優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 何の邪魔も入らず、不自由もなく、心を脅かす出来事も起きない二人だけの世界に行けたら、どんなにいいだろう。

 七海さんの舌は、何度交わっても脳内が麻痺するかの如く極上で、甘い。

 体内で轟々と燃え盛る恋火の熱が、少しずつ少しずつ全身をかけ巡る。昨日の分を取り返すみたいに、しつこく舌を追ってしまう。

 抵抗もしないで僕に身を預け、積極的なキスを窺わせる七海さんの背伸びは愛おしさしかない。


 ……七海さん、……七海さん、七海さん……。



「……ん、っ……ふっ、っ……」


 このまま時間が止まればいいのに。

 七海さんのとろける様に甘い舌と、下半身を無条件に疼かせる尊い声を永遠に堪能していたい。

 ……あぁ……今すぐ抱きたい……。


「和、彦……っ、……パーティー、行かなきゃ……っ、……ぅむっ」
「あと一分だけ」
「んん……っ? ……っ」


 腕時計を確認すると、そろそろ後藤さんから「何をしているんですか」とお叱りの連絡が入る頃合いだ。

 分かっていても、離れたくない。唇が、舌が、意思を持って離れてくれないんだからどうしようもない。

 舌先で奥歯を舐めると、やめろって風に七海さんの舌が攻撃してきた。

 すかさずそれを捕まえて、苦しいと背中を叩かれるまで吸い上げるとちょっとだけ満足する。

 僕だけに許された支配欲が……満たされる。


「はぁ、……っ、もう……っ、急に盛るなよ!」
「ごめんなさい……でも、七海さんこそ急にエッチな顔しないでください……。こうなるんだから」
「どんな顔だよっ。てか早く行こ!」
「あ、待ってください」


 頬を真っ赤に染めた七海さんは、俯きがちに僕から離れて足元に置いた鞄を肩に掛け、すぐに踵を返す。

 呼び止めても歩みを止めない七海さんを追い掛けて、重たい鞄を優しく奪った。

 余韻に浸る時間も加味したのに、耳まで赤くしている横顔を覗くと僕まで照れてしまう。


「な、なに?」
「名前、教えてください。セクハラしていた「偉い人」の名前が分からないと、僕も動きようがありません」
「あぁ……。……聞いても驚くなよ。そんで、絶対に、私情は挟むなよ」
「はい、分かりました」


 中央の螺旋階段から降りるらしい七海さんと並んで、物々しい言い様に感化されて神妙に頷く。

 私情を挟むな、って……どういう意味なんだろう。

 考え込む間もなく、その答えはすぐに出た。

 七海さんは階段の中央で一度止まって、赤みの引いた真剣な顔を僕に向けてから一呼吸起き、静かに口を開いた。


「──占部のお父さん」


 七海さんと同じ段への一歩を踏み出そうとした足が止まる。

 聞き間違いかと思った。

 そんなはずはないのに、他でもない僕の七海さんが言う事なんだから間違いであるはずなどないのに、冗談でしょう? と言いかけて急いで手のひらを口元へやった。


「……占部さんの……?」
「そう。占部昭一、営業一課の部長だろ」
「そ、そんなまさか……占部さんのお父様が……」
「今日のパーティーにも来るよね?」
「えぇ、それは……いらっしゃると思いますが……」


 その人物ならもちろん、名前も顔も思い出す事が出来る。

 占部さんのお父様である事、そして今僕が配属されている課の部長だから、何なら毎日その顔を見ている。

 だからなのか、にわかには信じられない。

 当然、女性社員にセクハラしている事実など少しも匂わせず、僕の素性を知る占部昭一はごまをするように僕へのあたりは穏やかだ。

 呆然とする僕を置いて、七海さんは階段を一段一段ゆっくりと降りていく。


「顔と名前を一致させときたかったんだ。まかり間違って人違いだったら大変な事になるだろ。あと、この際だからもう一つ報告しとく」
「……もう一つ?」


 僕を振り返った七海探偵の頭に、ハンチング帽の幻覚が見えた。

 信じて話してくれるのは嬉しいけれど、セクハラ事件とは別にまだ報告すべき事があると聞けば、立ち止まらずにはいられない。

 キスの余韻も呆気なく飛んでしまって、僕の眉間には濃い皺が浮かんだ。

 ひどく複雑な胸中を抱えて、再び歩み始める七海さんを追う。


「これは俺、偶然聞いちゃっただけだから確証はないんだけど、個人的な出費を経費で落とそうとしてる奴も居るみたい。うまく誤魔化しとけ、って誰かが課長に言ってた」
「そっ、……そんな不正まで……!? 七海さん、たった五日で二件も悪事を発見したんですか……!」
「たまたまだよ。経費の件は昨日聞いた。松田さんが定時に上がったから、分かんないとこを課長に確認したくて探してたら……小会議室でコソコソそんな話してたんだ。働かせてもらっといて何だけど、和彦のお父さんの会社どうなってるんだ」


 大会社って闇だらけなのかな、……そんなごもっともな所感を呟くと、七海さんはルームシューズから靴に履き替えた。

 僕も革靴を履いて、七海さんの手を引く。

 待ちくたびれた後藤さんは車外で待っていて、玄関から出てきた僕達を見付けるや急いで後部座席のドアを開けた。


「急ぎますから、シートベルトを装着してください」


 後藤さんの慌てた様子から、時間が押しているのだと悟ってもなかなか七海さんの手を離せなかった。

 僕は今まで、本当に無駄な時間を過ごしてきたんだ。

 周囲を遠ざけ、自らのすべき事からも目を背け、孤独に、ただ会社のために生きるんだと、漠然と真っ暗な未来を思い描いていた。

 ──結局、何一つ出来やしないのに。


「和彦? 大丈夫? セクハラ男が占部のお父さんだった事、そんなにショックだった? って、そりゃそうか……ショックだよな……」


 シートベルトを装着しようと解かれる寸前、繋いだ手を強く引いた僕の様子に気付いた七海さんが、心配そうに顔を覗き込んできた。

 後部座席に乗ると手を繋ぐ。いつからかこれは僕らの暗黙のルールになっていた。


「いえ、……あ、それもかなりショックなんですが、僕は自分の腑抜け具合を痛感してしまいました。一年以上勤めていて、一つもそういう悪事を見付けられなかったんです。よくある事だろう、と自分の中で処理して、あとは淡々と与えられた仕事だけしていればいい、たとえ何かあっても僕の浅薄な意見など通らない……そんな腑抜けた考えを持っていたんです」


 七海さんの視線が僕に向けられていても、自嘲気味に笑う事しかできない。



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