撫でるだけじゃなく、たまにキュッと優しく抱き締めてきたりしていた。

 認めたくないけど、その腕があんまりにも心地良くて……寝たフリしてて良かった、なんて思った俺はこっそり自分で自分を戒めておく。

 何考えてんだ。

 こいつは、こうやって優しいとこ見せといて突然ガオーッて襲ってくる狼なんだぞ。

 冷房で冷えてしまった体を、この温かい腕が優しく包み込んでくれたとしても、うっとりなんてしちゃいけない。

 もう起きてしまおうかとも思った。

 後藤さんと和彦は、俺をどこに送ればいいかって話をしてるんだから、いい加減に寝たフリをやめなきゃいけないと分かってたのに。

 目覚めた俺を、和彦はすぐに突き放してきそうで起きたくなかった。

 ……あれ……俺、矛盾してる……?


「七海さんが使う予定だった部屋って、今も綺麗な状態だよね?」
「はい」
「じゃあ寝かせてあげようか。目を覚ました時に僕が居ると嫌がるだろうから、先に僕を本社に送って。それから七海さんを本宅に。目覚めたら後藤さんが送ってあげてくれる?」
「かしこまりました。では、そのように」


 え、……和彦の奴、俺置いてどこ行くんだよ。

 「僕が居ると嫌がるだろうから」って何。

 俺への猛烈なる後悔を胸に抱いてる和彦は、やっぱり今俺が目を覚ましたらすかさず距離を取るつもりなんだ。

 頭を撫でてくれる優しい手のひらが、一瞬で、後悔を含んだ罪悪感いっぱいの手のひらになる。

 思い入れの強かった「初めて」の話を聞かされて、俺も和彦の事を苦しめてしまってるのかもしれないけど、それはお互い様だ……!

 俺もあの日からずっと……ずっと、体がおかしいんだから。

 怒りの感情なんて四六時中持ってていいもんじゃない。

 和彦のせいで体調よくないし、嫌な人間になったし、どうしてくれるんだよ。

 責任持って治してよ。

 治してからどっか行ってよ──。

 俺は隠れて、少しだけ拳を握った。

 嫌だから、許せないから、顔も見たくない、和彦なんて忘れてやるんだからって思ってたのに、いざ冷たくされたら「なんでそんな態度取るんだよ」ってムカついてしょうがなくなる。

 九条君が言ってた、「七海は矛盾してる」の意味が……分かった。

 ──俺は矛盾してる。

 でもなんでそんな風に思うのかは分かんないよ。

 それがあの難問の答えなんだろ?

 分からないんだよ。

 俺は自分の気持ちが……分からない。


「……七海さんはきっと、僕を許さない」


 走り続けた車はやがて停車し、和彦がドアを開ける間際に俺をもう一度優しく抱き締めた後、小さな声でそう呟いてから降車した。

 俺の事を、どこまでも優しく後部座席に横たえて、最後にふわりと髪を撫でて。


「行ってらっしゃいませ、和彦様」
「……行ってきます。七海さんをよろしくね」
「かしこまりました」


 ほんとにどっか行きやがった。

 腫れ物に触るような扱いをしていた和彦は、寝たフリした俺を置いて、車からどんどん遠退いていく。

 薄目を開けて和彦の背中を見たくても、ご丁寧に横たえてくれたから外の景色が見えなかった。

 ここはどこなんだよ。

 こんな時間から、和彦はどこに行ったんだ。

 あ……そういえば後藤さんが「和彦様は十九時まで本社勤務」とか言ってたっけ。

 和彦、今から仕事に行くって事?

 そっか……勉強と仕事を両立させてるのか。

 お城みたいな家や、そこに居た複数のメイドさん達の存在からして和彦は明らかにお坊ちゃんだし、てっきり夕方からはあの広過ぎる部屋でのんびりと自分の時間を過ごすもんだと思ってた。

 食事も睡眠もあんまりとれてないって言ってたのに、そんなに頑張って大丈夫なのかよ。

 ……って、それは俺が和彦を追い込んでしまったからなんだけど……。


「…………後藤さん」


 俺はゆっくり上体を起こした。

 和彦が居ない今、もう寝たフリしてる必要はなかったから声を掛けたんだけど、運転中だった後藤さんはビクッと肩を揺らして驚いた。


「──っ!!」
「あっ。すみません、驚かせて」
「いえいえ、起きてらっしゃったのですか」
「はい、……少し前に……」
「おはようございます、七海様。それで……どちらへお送りすればよろしいでしょうか?」
「え……っと、じゃあ……家に」
「家、というと、七海様のご自宅ですか?」
「……はい」
「どなたかのお家に泊まられているのでは?  怪しい男が七海様のご自宅の周辺でウロついているとの事でしたので、てっきり七海様は……」
「あ……いや、実は誰の家にも泊まってなくて……」
「ご自宅に居られるのですか? 和彦様も心配しておられましたが、それは危険ですよ」


 これは……言わなきゃいけない流れだ。

 後藤さんは、するすると本音を引き出すのがめちゃくちゃ上手い。

 話すつもりはなかったのに、話さざるを得ない方向に持っていかれた。


「そ、その……家で寝てるわけじゃないんです」
「……というと?」
「これ和彦には黙っててほしいんですけど、……今ネットカフェ難民なんです、俺」



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