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第13章 死闘
第229話 日曜日のデート(2)
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「あ、美智子?ゴメン。急に気分が悪くなっちゃって。……うん、大丈夫。それで、買い物なんだけど、今日はやめていいかな……」
ドタキャンを、快く承知してくれた美智子に、聡は心から済まないと思った。
もともと、今日買い物に美智子を誘ったのは聡のほうである。
6月のボーナスが出た聡は、夏物のスーツや靴を新調しようと思っていたのだ。
しかし、そんな浮き立った気持ちは、とうに失せている。
……駅前で将のミニとそれに乗り込む星野みな子を見てしまったから。
ミニが走り去ったあとも聡は、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。
惰性で私鉄に乗り、どうにか山手線の駅までやってきたが、買い物をする気分などではなくなっていた。
乗り換えへと急ぐ乗客の一番後ろから、聡はとぼとぼとホームを降りると、美智子に電話をしたのだ。
美智子への電話を切ると、ため息が出た。
嘘をついた自己嫌悪が呼び水になったように、体の中からすべての力が気体になって出ていき、聡は立っているのもだるいほどになった。
記憶力まで失せてしまったのかどうやって帰ったのかも覚えていない。
気がつくと、暮れはじめた自宅のベッドに身を投げ出していた。
目を閉じると、さっきの駅前での光景が蘇る。
薄いサングラスをかけ、窓から顔を出した将は楽しげにみな子の名前を呼んでいた。
そして駆け寄るみな子。
眼鏡をはずし、バック、サンダル、キャミソールと同系色でコーディネートした姿は浮き立つ心を表しているようだった。
二人の姿を思い出した聡は、ただ哀しかった。
瑞樹のときに感じた、腹立たしさや嫉妬はない。ただ哀しみだけが、心の中から湧き出して聡を浸した。
同い年の、健全な……誰がどんな立場で見ても似合いの二人。
二人で待ち合わせをしていたからといって、付き合っているわけではないだろう。
クラスメートだから、二人でどこかに行くチャンスぐらいはあるだろう。
そんな風に想像できる程度の冷静な思考が失われたわけではない。
今、ベッドに横たわる聡も、将が他の女性……女の子と二人でいた、というショックからは、とうに立ち直っている。
聡の中から湧く哀しみは、別のものだった。
……将がいつか、聡のもとからいなくなる。
……将に似合いの年頃の女の子を見つけて、聡は無用になる。
そんな予感を、そのまま現実にしたような二人に、聡はおびえたのだった。
『聡、お前は通過地点でしかない』
博史の声が蘇る。
若い将にとって、聡は通り過ぎる女の一人でしかない。
あれは予言だったのだろうか。
――予言になんか、したくない。
聡は、起き上がると携帯を手に取った。将の番号を表示する。
通話ボタンを押そうとして……その手を下げた。
何を話すというんだろうか。
『今日、星野さんと、どこへ行ったの?』
『星野さんのことが好きなの?』
『私のことは、気にしなくていいのよ』……。
聡は恨みがましいセリフごと携帯から手を離すと再び寝転んだ。
――女々しい。いやだ。
聡は自分の中のねちっこさから背を向けるように体を横にすると、爪の周りの逆剥けを噛んだ。
引っ張った逆剥けは肉まで深く裂けて、そこにぽっちりと赤い血がにじんだ。
ひりつく痛さに聡は冷静になる。
危うくみっともない真似をするところだった、と聡はぺろりと血を舐める。
舐めてもまた傷口の形ににじんだ血が溜まる。
血はいつか固まって、跡形もなくなるだろうけれど……。
心にこんな風な小さな傷を、何度負うのだろうか。
それとも傷ではなく、いつか聡など必要ないと、将自身からばっさり切りつけられるのだろうか。
聡は目を閉じてその痛みを想像しようとしたが、恐さに想像をやめた。
――どうして将なんか、好きになってしまったんだろう。
苦しさのカオスになった聡の心に、そんな疑問がぽっかりと浮かぶ。
もしも、博史を好きなままだったら。
何も考えずに、博史に寄りかかり、今ごろは幸せな結婚生活の真っ只中だっただろう。
わざと、そう考えて見て聡は、気がつく。
――自分が決めたことじゃないか。
将を好きになったのも、その将が大人になるまで離れて見守る、ということも……みんな聡自身が決めたことなのだ。
聡は起き上がると、飾り棚の下の引き出しを開けた。
そこにはいつかもらった、将からのバースデイカードが入っていた。
青く滲んだ将の文字。
そして、手帳を取り出して背表紙を開く。
こちらには聡がプレゼントした万年筆で書かれたセピア色のメッセージ。
2つをテーブルに広げると聡は、ただ繰り返し眺める。
「よかったね。シロが元気で」
みな子の言葉にも、将はうわの空だった。
西嶋家からの帰り道。
「……鷹枝くん?」
みな子が返事のない将を見る。それでようやく将は我に返った。
「なに、みな子」
「……大悟くん、って人のこと考えてたの?」
「ん……。まあね」
あたっていたので将は素直に答えた。
西嶋家に現れて、20万もの金をねだった大悟。そしてあの痩せ方……。
――まさか。
将の考えは、嫌でもそこへいく。……覚醒剤。
しかし、瑞樹があの薬の虜になったとき、誰よりも心配し、やめさせようとしていた大悟だ。しかも、瑞樹を失ったのはあの薬のせいだ。
――考えられない。
将は、自分でたどりついた答えを必死で否定しようとしていた。
だけど、再び思考を巡らせると、その答えにたどりつかざるを得ない。
そんな無限ループに将の脳は囚われていたのだ。
「大悟くんって、鷹枝くんとはいつから友達なの?」
将は、「中学」と質問に手短に答えると、思い出したようにみな子を振り返って
「将でいいよ」
と笑顔をつくった。
みな子はみな子で、無難な話題を持ち出したつもりだったのに、びっくりして将を振り返る。
目が合ってしまって下をむいたみな子は
「……そんな」
と呟いた。
「そんな?」
「アキラ先生に悪いし……」
将は、思いがけないところから出た『アキラ』の名前に唾を飲み込んで、前を向く。
「アキラ先生?……関係ないよ」
交差点を曲がるのに集中するふりをして、淡々と口にした。嘘をつく喉が貼り付きそうだ。
「ウソ。付き合ってるんでしょ」
二人が付き合っているという事実など、改めて確認したくないくせに、みな子はつい訊いてしまう。
さすがに将の顔を見るのがつらくて、窓の外に顔を向けた。
外はまだ明るいが、少し曇って、空はみな子の心のように変な色になっている。
「付き合ってないよ」
将はなぜ、そんなウソをつくのか。みな子は少し腹が立った。
「スキーのとき……。二人で一晩中一緒にいたんでしょ」
どうして『付き合ってない』という将の言葉を喜ばないのか、信じないのか、みな子は自分が不思議だった。
――そんな、表面の言葉を信じるほど、子供じゃない。
自分が子ども扱いされるのが……、何もしらないその他大勢扱いされるのが嫌だったのかもしれない。
みな子はさらに続けた。
「それにあたし。見たんだから。いつだったか、駅で先生と……鷹枝くんが抱き合ってるの」
自分は二人の秘密の証拠を握っている。
だから、将に一歩踏み込める……みな子は心の深いところで悦びに震えながら、将の横顔の変化を注意深く観察した。
将は将で、みな子によって暴かれた、いつかの二人が懐かしかった。
いつのことを言っているのかは、曖昧だったが、それでもまるで懐かしい物語を聞くように……あのころの二人が、幸せだった頃がフラッシュバックした。
いや、いつだって忘れることはない。
いつだって好きなときに引き出しから出せる聡の記憶。
いつになったって、決して色褪せさせやしない……。
将は、ハンドルをぎゅっと握り締めると車のつらなりの向こうに見える空に、遠い聡を見た。
「じゃあ……みな子にだけ、言っとこっかな」
「えっ……」
行く先から視線を動かさないまま、サングラスの中の瞳を細めた将を、みな子は見逃さなかった。
1ナノグラムほどのわずかな期待が、みな子の鼓動を活発にし、頬をばら色にした。
「本気で好きだから……。今は離れてる」
期待はシャボン玉のように音もたてずにはじけてしまった。
ドタキャンを、快く承知してくれた美智子に、聡は心から済まないと思った。
もともと、今日買い物に美智子を誘ったのは聡のほうである。
6月のボーナスが出た聡は、夏物のスーツや靴を新調しようと思っていたのだ。
しかし、そんな浮き立った気持ちは、とうに失せている。
……駅前で将のミニとそれに乗り込む星野みな子を見てしまったから。
ミニが走り去ったあとも聡は、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。
惰性で私鉄に乗り、どうにか山手線の駅までやってきたが、買い物をする気分などではなくなっていた。
乗り換えへと急ぐ乗客の一番後ろから、聡はとぼとぼとホームを降りると、美智子に電話をしたのだ。
美智子への電話を切ると、ため息が出た。
嘘をついた自己嫌悪が呼び水になったように、体の中からすべての力が気体になって出ていき、聡は立っているのもだるいほどになった。
記憶力まで失せてしまったのかどうやって帰ったのかも覚えていない。
気がつくと、暮れはじめた自宅のベッドに身を投げ出していた。
目を閉じると、さっきの駅前での光景が蘇る。
薄いサングラスをかけ、窓から顔を出した将は楽しげにみな子の名前を呼んでいた。
そして駆け寄るみな子。
眼鏡をはずし、バック、サンダル、キャミソールと同系色でコーディネートした姿は浮き立つ心を表しているようだった。
二人の姿を思い出した聡は、ただ哀しかった。
瑞樹のときに感じた、腹立たしさや嫉妬はない。ただ哀しみだけが、心の中から湧き出して聡を浸した。
同い年の、健全な……誰がどんな立場で見ても似合いの二人。
二人で待ち合わせをしていたからといって、付き合っているわけではないだろう。
クラスメートだから、二人でどこかに行くチャンスぐらいはあるだろう。
そんな風に想像できる程度の冷静な思考が失われたわけではない。
今、ベッドに横たわる聡も、将が他の女性……女の子と二人でいた、というショックからは、とうに立ち直っている。
聡の中から湧く哀しみは、別のものだった。
……将がいつか、聡のもとからいなくなる。
……将に似合いの年頃の女の子を見つけて、聡は無用になる。
そんな予感を、そのまま現実にしたような二人に、聡はおびえたのだった。
『聡、お前は通過地点でしかない』
博史の声が蘇る。
若い将にとって、聡は通り過ぎる女の一人でしかない。
あれは予言だったのだろうか。
――予言になんか、したくない。
聡は、起き上がると携帯を手に取った。将の番号を表示する。
通話ボタンを押そうとして……その手を下げた。
何を話すというんだろうか。
『今日、星野さんと、どこへ行ったの?』
『星野さんのことが好きなの?』
『私のことは、気にしなくていいのよ』……。
聡は恨みがましいセリフごと携帯から手を離すと再び寝転んだ。
――女々しい。いやだ。
聡は自分の中のねちっこさから背を向けるように体を横にすると、爪の周りの逆剥けを噛んだ。
引っ張った逆剥けは肉まで深く裂けて、そこにぽっちりと赤い血がにじんだ。
ひりつく痛さに聡は冷静になる。
危うくみっともない真似をするところだった、と聡はぺろりと血を舐める。
舐めてもまた傷口の形ににじんだ血が溜まる。
血はいつか固まって、跡形もなくなるだろうけれど……。
心にこんな風な小さな傷を、何度負うのだろうか。
それとも傷ではなく、いつか聡など必要ないと、将自身からばっさり切りつけられるのだろうか。
聡は目を閉じてその痛みを想像しようとしたが、恐さに想像をやめた。
――どうして将なんか、好きになってしまったんだろう。
苦しさのカオスになった聡の心に、そんな疑問がぽっかりと浮かぶ。
もしも、博史を好きなままだったら。
何も考えずに、博史に寄りかかり、今ごろは幸せな結婚生活の真っ只中だっただろう。
わざと、そう考えて見て聡は、気がつく。
――自分が決めたことじゃないか。
将を好きになったのも、その将が大人になるまで離れて見守る、ということも……みんな聡自身が決めたことなのだ。
聡は起き上がると、飾り棚の下の引き出しを開けた。
そこにはいつかもらった、将からのバースデイカードが入っていた。
青く滲んだ将の文字。
そして、手帳を取り出して背表紙を開く。
こちらには聡がプレゼントした万年筆で書かれたセピア色のメッセージ。
2つをテーブルに広げると聡は、ただ繰り返し眺める。
「よかったね。シロが元気で」
みな子の言葉にも、将はうわの空だった。
西嶋家からの帰り道。
「……鷹枝くん?」
みな子が返事のない将を見る。それでようやく将は我に返った。
「なに、みな子」
「……大悟くん、って人のこと考えてたの?」
「ん……。まあね」
あたっていたので将は素直に答えた。
西嶋家に現れて、20万もの金をねだった大悟。そしてあの痩せ方……。
――まさか。
将の考えは、嫌でもそこへいく。……覚醒剤。
しかし、瑞樹があの薬の虜になったとき、誰よりも心配し、やめさせようとしていた大悟だ。しかも、瑞樹を失ったのはあの薬のせいだ。
――考えられない。
将は、自分でたどりついた答えを必死で否定しようとしていた。
だけど、再び思考を巡らせると、その答えにたどりつかざるを得ない。
そんな無限ループに将の脳は囚われていたのだ。
「大悟くんって、鷹枝くんとはいつから友達なの?」
将は、「中学」と質問に手短に答えると、思い出したようにみな子を振り返って
「将でいいよ」
と笑顔をつくった。
みな子はみな子で、無難な話題を持ち出したつもりだったのに、びっくりして将を振り返る。
目が合ってしまって下をむいたみな子は
「……そんな」
と呟いた。
「そんな?」
「アキラ先生に悪いし……」
将は、思いがけないところから出た『アキラ』の名前に唾を飲み込んで、前を向く。
「アキラ先生?……関係ないよ」
交差点を曲がるのに集中するふりをして、淡々と口にした。嘘をつく喉が貼り付きそうだ。
「ウソ。付き合ってるんでしょ」
二人が付き合っているという事実など、改めて確認したくないくせに、みな子はつい訊いてしまう。
さすがに将の顔を見るのがつらくて、窓の外に顔を向けた。
外はまだ明るいが、少し曇って、空はみな子の心のように変な色になっている。
「付き合ってないよ」
将はなぜ、そんなウソをつくのか。みな子は少し腹が立った。
「スキーのとき……。二人で一晩中一緒にいたんでしょ」
どうして『付き合ってない』という将の言葉を喜ばないのか、信じないのか、みな子は自分が不思議だった。
――そんな、表面の言葉を信じるほど、子供じゃない。
自分が子ども扱いされるのが……、何もしらないその他大勢扱いされるのが嫌だったのかもしれない。
みな子はさらに続けた。
「それにあたし。見たんだから。いつだったか、駅で先生と……鷹枝くんが抱き合ってるの」
自分は二人の秘密の証拠を握っている。
だから、将に一歩踏み込める……みな子は心の深いところで悦びに震えながら、将の横顔の変化を注意深く観察した。
将は将で、みな子によって暴かれた、いつかの二人が懐かしかった。
いつのことを言っているのかは、曖昧だったが、それでもまるで懐かしい物語を聞くように……あのころの二人が、幸せだった頃がフラッシュバックした。
いや、いつだって忘れることはない。
いつだって好きなときに引き出しから出せる聡の記憶。
いつになったって、決して色褪せさせやしない……。
将は、ハンドルをぎゅっと握り締めると車のつらなりの向こうに見える空に、遠い聡を見た。
「じゃあ……みな子にだけ、言っとこっかな」
「えっ……」
行く先から視線を動かさないまま、サングラスの中の瞳を細めた将を、みな子は見逃さなかった。
1ナノグラムほどのわずかな期待が、みな子の鼓動を活発にし、頬をばら色にした。
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