遠い島の子

あつあげ

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最終章

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 翌日、俺は望を連れて尾根道のトレッキングに出掛けた。民宿のお母さんに教えてもらった、途中で海が見えるというコースだったが、歩き出してすぐ計画の甘さを思い知らされた。
 本土よりずっと低緯度にあるこの島では春とはいえ日差しは強烈で、今の気温は三十度近いだろう。昨日お母さんがわざわざ夕方に俺を連れ出したのは、暑さを避けるためだったのだ。あっという間に全身が汗だくになり、持ってきた大きな水筒から水がどんどん減っていく。だが望は案外元気で、俺と同様汗をかいてはいるがバテることなく黙ってついてきた。
「この先、海が見えるあたりに、野生化したコーヒーの木が群生してる場所があるんだって。明治時代から続く農園があったんだけど、戦争で強制疎開させられて…」
 お母さんから教えてもらったばかりの知識を披露しながら歩いていくと、森が深くなってきたせいか暑さがいくらか和らいだ。周囲に生い茂る南洋の木の、筋張った大きな葉が日差しを遮ってくれるのだ。
「確かに、こんな絶海の孤島で人の生活を維持するのは、お金も資源も大量に消費するものね。」
 望が久しぶりに外の世界に興味を持った。少し驚いて振り向くと、次の瞬間風が吹いてきて、翡翠色の樹冠の間から海がのぞき、その既視感に俺は叫びたくなるほどの衝撃を受けた。
 この景色を覚えている。俺の経験した物語は、確かにこの世に存在していたのだ。
「もう少し上がろう。海がもっとよく見えるよ。」
 物語の記憶を頼りに手入れのされた山道を上がっていくと、斜面が少し緩くなっているところがあり、背の高いシュロやシダの葉の下に、小さな白い花をつけた木がところどころに確認できた。かつて人為的に植えられたと言われれば、そう見えなくもない。
「ほら、あれがコーヒーの木だろう。」
 海の方から吹いてくる風に、大きな葉が時折サワサワという音を立てる。島を離れた病床でこの景色に思いを馳せ、不死身の機械人間になることを夢見た青年の想像世界は、その死とともにこの世から永遠に消え去った。だが俺はそれでも、聞いてみずにはいられなかった。
「望ちゃん、俺、昔夢でここに来たことある…って言ったら、信じてくれる?」
 望は返事をしない。話をする体力がなくなってきたのかもしれない。二人で黙って再びなだらかな道を歩いていくと、森が開けて、この島独特の色をした海が目の前に広がった。岬の向こうには、諸島の他の島々が続いている。間違いない。俺はかつてフジミとして、この景色を見ていた。と、かすかなゴウゴウといううなりの中で、望がようやく口を開いた。
「順ちゃん、夢の話なら信じるよ…私も昨夜、不思議な夢を見たもの。」
「夢?どんな?」
「順ちゃんなのか、それとも他の誰かなのかもわからないけど、私の大切な人がこの海の向こうに行ってしまって、それきり帰ってこなくなるの。あれって順ちゃんの言ってた『死んだ人間の思い』だったのかな。私、大切な人を亡くした誰かの記憶に入っちゃったとか?」
 俺はすぐには返事ができなかった。数年前、ふと脳裏にひらめいた空想は、もしや俺の中にいたフジミが言わせたことだったのだろうか。望の方を見ると、帽子の下の首筋ににじんだ汗が大きな滴となって、白いシャツの中に落ちていくところだった。俺は思わず指を差し出し、それを拭ってやった。フジミが最後に見た夢の中で命の象徴とした滴は、俺の指先で風に吹かれ、一瞬で蒸発していった。
「俺もよくわかんないな。それより、夢から覚めた時にどう思った?」
 望はしばらく黙り込み、海からの風で、長い髪がその横顔に張り付いた。
「…夢でよかったと思ったよ。気が付いたら隣に順ちゃんがいたもの。」
 風が声を俺の耳元まで運んでくる。
「それから、この世界をもっと見たいって思うようになった。自分は子供が産めないかもしれない、っていう以外の、もっといろんな世界の現実をね。」
 元気のいいことを言ったと思ったら、望はまたむせび始めてしまった。「だって私、もう生理が来ないんだから、どこへ行くのにも便利でしょう?」
 俺は帽子の上から、望の頭を抱き取った。喪失を抱えた俺の嫁と、大陸と一度もつながったことのない絶海の孤島を、同じ太陽の光が照らし出す。また風が吹いてきて、俺はふと、ここが藤未知彦の紡いだ物語の終点であることを感じた。どんな夢も物語も、たどり着く先はそれを見た者の生きる現実。だとしたらこれはハッピーエンドなのだろうか?結局俺は弱い人間のままで、望は大切なものを失って、何より作者である藤未知彦は、無念を抱えて死んだことに変わりはない。俺にできるのはただ、望の前に広がる世界の新しい姿をともに見守ることぐらいだ。
 見ると二人の目の前で、透き通った紺碧の海に、金色に輝く靄がかかっていた。南洋とはいえここにも四季があって、これは春の景色であるらしい。俺の中にいるフジミが、どこかで懐かしがっている。
 ただいまの時刻は午前十時二十五分、ここは緯度26.64N、経度141.16E。

(完)
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