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第81話 あなたに血を捧げたい

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 ――血は……美味しい。

 そう考えた瞬間、違和感に気づいた。違和感と言うか、さっきまでの気分の悪さはどこかに消えてしまって、頭の中がすっきりしているというか、意識が研ぎ澄まされる感覚が芽生えている。

 ほんの少しでも、血を飲んだからだろうか。
 ミカエルの――と、俺の視線が彼の口元に向かい、彼が唇の中にできたであろう傷口を探って指先で触れているのを見て、思わずベンチから立ち上がってしまった。

 事故のようなものだ。
 そう、俺の意思ではないし、よく使われる言い回しであるアレ、犬に噛まれたと思って忘れてしまえ、というやつ!

「顔が赤いです、我が女神」
 ふ、と笑う彼がベンチに座ったまま俺を見上げている。いくら魔道具の明かりがあるとはいえ、暗い場所だ。人の顔色なんかまともに見えはしないだろう。
 そう思いながら、逃げ出したくてじりじりと後ずさろうとするとミカエルの手が俺の手首をつかんだ。
「いや、あの」
 俺は軽く頭を振りながら、アイテムボックスの中にある蘇生薬をもう片方の手で取りだした。「傷を治すならこれで……って、効きすぎか? くそ、店の傷薬のレシピがまだなんだ、俺」
 わたわたとしている俺にミカエルは首を横に振って、蘇生薬の瓶を見つめた。
「つまり神に血を飲まれたとしても、その薬があればすぐに体調は元通りになるわけですから、何も心配することはないということですね?」
「いや、違うし!」
 そういう意味で出したんじゃねーし!
 くわっと目を見開き、蘇生薬の瓶をどうしようかと見下ろした瞬間。ミカエルが瓶を俺から取り上げ、楽しそうにそれを手の中で弄びながら続けた。
「もしも、私の血が美味しいと感じたなら、試してもらえませんか」
「は?」
「私は前から言っている通り、あなたのことが好きです。あなたの唯一になりたい。心も体も、全部捧げたらあなたは私のものになってくれるだろうかと……いつも考えています」
「いやいやいや」
「考えるとゾクゾクしませんか? 私の血があなたの一部になるということ。それはある意味、究極の愛に感じませんか? だから、私はカオルに嫉妬していると……思います。あなたに傷をつけられるのは、私でありたい」
「マジやべえ。変態って呼びたい」

 ミカエルの手にさらに力がこめられる。俺が振り払えば簡単に自由になるだろう。でも、そうできないのは何故なのか理解したくない。

「昔、この国でも厭な事件がありましたよ? 究極の愛を求めた人間の話です。惚れているから誰にも渡したくなくて相手を殺し、死体とずっと暮らしていた女性。それに比べれば、我々は随分と健康的だ」
「極端すぎ!」
 健康的とかそういう話じゃなくて。
 俺が化け物だから危険だという話をしていたはずなのに。だから距離を置いた方がいいって方向に話を持っていきたかったはずなのに。

「私の血では不満ですか」
 急に、ミカエルが俺の手を引いた。自然と俺は彼の膝の上に倒れこむような形になり、身を引こうとする前に抱きしめられる。
「試してもらえませんか。それで、もしも私の血で良ければ……もう、カオルの血は飲まないと約束してくれませんか」
 耳元で囁かれる声がくすぐったいし、妙に艶っぽい。

 駄目だ、これは駄目だ!

 へいへい、ちょっと落ち着こう!
 何かつまらないジョークを飛ばしてこの空気を吹き飛ばせ。三峯だったらきっと、あのお気楽さでとんでもないことを言うだろう。それを真似して、ミカエルの気を挫こう。
 じゃあ、何て言うか――。

「あなたは私にとって、唯一の『女性』です。あなたが何を気にしているのか解りませんが、我々の関係は『間違い』ではないでしょう?」
「いや、だって俺の心は」
「肉体は女性でしょう? 何が問題ですか?」
「だっておかしいじゃないか。心が男である俺が……好きになるのは女性のはずで」
 何とかミカエルの拘束から逃げようと身を捩るが、彼は不思議そうに笑うだけだ。
「うーん……そうですねえ、何て言ったらいいのか難しいんですけど。ええと、もしも私が女性でしたらどうです?」
「女性?」
「はい。今のこの性格で、こんな感じの金髪女性だったとして。もしもあなたに一目惚れして言い寄ったら、どう感じます?」
「それは」

 ……俺、チョロいから流されたかもしれないな。

 ミカエルがもしも女性で、すげえ美女だったりしたら。今と同じようにぐいぐい迫られて、それで俺に尽くしてくれてしまう系だったら。
 優しくされたりしたら、絆されることだってあるだろうし。それに俺、恋愛に慣れてない。一発で落ちる自信がある。

「女神が問題視しているのは、私の性格ではないと捉えてもいいですか?」
「……それは、まあ」
 恐る恐る、俺はミカエルの腕を叩きつつ何とか離れようとした。
 というのも。

 やべえ。
 こうして抱きしめられていると、妙にはっきり伝わってくるのはミカエルの鍛えられた筋肉というか。その、男性の肉体、だ。
 彼の腕にすっぽり収まってしまう、俺のコンパクトサイズな肉体。

「……ミカエル様は悪い人ではないと思ってますし、その」
 そう何とか絞り出した俺の耳元で、彼の笑い声が小さく響く。どうしよう、このむずがゆくなる感じ。
「だったら、やっぱり試してください。私が望むんです、あなたに血を捧げたい、と」
「……駄目ですよ」
 そう返しながらも、自然と俺の目が彼の喉元に向かってしまう。

 まだ、俺の喉の奥にミカエルの血の味が残っている気がした。それに彼の唇の中にあるだろう傷口。彼が言葉を発するたびに、伝わってくる……僅かな魅力的な香りが。

 俺の唯一の矜持にも似たもの。
 血を吸うなら女の子がいい。
 だからカオルを選んだ。中身が男であろうと、あいつの肉体は今、女の子だから。
 でも。
 どうしよう。

「お願いします、我が女神」
 見上げた先のミカエルの双眸は、いつもよりずっと優しく見えた。見間違いだと信じたいのに、凄く――駄目だろ、これは!
 駄目だと言い聞かせているのに、いつの間にか俺はミカエルの喉に顔を近づけさせていて、暗闇の中でも魅力的に脈打つ血管をその皮膚の下に確認していた。

 牙を突き立てたのは必然だったのか、それともこの場の空気に流されただけだったのか。
 皮膚を食い破って、喉の奥にとろりと流れ込んでくる血は――やっぱり甘かった。一度口にしてしまうと、自然と俺はミカエルのシャツを掴んで引き寄せ、喉を鳴らすことしかできなくなる。そうして気が付かされるのは、俺が酷く空腹を覚えていたんだということ。
 血を飲むことで得られる幸福感は、どこか性的な興奮と似ている。
 腹の奥が熱を持ち、もっと、と願う。
 ミカエルが僅かに身体を震わせているが、その唇から漏れる吐息は俺と同じ。明らかに何らかの興奮によるもの。俺の腰に回されていた彼の腕にも力がさらに込められた。早鐘を打つ彼の心臓の音まで聞こえる気がした。

「……凄い」
 俺の牙が彼の首から離れていくと、惜しそうに俺を見つめた彼の目が細められた。そして、俺が彼の上にのしかかっているという体勢であったのに、いきなり反転させられた。
 俺はベンチの上に押し倒されていて、ミカエルが逃がさないという意思を込めて俺の肩を掴んでいた。
「さっき、我が女神は変態って言いました? それ、事実かもしれません」
「女神っていうの、おかしい」
 俺はミカエルから目をそらすことができず、つい唇を尖らせた。「いつだってそう呼ばれるのは重かった」
「じゃあ、アキラ様」
「……うん?」
「血を飲まれるのって、凄く気持ちいいと感じるのは変態ですか?」
「いや、それは」

 カオルもそう言ってたし。
 吸血鬼に血を吸われると、そうなんだろ、きっと。ミカエルだけじゃなくて、世間一般的にそうなんだ。
「そういうもんだと思うから、別に……」
「でもちょっと、まずいかもしれませんね」
「何が?」
「今、もの凄く……興奮していて。何だか、駄目だと頭では理解しているのに、あなたを本当の意味で『女の子』にしてしまいたいと思ってしまう」

 ――え。

 どういう意味だ、と首を傾げそうになったが、その前にミカエルは俺の喉元に顔を寄せて、軽く噛んだ。
「おい!」
 俺が慌ててミカエルの胸に手をやって、押し返す。俺の腕力ならそれくらい簡単。
 ミカエルは少しだけ残念そうに笑った後、ふとその瞳に奇妙なまでの熱を込めて囁いた。
「アキラ様は私のことを悪い人ではないと言いましたが……間違ってます。私は悪い男なんです。隙を見せたら危険ですよ?」
「見せないし!」
「どんな手を使っても逃がすつもりはありませんから。覚悟してください」
 そう俺の耳元で囁いてから、そっと身体を離してポケットに入れていたらしい蘇生薬を取り出し、一気に飲んだ。その途端、彼の喉にあった牙の穴は綺麗に塞がり、彼の顔色もよくなったように思えた。俺、そこそこの量を飲んだかもしれない。
「さて、帰りましょうか。神殿で何があったのかも知りたいですし、色々聞きたいです」
 でもまるで、何もなかったかのように笑う大天使。その顔をじっと見つめていると、彼は俺がベンチから起き上がるのを助けてくれた。

 急激に襲ってくる自己嫌悪。
 やっちまった、という思いが頭の中を渦巻いている。

 でも、血は美味しかったし身体がとんでもなく軽くなって、力が湧いてきている。

 ミカエルは俺の手を引いて、三峯の喫茶店へと足を向けた。その背中を見つめながらそっとため息をつき、心の中で言い聞かせるのだ。

 逃がさないと言われても、俺には彼から簡単に逃げることができる。だから、どうしても彼と一緒にいるのが無理だと思ったらマチルダ・シティに逃げ込んでしまって出てこなければいい。
 それが俺に残された、唯一の逃げ道。だから大丈夫、と自分に言い聞かせているのに。

 逃げられないような気がしているのは何故なんだろう。
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