逢う魔が時

みるみる

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前編

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「‥‥はぁ、なんて事なの。」

 ロクシー侯爵夫人はまもなく息子の結婚式が始まるというのに、控え室に籠り深いため息をついていました。

「イブリン、ここを開けるんだ!お前はこんな事でラウールの結婚式を台無しにしてしまうのか!?」

 ドンドン、ドンドン、

 夫が自分を叱責しながら激しく扉を叩く音が聞こえましたが、夫人は耳を塞いでそれを無視しました。

「奥様‥。」

「ごめんね、サラ。私も本当はこんなところで駄々をこねて息子達に迷惑をかけたくはないの。‥でも、一体どんな顔をして皆んなの前に出ればいいの?私‥とても笑顔なんて作る自信ないわ。今だって‥もう‥涙が止まらないの。すぐに泣き止む事ができるなら、もうとっくにしてるわ。」

 夫人に昔から仕えてくれている侍女のサラが心配そうな顔で夫人を見つめます。

 夫人がなぜこんなにも泣いているのか‥

 実は昨日、息子ラウールの結婚式に参加する為夫の愛人が屋敷に泊まったのです。

 しかも、いつのまにか女の子まで生まれていたと言うではないですか。

 ラウールの結婚式に、その子供を出席してさせて正式にこの侯爵家の養女として迎えると宣言すると言うのです。

「‥まさかこの大切な日に堂々と愛人とその子供を出席させるなんて‥。しかも私に事前の相談もなく‥。」

 夫人は顔を両手で覆い、おいおいと泣き続けました。

 夫婦間に特別な愛情がなくとも、共に息子ラウールを立派に育てあげていくという共通の目的に向かい協力し合い、絆も深めてきたという自負があったのに‥まさかこんな形で裏切られるとは‥。

 夫人はしばらく泣いた後、深く深呼吸をすると‥屋敷から持ってきていた小さな木箱を取り出し、引き出しから透明なシートを取り出して、それを両手で広げました。

「‥大丈夫よ、サラ。これでもう落ち着くはずだわ。‥化粧はいいから髪をすぐに直してくれる?式が始まる前に皆さんに挨拶をしなくてはね。」

「‥奥様、そのシートは何なのですか。」

「‥このシートは、一種の仮面よ。私がこの侯爵家に嫁いで来る前にお母様がくれたの。‥どうしても心が折れて辛い時に、これをつけると笑顔を保てるのですって。‥まあ、心までは晴れなくともこれで体裁だけは取り繕えるはずよ。‥本当はこんなものを使いたくなかったの。1日中つけていると怖い副作用もあると言うし‥でも仕方がないわ。」

 夫人はそう言うと透明なシートを顔に貼り付けて、満面の笑顔をサラに見せました。

「‥奥様、素敵です。まるで心が洗われるような‥美しい笑顔でいらっしゃいます。」 

「そう?ありがとう。さあ、扉を開けて行きましょうか。」

「はい、奥様。」

 夫人が扉の外に出ると、鬼の形相で仁王立ちする夫と目が合いました。

「あなた、わがままを言って皆様にご迷惑をかけてごめんなさい。少し休んで心を落ち着かせていただけですの。」

 夫人はそう言って夫である侯爵に深々と礼をしました。

「‥そ、そうか。」

 侯爵は、夫人が扉を開けたらすぐに騒動を起こした事に対して叱りつけるつもりでいたのですが‥

 あまりにも優雅で落ち着いた夫人の振る舞いやその笑顔に圧倒され、夫人を叱るどころか、言葉自体発する事を忘れてしまいそうになりました。

 夫人はそんな夫に満面の笑みを浮かべて言いました。

「愛しいあなた、どうかしましたか?」

「えっ、あっ、いや‥なんでもないよ。‥ただ‥今日の君は、いつもの口数が少なくて大人しい君らしくないな。何だか調子が狂う‥。」

「あなた。私が頑張って良き妻を演じているのですから、あなたもしっかりと下さいませ。私とあなた、共に仲の良い夫婦をこれまでだってずっと演じてきたではありませんか。それも今日で終わりなのですよ。さあ、晴れ晴れした気持ちで私達のラストステージを迎えましょうよ。」

「‥演じる?今日で終わり?‥なんの話をしているのだイブリン。」

「フフフ、あなたを愛してるわ。」

「‥そうか、何だか煙に巻かれたようだが‥まあ良い。」

「フフフ。」
 
「‥‥。」

 夫人は侯爵の腕に手を添えてご機嫌な様子で結婚式に向かいました。

 その後、ラウールの結婚式と結婚パーティーは滞りなく行われ、ロクシー侯爵夫妻も胸を撫で下ろしたのでした。

「イブリン、今日はよく頑張ったな。」

「あなたに褒められて嬉しいわ。」

「イブリン、お前も疲れただろ?今日はゆっくりと休むといい。」

 侯爵がそう言って夫婦の寝室から出て行こうとするので、夫人がそれを慌てて止めました。

「‥まだ駄目よ。愛人と娘の所へ早く行きたいのでしょうけど、今晩は駄目!あなたと私はなのよ。」

「‥すまない。明日は必ずお前と寝るから‥。」

「あなた‥。」

 夫人の制止もきかずに、侯爵は愛人の元へ行ってしまいました。

「‥あなた、今晩だけでもあなたを独り占めしたかったのに‥。」

 夫人は顔に貼り付けていた透明な仮面を取り外しました。

 すると途端に深い悲しみが再び夫人を襲いました。

 透明な仮面は‥平常心を保ちながら自分の本心を言えるようにする仮面でした。

 では引き出しにあったもう一つの真っ白な仮面は?

 夫人は木箱の引き出しから白い仮面を取り出すと‥躊躇なくその仮面を顔に貼り付けました。

 すると途端に夫人の悲しみは消えていきました。

 白い仮面は‥全ての感情を消してしまうの仮面だったのです。


 空っぽになった心で見る景色は、夫人にとってとても味気なく退屈なものでした。

 夫人はやる事もないので、しかたなく目を閉じて眠る事にしました。


 ‥その日夫人は、生まれてはじめての深く心地よい眠りにつきました。そして‥丸二日間も眠り続ける事になるのでした。
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