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第106話 幕間25 ジョゼット

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 ――凄い力。

「ね、スージー」
 背後から抱き着いたわたしを引きずるように、わたしの声など届いていない様子で歩いていく彼女。わたしは彼女より一回り小柄だし、腕力もないので仕方ないのかもしれないのですが、でも。
「待って。お願い、待って」
「呼んでる」
「幻聴よ、きっとそう」
 そうなのです、わたしには何も聞こえない。先ほど聞こえていたはずの悲鳴も聞こえない。
 それなのに、スザンヌはぎこちなく首を振って言いました。
「……贄を捧げよ、って」

 どうやっても引き留められないのを理解して、わたしは彼女を一度、解放します。すると、夢見るような足取りで暗い廊下を歩いていきます。
 もちろん、わたしは彼女の後をついていきました。聖女たちの宿舎から神殿へとつながる渡り廊下へ。
 すると、渡り廊下の両脇には中庭や裏庭へとつながる道が現れます。もちろん、夜遅いですからどこも真っ暗。

「失礼ですが」
 そんな中、誰何の声がかかりました。
 裏庭を見回っていた聖騎士の男性なのでしょう、甲冑の擦れる音を立てながらこちらに近づいてくると困惑したように首を傾げます。彼の右手ある魔道具のランプが辺りを青白く照らし出し、彼が一人でここにいることが解ります。
「聖女様? ああ、ジョゼット様とスザンヌ様でしょうか? 失礼ですがもう夜も遅いのですが、どちらに行かれようと?」
「ああ、ごめんなさい」
 わたしは何て応えるか悩みましたが、スザンヌはやっぱり彼の言葉が聞こえていないのか、そのまま歩いて行こうとします。
「あの、聖女様。もうお部屋にお戻りください」
 そう言った彼の言葉をわたしは遮り、こう訊いてみました。
「騎士様、何か聞こえませんでしたか?」
 わたしはスザンヌの左手首を掴んだままでしたから、自然と歩きながらの会話になりました。騎士様もわたしたちの後についてきて、同じように神殿の中へと向かいます。
「何かとは?」
「悲鳴とか……助けを呼ぶような感じの?」
「……」
 一瞬だけ、そこに沈黙が降りました。
 そして遅れて彼は言うのです。
「いいえ、何も聞こえませんでした」

 当然ながら、それは嘘だろうと感じます。それでも、食い下がるわけにもいきませんからわたしは小さく笑って頷きました。
「そうですよね、聞こえませんよね? でも、彼女は責任感が強いというか……その、何かあったのではないかと不安みたいで、少し様子を見てきますから」
 だから、ついてこないでいいですよ、と言下に伝えたつもりだったのですが、彼は静かに付き従います。

 でも、騎士様がいれば少しは安心なのでしょうか。
 そう思い直し、わたしはスザンヌと一緒に神殿の中に入り、『あの』地下へと続く奥の階段へと向かいます。
 すると、騎士様が目的地に気づいたようでした。
「……そちらは、神殿長様が」

 行くな、と皆に伝えている場所。
 そう騎士様は言いたい?
 そうでしょうね。例の階段は、後ろを歩く若い騎士様には立ち入ることを許されていないところなのだと思います。

「こちらから、悲鳴が」
 わたしが言うと、やがて後ろから困り切ったような、怯えのようなものを含む声が追いかけてきます。
「口止めされていますが、実は、聖騎士の仲間もその声を聞いたことがあるそうです」
「やっぱり?」
「あの」
 そこで、騎士様の声が低くなりました。「こんなことを訊くのは失礼だとも解っています。私は新人で、まだほとんど何も知らないというか。だから、あの話は本当なのかと……その」
「あの話?」
 歩きながらそっと振り向くと、青白く照らし出された騎士様の顔が浮かび上がっています。甲冑の面を上げているから、不安げな双眸もはっきり見えました。
「神殿長様は、神託を聞く方なのだ、と。神のお告げを聞き、この世界をより良くするために活動をされていると聞きました。だから、犯罪の撲滅に力を入れている……と」
「……そうですね、わたしもそう聞いております」

 神殿長様は、邪悪なものを憎む方だと思っています。
 魔族領に棲む魔物や獣人といった存在はもとより、この世界に生きる人々の間に起こる犯罪も憎み、排除しようとされています。あの方の言葉はいつも重く、切実な響きがあります。
 それでも、時々――。

 神の教えには、敵を許せ、という思想もあるはずです。しかし、神殿長のその考えは……随分とその思想から逸脱しているのを感じたりもするのです。

「時々……」
 騎士様が躊躇いつつその言葉を口にします。「犯罪を犯していない者も……と懸念しているのは、私の思い違いですよね?」
「え?」
「いや、少し怖くなってきたというか。いやその、うん、気のせいですね」
 唐突に思い直したように。
 まるで自分に言い聞かせるような言葉。
 でも、わたしも同じでした。神殿長様を信じたい。何しろ、この神殿で唯一、神託を受けることのできる方なのですから。

 そうしているうちに、階段が目の前にありました。
 スザンヌは相変わらず、何の躊躇いもなくそちらへと歩み寄ろうとします。でも、さすがにそこは我々聖女でも立ち入りは許されていないのです。
 背後に立った騎士様の制止する声も響きました。

 でも。

 わたしはつい、スザンヌの手を放してしまいました。自分の口を両手で覆い、悲鳴を上げるのを堪えます。
 地下へと続く階段はまるで黒い湖のように波打っていました。全体的に靄がかかったように、それでいて生き物のように蠢いているような。

 それに、階段の奥から黒い腕のようなものが無数に湧き出ているように見えたのです。

「……今の」
 わたしは慌てて騎士様を振り返ります。「見ました? 階段から……」
「何が、でしょうか」
 首を傾げて見せる騎士様に嘘は感じられませんでした。本当に困惑したようにわたしを見つめています。わたしは慌ててもう一度階段へと目をやると、ちょうどスザンヌがその靄を身体に纏わりつかせるようにしながら、地下へと続く階段を降り始めていたのです。

「駄目よ!」
 わたしが必死に彼女を追いかけた時でした。
 スザンヌが階段を踏み外したのか、ぐらりとその身体が傾いで、一気に転がり落ちていきます。
 さすがに騎士様も慌てた様子で、こちらに駆け寄ってきます。すると、彼の持っていたランプが暗い階段を明るく照らし出します。石造りの何の変哲もない階段。
 その事実に勇気づけられるように、わたしもゆっくりと壁に手を当てながら下へと向かいます。

 息苦しい。
 靄のようなものが身体の周りに纏わりついて、寒気を感じさせる。

「騎士様」
 わたしはどうしても不安に駆られてそう振り向くと、階段の上で足を止めていた彼も思い切ったようにこちらへ降りてきます。
 ありがとう、ありがとう。
 ほっとして何度もそう呟いた気がします。騎士様はわたしの前に立って、ゆっくりとスザンヌを助けるために階段を降り切ったのです。

「スージー、いえ、スザンヌ?」
 そこにスザンヌの姿はありませんでした。
 階段は結構降りたと思います。だから、あれだけの段数を転がり落ちれば怪我をしているのではと思ったのですが。

 ぼんやりと明かりに照らし出されたそこは、わたしが考えていた以上に広い空間が広がっています。廊下にしては随分と広いと思っていると、騎士様がランプを高く持ち上げると、遠くに壁と扉があるのが解りました。
 まさか、スザンヌはその扉の向こうに?

「酷い匂いですね」
 騎士様が左腕を自分の顔の前に上げ、辺りに漂う悪臭に苦々しい声を上げました。確かに、鼻が曲がりそうなとんでもない匂いがします。何かが腐ったような、湿気のある……吐き気をもよおすような。
「帰りましょう、ジョゼット様」
 急に、騎士様がわたしを振り返り、どこか必死といった響きの声で続けました。「私がスザンヌ様を後で救助します。ですから、ジョゼット様は上の安全なところに待機して貰えますか」
「でも」

「困りましたね」
 そこに、酷く静かな声が響きました。
 わたしは思わず騎士様の腕にすがり付き、新たに聞こえた声の方へ目をやります。すると、階段の上から青白い光が滑るように降りてきました。
 かつかつ、という足音は一人だけのものではなく、複数。
 数人の人影の前に立っているのは、背の高い男性。白い神官服に身を包んだ、神殿長様でした。その年齢を示す長い白髪と、灰色の瞳。いつも柔和な笑みを浮かべ、優しく諭すように語る口調。
 そして今も同じように、静かにわたしを見つめて言いました。
「侵入者が聖女様だとは……本当に、困りました」
「あの、神殿長様! 実はここに、スザンヌが」
 わたしがそう言いかけている間に、神殿長様の背後にいた年配の聖騎士様たちがぐるりと周りを取り囲みます。まるで、ここから逃がさないと言いたげに、腰に下げた剣の柄にも手をかけながら。
「新人への教育も行き届いていないようですね」
 神殿長が言ったその言葉に、聖騎士様の一人が申し訳ないと頭を下げました。そして、聖騎士様は胸に手を当てながら短く続けます。
「贄として使用します」

 ――贄。

 つまり。

 がしゃん、という甲冑のぶつかる音がして、わたしと一緒に来てくれた騎士様が他の騎士様に両脇から拘束されます。
「あの! その騎士様は無関係です! わたしが無理やりここまで……」
 そう言いながら若い騎士様の前に立ちましたが、そんなわたしの腕も強く捻りあげられ、痛みに呻き声を上げます。
 そんなわたしの顔を覗き込むようにして、神殿長様が微笑みました。
「ここに足を踏み入れた時点で、あなたもその聖騎士も、贄として選ばれた証のようなものなのです。本当に残念ですよ、ジョゼット様。あなた様は他の聖女様たちよりも聖なる魔力が強いというのに」
「し、神殿長様?」
「いえ、むしろ魔力が強いからこそ、贄として優秀。ええ、どこかの下賤な犯罪者などよりもずっと。そうなのかもしれませんね」

 そこで、誰かが息を呑むような音が響きました。
 いいえ、誰かじゃなくて。
 わたしだったと思います。

「さて、こちらへ」
 そう他の騎士様たちに促した神殿長様の唇の形は、まるで刃のように鋭いと思いました。
 わたしたちの前にあった扉が他の騎士様たちによって開けられ、暗闇に覆われた空間が姿を見せます。それと、さらに強くなる悪臭。足元から這い上がる寒気。

 神殿長様が軽く右手を上げると、その広い空間に明かりが灯ります。壁に取りつけられたランプが、ぽっ、ぽっと次々に光を放って。

 わたしたちの前に、恐ろしいものが照らし出されたのです。
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