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第121話 幕間28 坂上琢磨

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「あの子からはちょっと相談を受けてるのよね。だから、少しだけ待っていてあげて? 多分、無事に帰ってこられると思うから。行って、帰ってくるだけ。たったそれだけなのよ」
 マチルダが俺に言った言葉を思い出す。
 あの子――というのは、凛のこと。凛がこの世界から向こう側に行ってしまう。でも、帰ってくる? 本当に? いや、それよりも何故?

 そっと辺りを見回しても、あの巨大な化け物との戦いの後で誰もかれもが忙しく、俺の方へ目をやる者はいなかった。
 さりげなく神殿の入り口の辺りに立ち、空を見上げる。暗いだけの夜空とは違って、今は少しだけ明るく思えた。

 いつもならここで、俺の隣には凛が立っていたはずだ。どうでもいいようなことを話し、どうでもいいようなことで笑う。
 何だか無性に、自分が孤独な気がした。

 自分が弱い人間だということも、些細なことで傷ついて向こうの世界から逃げてきたことも解っている。他人の目が怖いと感じるのは、今でも変わっていない。恋人にいいように利用された間抜けな男だというのは、俺の周りにいる人間だったら誰でも知っていたことだ。
 責めたい相手――栗本綾音という人間は事故で死んだ。
 あの時、自分の心の中に芽生えた悪意を持て余して、綾音の友人にぶつけたけれど……余計に重苦しい感情を抱くだけに終わった。
 綾音の友人であり、俺のサークル仲間。彼女は綾音と違って物静かで、いつも穏やかに笑う女の子だった。俺たちは結構仲が良かったと思っていたから、裏切られたという思いが強かったのだ。
「君も裏で笑ってた? 正直、軽蔑する」
 俺の敵意を投げつけられた瞬間、彼女――藤堂さんはくしゃりと顔を歪めて、その細い指を震わせながら俺の腕を掴もうとした。それを振り払って、彼女の言葉を、言い訳を聞くことを拒絶した。

 何故か、罪悪感だけが残っただけだった。

 だから余計に、自分の気持ちに整理がつけられないでいる。俺が責めるべきは藤堂さんじゃなく、綾音だ。俺を裏切っていた彼女を思い切り罵って、綺麗に別れられていたらこんな気持ちにはならなかっただろう。
 こんなもやもやした感情を抱えたまま、周りの人間から腫れ物を扱うようにされたら――もう、どうでもよくなってしまった。

 それに、こちら側で――マチルダ・シティで、初めの村で、凛と一緒に生活しているのがとても楽しいことに気づいてしまった。だから、帰りたくなかった。
 自分が獣人アバターであることは、こちら側の世界ではマイナス要素だった。
 でも、一緒に楽しく暮らしていけるやつが一人でもいれば、何とかなるものだ。

 ここには、友人となってくれた凛がいる。
 それだけで充分な気がしていたから、唐突に俺の目の前から彼が消えた光景は酷く恐ろしかった。
 一人でここに――マチルダ・シティに残されたら、俺はどうしたらいいんだろうか。

「よう、兄ちゃん」
 俺がぼんやりと立ち尽くしたままになっているのに気づいたのか、魔族領に帰ろうと動き出した獣人の一人が俺に声をかけてきた。
 俺よりも頭二つほど大きい男で、簡単な防具くらいしか身に着けていないから、俺と違って肩や腕までびっしりと毛で覆われているのも一目瞭然だ。そしてその顔は、ライオンをいかつくしたような雄々しさと、気の良さそうな雰囲気が共存している。
 金色に輝く瞳で俺を見下ろした彼は、かかか、と笑って続けた。
「いい動きだったじゃねえか。小さいのによく頑張った」
「小さい……」
 俺はつい苦笑してしまう。これでも、人間の間に立っていれば大きな方なんだが、確かに彼から見れば俺は子供にも等しいのかもしれない。
「あんたは人間の領地に住んでるのか? たまには魔族領に遊びにこいよ。好きなだけ暴れ回れるし」
「魔族領、そうか」
 目の前にいる、獣人の群れ。彼らは俺たちより皆、体格もいいし強そうだ。それに、獣人アバターの俺なら何の不自然もなく溶け込めるだろう。
 そうか、一人きりでここで生きていくことになったら、そういう道もあるのだ。

 俺はその後、マチルダ・シティに戻った。
 日付が変わった時間帯だったから、自分のホームに入ればログインボーナスがアイテムボックスに入る。いつもと変わらないルーティンワークだ。

 ただ、凛のホームに行っても、鍵がかかっていて中には入れないだけで。
 いつもなら、凛が笑顔で俺を出迎えてくれるはずなんだが。
「行って帰ってくるだけ、とマチルダは言ったが、どういうことなんだ? ただ向こう側に帰るだけじゃないのか。何のために? どうして俺には何も相談してくれなかった? 本当に帰ってくるのか?」
 物言わぬドアに向かってそう呟き、ため息をつく。
 そのままマチルダ・シティの中を歩き回る。大広場に出ると、いつも俺たちが座って会話している椅子とテーブルが見えた。実際の時間が反映しているから、この大広場も夜の光景だ。街灯が照らし出しているが、静かで仄暗い。
「一人で歩くには、寂しすぎるな、ここは」
 俺はふと、そんなことを呟きながら誰もいない大広場を見回した。

 朝になった。
 アキラ君たちがどうしているのか、あの化け物と戦った後のフォルシウスという街がどうなっているのか気にならないと言ったら嘘になる。
 それでも、凛のホームに足を延ばして、鍵がかかっていることを知ると何もしたくない気分になった。マチルダは「帰ってこられると思うから」と言ったけれども、それが無理だったらどうするつもりなんだろう。
 どんどん気分が落ち込んでいく。
 それでも――初めの村、アルミラのことは気になる。村長の奥さんのオルガさんはとても優しくて、明るい。あの笑顔に随分と助けられた気がする。
 ずっとこんな気分のまま、マチルダ・シティにこもっているのも精神的につらい。
 俺はそこで軽く頬を両手で叩き、アルミラに向かうことにした。

「あらあら、今日は一人? 珍しいじゃないの!」
 村に入って、自分たちが借りている家に向かう途中、オルガさんが俺に声をかけてきた。まだ朝も早い時間だが、もうすでに野菜を売っている店は営業中だ。だから、彼女の腕の中にはたくさんの野菜が詰められた紙袋がある。
「持ちますよ」
 俺はそう言って彼女に微笑むと、あらあら悪いわねえ、と言いながら紙袋を渡してきた。
「じゃあ、せっかくだからうちで朝ごはん食べていって! ちょうど、いいベーコンがあるのよ!」
 にこにこ笑いながら彼女は言い、さらに通りすがった小さな店の前で足を止めた。鶏肉と卵を販売している店。もうすでに俺もそこでは顔なじみになっている。
 魔族領も惹かれるが……やっぱり、こういう小さな村の方が平和でいい気がした。
 随分と村を守る壁も高くなったけれど、まだ手をつけたいところはたくさんあるし。

 そんなことを考えながら、オルガさんと一緒に村を歩く。
 そして、いつもと変わらない平和な一日が始まり、一日が終わった。

 夜になって、マチルダ・シティに戻る。相変わらず、彼のホームの家には鍵がかかっている。
 やっぱり、もうここには戻らないつもりなのだろうか。
 マチルダは、待ってあげて、と言った。だからまだ待つつもりではあるけれど――どうしたらいいのか、誰か教えて欲しい。

 そして翌日も、アルミラでオルガさんと一緒に行動した。
 俺はやっぱり、弱い人間なのだろう。他人の目が怖くて一人になりたいと思っていたはずなのに、実際には孤独には耐えられない。
 マチルダ・シティの他のユーザーは、俺よりも複雑な環境に生きてきたような人間が多いようだ。アキラ君たちと一緒に行動していると、聞くつもりはなくても自然と耳に入ってきてしまう。
 彼らに比べたら自分は――と情けなくもなるが、人それぞれ、痛みを感じる場所が違う。それを恥じるつもりもないし、必要以上に自己嫌悪に陥る必要もない。
 ただ俺は、今まで通りやればいい。

 そんなことを考えながら、俺がアルミラの水路を点検している時だった。
「あの」
 そんな女性の声が聞こえて、俺は顔を上げる。水路の中を歩いていたから、そのままざばりと音を立てて脇に上がると、声をかけてきた女性に目を向けた。
 長い金髪、抜けるように白い肌、額にあるサークレットにはキラキラと輝く宝石。尖った耳と、白い服。それは、エルフアバターなのは確かなのだけれど。

 女性、だ。

 凛がそのまま女性になったような風貌であるけれど。

 俺は何て声をかけたらいいのか解らず、眉を顰めただろう。
 すると、彼女は俺から気まずそうに目をそらしながら口を開いた。
「……実は、その。森の魔女にも相談していたし、マチルダにも言ったんだけど」
「え?」
「その、実は、私は色々シロに嘘をついていたんだ。その中でも重要なのは、『これ』だけど」
 彼女はそう言いながら、服の裾を細い指先でつまんだ。スカートのようになっている服。その下にはスパッツのようなものを履いているとはいえ、何だか妙に――艶っぽい仕草のように感じて俺は目をそらす。
「これ、って」
 そう言った俺の声は掠れていた。

 ああ、そうなのか、と頭の中では理解していたけれど。
 それにしても。

「ごめん、シロ。わたし、元々の性別は女なんだ」
 彼女がそう小さく笑い、俺はそっと顔を上げて彼女の瞳を見つめる。申し訳なさそうな笑顔と、どこか泣きそうな目元。不安げな声音は、きっと今の状況を恐れている。
「マチルダ・シティには、男として登録していたから……その、マチルダに頼んでみたんだよ。一度向こう側に帰って、性別の変更はできないかって」
「性別の変更……」
「ほら、一度登録すると性別を変えるにはアカウント再登録しないといけないよね?  そうすると、持ってるアバターも全部消えちゃうし、アイテムもゼロになってしまう。でも、マチルダが今のデータを引き継いで、性別だけ変更できないか頑張ってみるって言ってくれたから、その」
 少しだけおろおろとしつつ、必死に説明をしようとする彼女――凛。

 凛、なのだ。
 目の前にいるエルフアバターの女性は、凛、なのだ。

「女の私だと、迷惑かな」
 そう彼女が俺の顔を見上げてくる。
 どうしたらいいのか解らない。いや、本音は……嬉しいのかもしれない。凛が女性であったことが、とても嬉しい。
「そんなことはない」
 何とかそう言葉にすると、凛は苦し気に笑う。それが少しだけ意外だった。
「他にも、嘘をついていることがあるんだ。でも、まだ言う勇気がなくて」
 彼女がそっと後ずさるので、思わずその細い腕を掴んで引き留める。
「いいよ。帰ってきてくれて、嬉しいから」
 そう俺が言うと、彼女の眉間に皺が寄った。

「いつか、言うから。全部、隠していることを言う。それでシロが私から離れても、別にいいから」
「離れない」
 離れるはずがない。そう想いを込めて言っても、彼女は困ったように首を傾げるだけだ。そして、こう続けた。
「それまではもう少し、友達でいさせてくれる?」

 ――友達。

 ああ、そうか。

「もちろん。俺たちは友達だろう?」

 そう返しながら、俺たちの関係が少しだけ形を変えていきそうな気がしていた。
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