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ミエナイ・クサリ

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 ──今夜はひどい雨だった。
 空から降り注ぐ無数の雨粒が窓ガラスを乱暴にノックする。
 当然、窓は開けない。

 部屋の中ではバタバタと音を立てるガラス板より高く大きい金切り声が反響している。

 声の主は僕の母だ。
 母は皿を掴み、狂ったように床に叩きつける。
 母は疑心に憑りつかれてしまったのだ。

 僕は異常に震える自分の小さい肩を両手で抱きしめ、部屋の隅で縮こまっている。
 母が奇声を上げるたびに、もはや優しかった母はどこにもいないと思い知る。
 頬は痩せこけ、頬骨がうっすらと浮き出ているその形相は鬼よりも恐ろしく見える。

 母は血の繋がっていない父さんが不倫していたことを知ってしまった。
 バレたのは先週だ。

 その日は結婚記念日で、父には二人で友達の家に泊まると言い、ケーキとクラッカーを買ってきてサプライズするはずだった。
 ケーキは最近人気の有名パティシエのショートケーキ。それに父さんの好きなイチゴのタルトを選んだ。母は父の喜ぶ姿を想像してウキウキして僕に笑いかけた。

 しかし、家に着くなり、母の表情はそれまで明るかったとは思えないほどに曇った。
 その原因は僕にも分かった。

 女物の靴、それに脱ぎ捨てられた服。
 ダメ押しとばかりに二階から聞こえる嬌声。

「お母さん……」

 僕は母の袖を引いた。
 母の顔はその時にはもういつもの優しい母ではなかった。
 母は僕の持っていたケーキの箱を奪い取り、壁に向かって叩きつけた。
 悲しげに床に転がる箱を見つめている内に心の底から込み上げてくるものがあった。
 僕はそれを必死にせき止め、上へ登ろうとする母を何度も呼んだ。

 それ以上、上に進めば母がいなくなってしまいそうだったから。

「お母さん……お母さん……お母さん!」

 階段を登るたびに母の足音が大きくなり、それに反比例するようにあれほど漏れていた嬌声が小さくなっていく。

 ──なんで今日なんだよ、お父さん。
 今日じゃなくて良かったじゃないか。
 僕は潰れた箱を持ち、母のあとを追う。

「あんた……誰よ、そいつ!」

「これは……その……──すまない」

「奥様!これは違うんです!私が、私が部長を」

「あんたには言ってない!!」

 今でもあの時の光景を覚えている。
 僕が部屋に着くと、父と不倫相手の女性が土下座していた。
 裸なのを見るとやはりそういうことなのだろう。

 裸で土下座する父の姿は滑稽以外の何物でもなかった。
 もちろん女性の方も。
 そんな二人に母はありとあらゆる罵詈雑言を浴びせた。

 僕は耳を塞ぎ、部屋の外でうずくまった。

 しばらくすると、母が部屋から出てきた。
 目の下を腫らして、虚ろな目をしていた。
 母は何も言わずに、下へ降りて行った。

 とにかく悲しかった。
 母がどれだけ父を愛していたのかを知っていたから。

「……」

 ──沈黙。
 家の中はそれでいっぱいだった。
 僕はおそるおそる部屋を覗いた。
 すると、不倫相手の女は申し訳なさそうな顔で何度も座り直し、父は顔を真っ青にして俯いていた。

 父は厳格──とまではいかないが、厳しい人だった。
 テストで悪い点をとれば拳骨が飛んでくるし、習い事をサボれば一日ご飯を抜かれたこともあった。
 それでも僕は父を嫌いにはならなかった。
 良い点をとったり、習い事で良い成績をとったりすると、頭をクシャクシャと撫でてくれたから。
 優しくて大きい父の手が僕は大好きだった。

「そんなになるなら最初からしないでよ……」

 僕は父の前にボロボロの箱を置いた。
 父はハッとしたように僕を見上げた。

「今日……何の日か、わかる?」

 これだけは聞きたかった。

「結婚……記念日だ」

「知ってたんだ」

 父はまた俯いた。
 父の肩が情けなく下がるのを見て、なぜかそれが哀れに思えた。

「知ってて、お母さんを裏切ったんだ」

「……すまない」

「この人といる方がお父さんは幸せだったの?」

「……」

「僕たちなんてどうでもよかったの?」

 抑えていた涙が込み上げてきた。
 父にとってこれまでの僕たち家族の思い出がこんな見ず知らずの女性との思い出よりも劣っているなんて。
 信じたくはない。
 だが、沈黙は続いてしまった。

「そっか……」

「あ、あの……」

 不倫相手の女性が僕に向かって話しかけてきた。

「部長……お父さんは悪くないの。私がお父さんを一方的に」

「一方的に?そっか。それじゃあ許してあげるよ。
 ほら仲直り──ってなるわけないだろ……っ!
 僕たちの傷はそんな浅くない!
 お母さんの顔を見た?ねえお父さん。見たよね?
 僕も同じ気持ちだ!
 あんたなんて僕のお父さんなんかじゃない。
 僕の知っているお父さんはお母さんを傷つけたりしない!!

 僕のお母さんはお父さんにあんな顔をしたりしないんだ!!

 ……消えろ。僕たち家族の前から消えろ!」

「俺はただ……あいつに振り向いて欲しかった、だけなんだ」

 結局、僕も母と同様に罵詈雑言を浴びせてしまった。
 今思えば、あんなことを言ったからお母さんはおかしくなってしまったのかもしれない。
 それから二人はトボトボと家から出て行った。

 ──二日後。
 いよいよ母がおかしくなった。
 父の名を呼びながら部屋中を彷徨い始めたのだ。
 ご飯を食べずにひたすら。

 ──また三日後。
 母が何もないところに話しかけ始めた。
 僕は怖くて見て見ぬフリをした。

 そして、今。
 僕の中で一つの結論が生まれた。
 それは……。

「お、お母……さん?」

 母が包丁を持って僕の目の前に歩いてきた。
 表情は以前の優しい母そのものなのに、僕はそれに畏怖を抱いた。

「いつも一緒よ……良介」

 母が僕に優しく抱きついた。この温もりが懐かしいと思った。
 出来ることならこのままずっとこうしていたい。
 だが、

「う”う”う”!!?」

 包丁が腹に刺さった。
 刺された部分がとてつもなく熱い。
 痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 何も考えたくない。
 僕の思考の大部分は『なんで母がこんな事をするのか』でもなければ『母をどうすれば救えるか』でもない。
 純粋な『生きたい』という生存本能だった。

「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!」

「大丈夫……すぐにお父さんもそっちに送るから……ごめんね」

 母が暴れる僕を押さえつけ、もう一度刺した。
 ──死ぬ。
 僕はそう直感した。

 ここ数日、こうなることは予想はしていた。だが、実際それを目の前にすると体が思ったよりも動かないものだ。

「お”……があ……さ……」

 上手く呂律が回らない。

「な~に?良介」

「ごえ……ごえんね……おどうざん……に消えろ……って言っちゃった」

 自分でもなぜこんなことを話しているのかは分からない。でも、止められない。
 徐々に痛みが無くなってきた。

「おかあさんの……大好きなお父さんに……消えろって言っちゃった」

「……そう。辛いわよね……今、お母さんが楽にしてあげるから」

 母が包丁を握り直した。

「お”かあ……さん……」

「向こうで待っててね」

「生まれてきて……ごめんなさい」

 結局、僕は漫画の主人公にはなれなかったな。

 こうして平凡な僕の人生は終わる。
 わずか10年の物語だったが平凡で恵まれた僕には勿体ない物語だった。
 僕じゃ無かったら何か変わっただろうな。
 父から、それに母から逃げた僕が主人公になれるわけが無かったのだ。

 瞼が閉じていくにつれてどこまでも落ちていく感覚に襲われる。
 だというのに不思議と怖くない。

 ……暖かい。
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