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第111話 闇の中の会話

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「何だこりゃ」
 三峯が呆然と『神』とやらを見上げている。そのためか、彼が発動していた必殺技に隙ができたのかもしれない。
 巨大な白い手に身体を拘束されていた神殿長が、苦痛と呪詛を吐きながら身を捩らせる。骨が砕けるような音を聞いて、皆の視線がそちらへと向かう。

 すると、神殿長の口から今までとは違う声音で――男とも女ともつかない、奇妙な言葉が広がった。

『神に背く者たちよ』
 その声と同時に、ふと俺の頭の中に危機感が生まれた。この感覚には覚えがある。俺の直感は当たる。
『お前たちはこの世界における異物』
 神殿長の身体を掴んでいた巨大な白い手にひびが入る。そのひびは少しずつ広がっていき、砂が散るように壊れていった。
 三峯が舌打ちするのが聞こえる。
『排除せねば』
 その途端、彼の背後の肉塊がその奇妙な足をぞろりと動かした。血のプールから出てこようとしている。足に力を入れて動くたびに、肉が裂けるような、ぶちぶちという音が響く。赤黒い液体が飛び散る。

『我が声を聞くとよい』
『贄を捧げよ』
『尊き犠牲を』

 次々に発せられる声。
 その声はおそらく、神殿長が聞いたという神託だろうか。人間とは違う声が、俺たちの頭の中を侵食していくように広がる。

 肉塊が血のプールから出て、石畳をぎこちなく歩き始めた。白い少女が悲鳴じみた声を上げ続け、その間に肉塊が巨大化していく。少女の位置が天井へと近づいていく。
「マジきもい」
 ジャックが『うえー』と吐くような仕草をしつつ、大鎌を構え直した。その横に並んで、三峯が「質量保存の法則は無視か」と呟いている。でも、二人は少しずつ後退していくのだ。
 そこで俺は思わず、傍にいたミカエルの手を掴んだ。
「ヤバい気がする」
「アキラ様?」
「援護が必要……?」
 まるで、自問自答のような言葉になってしまった。シロさんが俺の傍に素早く移動してきて、そんな俺の顔を覗き込んでくる。
「どうする、アキラ君」
「シロさん」
 俺は狼男の顔を見上げて言った。「マチルダの援護が必要だと思う。それと多分、魔王様とか。多分、俺たちだけじゃ無理だ」
「解った。マップを使えばすぐだ。行ってくる」
 シロさんは話が早い。そう言い終わった瞬間、俺たちの目の前から姿が掻き消える。ミカエルは自分はどうしたらいいのか、という問いかけをその瞳だけで投げかけてくる。聖獣もこちらを振り返りながら、肉塊に向かって唸るのをやめていない。

 誰もが判断待ち……と考えた瞬間、俺は自分の口が勝手に動くのを感じた。

「ジャック、三峯、下がれ!」

 ミカエルが俺の名前を呼んだのが聞こえる。
 しかしそれは、急に俺たちに襲い掛かってきた黒い蔦と赤黒い靄に覆われて掻き消えた。

『お前たちは血を持たぬ者』
 声が聞こえる。

 でも、気が付いたら俺は暗闇の中に一人だけ、立っていた。
 辺りを見回しても誰の気配もない。ミカエルも、聖獣も、三峯やジャックも。
 上を見上げても、暗闇。全ての音を吸収してしまうような、変な空間。耳が痛くなるような圧迫感すら感じられる。

『殺せぬのなら……』
 その声が遠くなった。

「ミカエル様!? おい、三峯!」
 ヤバいと感じて叫ぶが、急に足元に何かが這い上がってくるのを感じて身体を硬直させた。見下ろしても何も見えない。自分の手も足も、何も見えない。
「呑み込まれた?」
 俺はそんなことを呟く。
 あの黒い靄に呑み込まれたのだろうか。そして、戦力を分断された。
 足が何かに拘束されていて動かない。何とか必死に身体を捩っても、だんだん両足から麻痺のような感覚が広がっていって――。

 思わず、アイテムボックスを開くため手を伸ばす。手はまだ動く。でも、いつもだったら見えるであろうメッセージウィンドウも開かない。アイテムボックスは開いているはずだ。手を伸ばした瞬間に、指先が薬瓶に触れたのが解る。
 でも、それが何の薬なのか解らないのだ。
 蘇生薬だろうか、それとも別の薬か。

 悩んでいる間にも足の痺れはゆっくりと膝上へと広がる。
 駄目だ、これに呑み込まれたら意識を失う。そんな気がして、俺は薬瓶を口につけてそのまま呷った。

 さっきも言ったはずだ。
 俺、幸運値は高いんだ。だから大丈夫!

 不安に駆られつつも薬を飲み下すと、あっさりと麻痺が消えた。そして、両足の感覚が戻ってくると足が動かせることにも気づいた。
 ありがとう、幸運値。
 逃げ道を探してくれ、俺の幸運値。

 辺りを見回したが、暗闇はずっと暗いままだ。光なんてどこにもない。
 闇雲に動いて大丈夫だろうか、と悩んでいると、どこからか声が聞こえた。
 あの神……いや、邪神の声じゃない。
 俺が一番嫌悪を感じる人間の声。

「ねえ、話を聞いてるの?」
「お母さんのお願いなの。解ってくれるわよね?」
「あなたはいい子なんだから」
「妹のようになっては駄目よ?」
「お母さんの頼りはあなたしかいないの」

 ――母親。

 心臓が急に暴れ出した。
 どこから聞こえる? 何だこれ、幻聴か?
 両手で耳を塞いでも、その声は頭の中に入ってくる。

「あなただけはどこにも行かないわよね? ずっとお母さんと一緒にいてくれるわよね?」
「いい子ね」

 ――やめろ。

 違う。これは幻聴だ。俺は今、日本にいないはずなんだから。
 俺はゲームの中の世界に……いや、別の世界に来ている。あの母親のいない世界。自由に生きられる世界。俺が好きに生きてもいい世界。

「ずっと、一緒にいてくれるわよね?」

 身体を這い回る感覚。
 腕を掴まれる。手を握られる。まるで、恋人にするかのように。醜悪に歪んだ笑顔と共に吐き出される声は、まるでコールタールのように粘ついている。

 ――俺は。
 ――厭だ。

 大学を出たら、アパートを借りるんだ。母親の手が届かない場所に行く。俺に抱き着いて離そうとしないあの腕を振り払って、そして。

 耳元で聞こえた。

「逃がさない」

 悲鳴を上げたと思う。
 生理的嫌悪に突き動かされるようにして、暗闇で藻掻く。両腕を振り回し、宙をかき混ぜるように。何も触れることのできない空間。
 でも確かに、嫌悪とか悪意とかが俺の中に生まれる。心が黒く染まっていくのを感じる。悪意の渦に呑み込まれてしまったら、俺はどうなるんだろう。

「くそ、これは違う」
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。きっと、あの邪神が俺に聞かせているものだ。俺の心を折ろうとでもしてるんだろうか。でもな、俺は負けない。あの家でずっと我慢してきた。大学を卒業するまで頑張るって決めて、必死に努力してきたんだ。
「俺は母さんのところには戻らない。帰らない。俺は自由になる」

 この世界に来てから、考えないようにしてた。
 できるだけ見ないようにしてた。
 いつか元の世界に戻るなんてことを考えつつも、この世界のシステムが面白かったし、ゲーム感覚が抜けなかった。それこそが逃げだったのかもしれない。

 やっぱり俺は、帰りたくないんだ。
 もしも、マチルダ・シティに一人だけになってしまっても、こっちの世界で活動できるならそれでもいい。

 俺は、別に独りきりになってしまっても――。

『我が女神』
 ミカエルの声が聞こえたような気がした。
 これも幻聴だ。俺はミカエルがいなくても生きていける。俺があいつらの傍にいるのはただ単に、便利だから。
 ……それだけじゃないって気づき始めているけど。
 でも、俺は。

「大丈夫、俺はここで生きていける」
 そう呟く。

 そこで、何故か足元が少しだけ明るくなった。見下ろすと自分の身体の周りが少しだけ光が生まれていて、暗闇を照らし出しているのが解る。
 その光はじわじわと広がり、少しずつ暗闇を溶かしていく。

 ――ああ、こっちだ。

 何故か、そう唐突に気づいて俺は歩きだす。出口はまだ見えない。でもきっと、こっちに出口がある。そう思って歩き続けていると、今度は別の声が聞こえた。

「父さんが危篤だって言うから、俺は」

 暗闇に響いた声は聞き覚えがありすぎるものだった。
 辺りを見回しても何も見えないけれど、最初は小さな声だったそれも、じわじわと近づいてくるようだった。

「ごめんなさいね、健吾。よほどのことがない限り、帰省なんてしてくれないでしょう? だから……」
 優しい女性の声も響いてきた。

 ――健吾。三峯健吾。

「母さんは……いや、俺は母さんに失望したよ」
 三峯の声がじわじわと冷えていく。目に見えないというのに、その声音から明らかな軽蔑が聞き取れると表情すら何となく予想できるというものだ。
「失望って。わたしは、健吾のためを思って」
「はあ? 俺のため? 俺のためだったらどんな嘘でもついていいってのかよ。父さんが危篤って。俺がどんな思いで帰ってきたと思うんだよ」

「ねえ、健吾君、落ち着いて」
 そんな言い争いの仲裁に入る、別の声。年配の女性の声だが、酷く優しい響きなのにどこか……厭なものが含まれている。
「あなたのお母さんは健吾君のことを思ってるの。少し話を聞いてもらいたいの。こうでもしないと健吾君が家に帰ってくることがないって聞いてね、わたしからも助言ができたらって思って」
「親子のことに他人が口を挟まないでください」
「ねえ、健吾君。あなたのお母さんはね、会合に出て欲しいって思ってるのよ。お父さんだっていつ何があるか解らないでしょう? やっと病気も治ったけど、体力だって随分落ちてしまったみたいだし。それに、あなたの不信心さがお父さんの病気の再発を誘発するかもしれないって思わないの?」
「はあ? 何だよそれ」
「ね、だからちゃんとわたしたちの話を聞いてちょうだい。一緒に会合に出ましょう? 教祖様はあなたのために祈りを捧げてくれる。あなたのお父さんの命も教祖様が救ってくれたの。だからきっと、あなたの心も救ってくれる。正しい道を見せてくれるわ」

 一瞬の間の後に。
 三峯が苛立ちを露にした声で叫んだ。

「教祖様、教祖様、教祖様! あんたたちはいつだってそうだ! 馬鹿じゃねーのか!? 父さんのガンが教祖様の祈りのお蔭で治ったって? 馬鹿じゃねーの? 病院にかかってたからだよ! 教祖様とやらの祈りで治ったわけじゃないんだ!」
「健吾君! そんなことを言っていたら地獄に落ちるわよ!?」
「ああ、落としてみろよ! すげえ立派な教祖様だよな! 会合に出ないってだけで俺を地獄に落とす!? やってみやがれってんだ!」

 ――そうか。

 これが、三峯の抱えている問題か、と思う。だから彼も、俺と同じように日本から逃げ出したかったのだろうか。そしてマチルダに選ばれたんだ。

「なあ、母さん」
 三峯が鋭い口調で続けた。「いくら、この教祖様とやらに金を払った?」
「え?」
「払ってるんだろ? 会合に出るたび、お布施とやらを出してるんだろ?」
「え、ああ、健吾の分もちゃんと払ってるわよ? わたしが代わりに、いつも……」
「そんなことを言ってんじゃねーんだよ!」

 三峯の声はやがて微かに震え始めていた。
 苦痛だろうか、失望だろうか、絶望だろうか。

「その金があったら、もうちょっと楽な生活を送れたんだよ。父さんだって仕事の掛け持ちとかしなくて済んだ。体調が悪くなった時、すぐに病院に行けた。何で、そんな簡単なことが解らないんだ……」
 三峯の声がじわじわと低くなる。震える。泣きそうなものになる。

 駄目だ。何とかしないと。
 俺はそこで暗闇の中、手を伸ばす。声が聞こえる方へ。
 俺の身体はさっきよりずっと光っているみたいだ。だから、手の先もぼんやりと明るい。

「どうして、嘘なんかついたんだよ。俺が父さんのことを心配する心を利用して満足かよ……」

「三峯!」
 俺は必死に叫んだ。

「俺は、母さんのことが」

 ――駄目だ、言うな。後悔するようなことは言っちゃ駄目だ。

「母さんのことが」

 その時、俺の手が誰かの――三峯の腕を掴んだ。
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