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三日月の夜、影が跪く(僕は恐怖で声が出なかった)
しおりを挟む三日月が、研がれた刃のように夜空に突き刺さっていた。
学園の帰り道、
いつも通りの退屈な夜のはずだった。
それなのに、不意に首筋を撫でた生温かい風に、僕は背筋を凍らせた。
幽霊、呪い、そんな非科学的なものが何よりも嫌いだ。
だって、僕にはそれに対抗する術なんて何一つないのだから。
「ひっ……」
逃げようと足を踏み出した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
夜気が意志を持った獣のようにうねり、黒い突風が僕を飲み込む。
重力すらも奪われ、
心臓が跳ね上がる。
次に意識が戻ったとき、僕の足は地面から離れていた。
「……え?」
そこは、見知らぬ廃ビルの屋上だった。
コンクリートを叩く風の音と、肌を刺す冷気。
僕は――誰かの腕の中にいた。
パニックで震える目を上げると、
そこにいたのは「夜」そのものが人の形をしたような男だった。
二メートルを越える、見上げるような巨躯。
黒ずくめのタイトな服装の上からでもわかる、鋼のように鍛え上げられた身体。
濡羽色の黒髪の隙間から、
闇の中で妖しく光る紫の瞳が、じっと僕を射抜いている。
「…………っ!」
怖すぎて、声が出ない。
彼が放つ圧倒的な威圧感だけで、
僕の生存本能が「逃げたい」と叫んでいた。
けれど、彼は僕を放さない。
それどころか、
彼は僕をそっと床に降ろすと、
その場に深々と膝をついた。
「私は、あなたにお仕えしたいのです」
低く、深く響く声。
その言葉は、凍てつく夜の空気の中で驚くほど丁寧に、そして熱を帯びて響いた。
「お、仕え……? 僕に?」
何故?と言おうとした言葉は、
彼の瞳を見た瞬間に喉に貼り付いた。
その瞳は、まるで、
何年も探し求めていた光を見つけた巡礼者のように揺れている。
僕の震える指先に、
彼の大きな手が触れた。
手袋越しでも伝わる、硬く、冷徹な殺戮者の手。
けれどその触れ方は、
壊れ物に触れるような、
痛々しいほどの慎重さに満ちていた。
「理由などは、些末なこと。
……ただ、決まってしまったのです。
私の命も、
私の術も。
すべては、
あなたを守るためにあるのだと」
僕の背後、闇の中から得体の知れない「影」が蠢くのが見えた気がした。
彼が使役する怨念か、あるいは僕の怖がる霊的な何かか。
その紫の瞳に、一瞬だけ、ゾッとするような独占欲の光が混じる。
お仕えする。
守る。
その甘い言葉の裏側に、
逃げ場のない深い闇の檻を感じて、
僕はさらに押し黙って、
ひたすらに身を固くした。
これが、僕と彼――
最強の忍との、
めちゃくちゃで、
幸福な暮らしの始まりだった。
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