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順 3
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俺はそれから数日後にハローワークで失業の申請をして、失業保険をもらいながら再就職先を探し始めた。自分の人生には望がいてくれれば充分幸せだから、それ以外の余計なことを考えるのはやめようと心に誓った。だがそれなのに、不思議な出来事はまた起きた。
休日の朝、望が例のコーヒー豆の袋を開けて香りが鼻をくすぐった瞬間、俺ははっとした。
「…ミディアムローストかな。」
望は一瞬、体の動きを止めた。
「ちょっと順ちゃん、いつからそんな意識高い系になったの?今までコーヒーなんて、スーパーの特売品しか飲まなかったじゃない。」
あれ、本当だ、どこで覚えたんだろう。だが俺は、なぜか脳内にあるその知識を、望に披露してみたくてたまらなくなった。
「こうやって、アルコールランプに煎り網をかざして振るんだ…しばらくすると豆から水分が抜けて、色が変わってくる…豆が爆ぜ始めたあたりで火を止めるのがミディアムローストだ。豆の個性を楽しむことができる、浅い煎り方なんだよ。」
身振り手振りで伝える俺に望はうんうんと頷き、「また暇つぶしに動画でも見てるんでしょ」と少し呆れた様子で言った。二人とも飲食には普段それほどこだわりがなく、家には本格的なコーヒーの道具すらなくて望が友達から借りてきたほどだというのに。香りには脳内の何かを呼び覚ます、不思議な効果があるらしい。
「順ちゃん、次の就職先はどこ?カフェのバリスタ?」
「やってみようかな…って言いたいのはやまやまだけどね。」
俺は苦笑いした。いくら俺でも、もとの世界で学んだスキルを活用し転生先で大活躍…なんて本気で信じるほどイタくはない。香りが呼び覚ましてくれたのは不思議な記憶だけで、粉挽きとなると、目の前のミルをどうやって動かすのかすら見当がつかなかった。結局俺たちはスマホで検索し、コーヒー道具のメーカーが提供している動画を発見した。それを見ながら粗さを調節して豆を入れ、ゴリゴリと悠長な音をたてながら回すと、指先から伝わってくる振動に、ふと、記憶ですらない、心の底にある「痕跡」がくすぐられる気がする。具体的なことは何もわからないのに、体のどこかが悲しみだけを覚えている。
「あーあ…前世の記憶が目覚めないかなあ。俺、本当はすごいスキルの持ち主だったりして。」
「はいはい、じゃあこのコーヒーケトルに電気ポットからお湯を入れて。」
俺がその通りにすると、望は粉を均一にならし、ケトルからチョロチョロとお湯を注いで器用に蒸らした。慣れないことでもたちまちそつなくこなしてしまう、優秀な俺の婚約者。子供の頃から苦手なことばかりで、空想の世界に逃げていた俺とは大違いだ。
コーヒーの滴が滴り落ちる時間にふさわしい話題を考え、同じサーバーをのぞき込みながら、俺は望にこんな質問をしてみた。
「望ちゃん、死んだ人間の考えてたことってどこへ行くんだと思う?」
「どこって…死んだら何もかも消えちゃうに決まってるじゃない。」
「うーん、死ぬ宿命を抱えている身としてはそれじゃ救われないな」、考えているうちに滴が落ちて来なくなったので、俺はドリッパーをサーバーから下ろし、望のカップに注いであげた。「きっとどこかに、死んだ人間の空想が砂みたいに積もっていく場所があるんだ。生きた人間がそこに入ると、心の中に新たな命を得ることができるんだよ。」
望はコーヒーの湯気を楽しみ、一口飲んで「本当に、順ちゃんの想像力は豊かね」と嬉しそうに笑い、そんな時いつもそうするように、俺の頭をポンポン撫でて後ろから軽く抱き寄せた。「その発想がきっといつか誰かを救うよ。」
「そうかな…救うどころか、自分が失業して困ってるんだけど。」
すぐそばにある望の顔がたちまち曇って、俺はまた余計なことを言ってしまったと後悔した。せっかく褒めてもらえたのに、わざわざ話を現実に引き戻すこともなかっただろう。
南之果島のコーヒーは、普段飲んでいるスーパーの特売品より濃厚で、ほのかな甘みが感じられた。俺がパッケージに印刷された紺碧の海の写真を見ていると、望が席を立った。
「準備は私がやったから、片付けお願いできる?私、通信の課題をやらなきゃ。」
望は今、資格取得のために勉強をしている。それが取れたら、出産でブランクができても復職しやすいのだそうで、俺の嫁はどこまでも有能だ。やはり俺は、彼女ほど現実的になることができない。再び目をやったスマホ画面では、ふじみ☆先生の訃報の下に、様々なコメントが寄せられている。俺は少し考え、自分もそこに足跡を残すことにした。
「哀悼。ふじみ☆先生は自分の作品に転生していったのかな。」
一時間後に見てみたら、どこの誰かも知らない人たちからたくさんの返信が来ていた。
「不謹慎だけど…確かに自分もそう思った。心からお悔やみ申し上げます。」
「追悼。今頃自分の用意した世界の中で、新しい冒険を初めてるんじゃない。」
「R.I.P. 別にいいんじゃないですか死者を悼む行為とはそもそもすべて脳内補完なんですよ」
「どうか安らかにお眠りください。私たちはあなたの残してくれた世界の中で生き続けます。」
俺はクスリと笑うと、スマホ画面をメールに切り替え、今度はため息をついた。応募した企業から「今後のご活躍をお祈りいたします」というメールが、また来ていた。
…こんにちは、日本の魅力的な離島を紹介する島の子ちゃんねるです。今回は東京都にある南海の楽園・南之果島からお送りいたします。
まずお邪魔したのは島の民宿「あんの」さんです。玄関を入ったゲストをお迎えするのはこちら、三匹の猫ちゃんたち。南之果島では固有種の鳥を襲う野生化した猫「野猫」が問題になっていますが、実はこの三匹も保護団体によって捕獲され、今はここで猫スタッフとして第二のにゃん生を歩んでいるんです。あら、すり寄ってきた。三匹とも外で暮らしていたとは思えないほど人懐っこいですね、あ、お腹を見せてますよ、癒されるなあ。
こちらのサンルームでは、湾の絶景を眺めながら本を読むことができます。若い人に人気のライトノベルもありますね…ああ、この島出身の作家さんなんですか。残念ながら去年二十六歳の若さで亡くなってしまいましたが、オーナーの娘さんと同級生だった縁で、ここに本を置いているそうです。
そうそう、おめでたいお知らせです。この素敵なオーナーのご一家に、今年お婿さんが加わりました。お婿さんはメカジキ漁師だそうですが、市場に卸さない他の魚がとれると裏メニューとして調理してくれることもあります。…え?「僕見た目いかついですけど気軽に声をかけてください」?フフ、娘さんと末永くお幸せに。
では「南之果島編1」はここまでです。次回は南之果島のコーヒー農園を取材してきましたのでお楽しみに。チャンネル登録といいねボタンをぜひお願いいたします…
休日の朝、望が例のコーヒー豆の袋を開けて香りが鼻をくすぐった瞬間、俺ははっとした。
「…ミディアムローストかな。」
望は一瞬、体の動きを止めた。
「ちょっと順ちゃん、いつからそんな意識高い系になったの?今までコーヒーなんて、スーパーの特売品しか飲まなかったじゃない。」
あれ、本当だ、どこで覚えたんだろう。だが俺は、なぜか脳内にあるその知識を、望に披露してみたくてたまらなくなった。
「こうやって、アルコールランプに煎り網をかざして振るんだ…しばらくすると豆から水分が抜けて、色が変わってくる…豆が爆ぜ始めたあたりで火を止めるのがミディアムローストだ。豆の個性を楽しむことができる、浅い煎り方なんだよ。」
身振り手振りで伝える俺に望はうんうんと頷き、「また暇つぶしに動画でも見てるんでしょ」と少し呆れた様子で言った。二人とも飲食には普段それほどこだわりがなく、家には本格的なコーヒーの道具すらなくて望が友達から借りてきたほどだというのに。香りには脳内の何かを呼び覚ます、不思議な効果があるらしい。
「順ちゃん、次の就職先はどこ?カフェのバリスタ?」
「やってみようかな…って言いたいのはやまやまだけどね。」
俺は苦笑いした。いくら俺でも、もとの世界で学んだスキルを活用し転生先で大活躍…なんて本気で信じるほどイタくはない。香りが呼び覚ましてくれたのは不思議な記憶だけで、粉挽きとなると、目の前のミルをどうやって動かすのかすら見当がつかなかった。結局俺たちはスマホで検索し、コーヒー道具のメーカーが提供している動画を発見した。それを見ながら粗さを調節して豆を入れ、ゴリゴリと悠長な音をたてながら回すと、指先から伝わってくる振動に、ふと、記憶ですらない、心の底にある「痕跡」がくすぐられる気がする。具体的なことは何もわからないのに、体のどこかが悲しみだけを覚えている。
「あーあ…前世の記憶が目覚めないかなあ。俺、本当はすごいスキルの持ち主だったりして。」
「はいはい、じゃあこのコーヒーケトルに電気ポットからお湯を入れて。」
俺がその通りにすると、望は粉を均一にならし、ケトルからチョロチョロとお湯を注いで器用に蒸らした。慣れないことでもたちまちそつなくこなしてしまう、優秀な俺の婚約者。子供の頃から苦手なことばかりで、空想の世界に逃げていた俺とは大違いだ。
コーヒーの滴が滴り落ちる時間にふさわしい話題を考え、同じサーバーをのぞき込みながら、俺は望にこんな質問をしてみた。
「望ちゃん、死んだ人間の考えてたことってどこへ行くんだと思う?」
「どこって…死んだら何もかも消えちゃうに決まってるじゃない。」
「うーん、死ぬ宿命を抱えている身としてはそれじゃ救われないな」、考えているうちに滴が落ちて来なくなったので、俺はドリッパーをサーバーから下ろし、望のカップに注いであげた。「きっとどこかに、死んだ人間の空想が砂みたいに積もっていく場所があるんだ。生きた人間がそこに入ると、心の中に新たな命を得ることができるんだよ。」
望はコーヒーの湯気を楽しみ、一口飲んで「本当に、順ちゃんの想像力は豊かね」と嬉しそうに笑い、そんな時いつもそうするように、俺の頭をポンポン撫でて後ろから軽く抱き寄せた。「その発想がきっといつか誰かを救うよ。」
「そうかな…救うどころか、自分が失業して困ってるんだけど。」
すぐそばにある望の顔がたちまち曇って、俺はまた余計なことを言ってしまったと後悔した。せっかく褒めてもらえたのに、わざわざ話を現実に引き戻すこともなかっただろう。
南之果島のコーヒーは、普段飲んでいるスーパーの特売品より濃厚で、ほのかな甘みが感じられた。俺がパッケージに印刷された紺碧の海の写真を見ていると、望が席を立った。
「準備は私がやったから、片付けお願いできる?私、通信の課題をやらなきゃ。」
望は今、資格取得のために勉強をしている。それが取れたら、出産でブランクができても復職しやすいのだそうで、俺の嫁はどこまでも有能だ。やはり俺は、彼女ほど現実的になることができない。再び目をやったスマホ画面では、ふじみ☆先生の訃報の下に、様々なコメントが寄せられている。俺は少し考え、自分もそこに足跡を残すことにした。
「哀悼。ふじみ☆先生は自分の作品に転生していったのかな。」
一時間後に見てみたら、どこの誰かも知らない人たちからたくさんの返信が来ていた。
「不謹慎だけど…確かに自分もそう思った。心からお悔やみ申し上げます。」
「追悼。今頃自分の用意した世界の中で、新しい冒険を初めてるんじゃない。」
「R.I.P. 別にいいんじゃないですか死者を悼む行為とはそもそもすべて脳内補完なんですよ」
「どうか安らかにお眠りください。私たちはあなたの残してくれた世界の中で生き続けます。」
俺はクスリと笑うと、スマホ画面をメールに切り替え、今度はため息をついた。応募した企業から「今後のご活躍をお祈りいたします」というメールが、また来ていた。
…こんにちは、日本の魅力的な離島を紹介する島の子ちゃんねるです。今回は東京都にある南海の楽園・南之果島からお送りいたします。
まずお邪魔したのは島の民宿「あんの」さんです。玄関を入ったゲストをお迎えするのはこちら、三匹の猫ちゃんたち。南之果島では固有種の鳥を襲う野生化した猫「野猫」が問題になっていますが、実はこの三匹も保護団体によって捕獲され、今はここで猫スタッフとして第二のにゃん生を歩んでいるんです。あら、すり寄ってきた。三匹とも外で暮らしていたとは思えないほど人懐っこいですね、あ、お腹を見せてますよ、癒されるなあ。
こちらのサンルームでは、湾の絶景を眺めながら本を読むことができます。若い人に人気のライトノベルもありますね…ああ、この島出身の作家さんなんですか。残念ながら去年二十六歳の若さで亡くなってしまいましたが、オーナーの娘さんと同級生だった縁で、ここに本を置いているそうです。
そうそう、おめでたいお知らせです。この素敵なオーナーのご一家に、今年お婿さんが加わりました。お婿さんはメカジキ漁師だそうですが、市場に卸さない他の魚がとれると裏メニューとして調理してくれることもあります。…え?「僕見た目いかついですけど気軽に声をかけてください」?フフ、娘さんと末永くお幸せに。
では「南之果島編1」はここまでです。次回は南之果島のコーヒー農園を取材してきましたのでお楽しみに。チャンネル登録といいねボタンをぜひお願いいたします…
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